高橋源一郎さんによる『論語』の全訳なんですが、この訳はまぁ、なんというか……かなりぶっ飛んでますね。高橋さんはこれは超訳でも創作でもないと書いてるんですが、ではこれはどう表現したらいいのか。この本の雰囲気を味わってもらうため、一部引用します。
斉の国に滞在中のことである。センセイは、斉の国の民族音楽「セイセイセイ、ヘイヘイヘイ」にすっかり夢中になってしまった。初めて味わうグルーヴ感、聴いたことのないリズム。センセイは三か月、「セイセイセイ、ヘイヘイヘイ」の虜になっていたのだった。「ああ!」センセイは思わず呻いた。
「音楽ってすごい!なに食べてたのか、ぜんぜん覚えてなかった……。わたしは、どちらかというと音楽には否定的だったが、こんなにいいものだったとはね!」
この後、センセイは、政治における音楽の効用を考えることになるのだが、そのきっかけが、この「セイセイセイ、ヘイヘイヘイ」事件なのだった。(p169)
いやいや高橋さん、「セイセイセイ、ヘイヘイヘイ」じゃあないでしょ!と言いたくなるんですが、論語のまじめな翻訳書はたくさん出てるし、こういうのが一冊くらいあってもいいのかなと。これを買う人の大半は高橋さんのファンなのだろうし。
斉の音楽を聴いて孔子が3か月肉の味がわからなくなった、という有名なエピソードも、高橋さんの手にかかるとこういうものになるわけです。
この『高橋訳論語』は自由すぎるというか、高橋さんが話をわかりやすくするためにかなり訳を現代人に寄せているところがあって、まじめに東洋思想を学ぼうという人には噴飯ものだろうな、感じるところも多々あるのです。
子游がこんなことをいった。「気をつけてください。『やりすぎ』には注意です。たとえば、王様に仕えたとしましょう。とにかく、気のきいているところを見せようとして、気がついたことはなんでもやっちゃう。王様が、ぼんやりしているので、何かこれはエッチなことをしたいんじゃないか、と思って、『王様、いい、エロ動画のサイトがあるんですが』とかいう……すいません、ちょっと、いい例が浮かばなかったもので……とにかく、そんなことをいったら、『バカ、わたしは、国内のイスラム問題を考えていたんだ』と怒られたりするわけです。
これは論語の「君に事えて数すれば斯に辱しめられ」の部分を訳したものです。主君に口うるさく意見を言えば嫌われて辱められるよ、くらいな意味ですが、高橋さんの訳はわかりやすくしようとして悪ノリしてる感じのものがけっこう多いのです。私はこういうのを笑いながら読むほうですが、格調高い文章を求める人には合わないかなと。
私はこの『一億三千万人のための「論語」教室』を読んでいて、笑えるところも多いし、堅苦しいイメージのある論語にこれで親しむ人が増えるならそれはそれでいいんじゃない?と思っていました。古典なんて面白くなければ見向きもされないだろうと。
ただこれ、中田敦彦さんのYoutube大学を「が勉強のとっかかりになるんだから少しの間違いくらい許せ」と擁護するのとあまり変わらない気もするんですよね。高橋さんの訳は間違っているというより、意図的に論語の中にない文章を足してるんですが、そんなの許せんという人もいるでしょう。
ただ、高橋さんの訳は「これ明らかに原典にないことを言ってるよな」ということは誰にでもわかるんですよね。この『一億三千万人のための「論語」教室』は訳があまりに自由すぎて、MBAだとかベネズエラだとか歌舞伎町だとかいう言葉が平気で出てくる。孔子はそんなこと言ってないのは明らかなので、ある意味親切な気もします。これが厳密な訳だと思う人は誰もいないから。
高橋源一郎さんの本なので、訳の中にはときどき政治的見解が混じることもあります。
魯の君主、哀公がセンセイにこんな質問をした。
「どうしたら、国民に政府を信頼してもらえるだろうか。ぜひ、教えを乞いたいのだが」
すると、センセイは哀公に向き合うと、はっきりこうおっしゃった。
「よくお聞きください。大切なことは、行政のトップにウソをつかない人を置くことです。そうすれば、黙っていても、国民は政府を信頼するようになります。その逆に、ウソつきをトップに据えてご覧なさい、政府への信頼は地に落ちて、誰も信用しなくなってしまいます」
(センセイ、つらすぎて、わたし、この部分を平静な気持ちでは訳せません……ちょっと、現代日本に降臨して、「喝!」ってやってもらえないでしょうか)
カッコ内の文章を論語をダシにして言いたいこと言ってるだけじゃないか、と取るか、春秋時代も現代も信頼できないトップが多いのは変わらないのだなぁ、と思うかは読者しだいです。(私は後者ですが)
というわけで、かなり癖の強い本でもありますが、翻訳が相当ぶっ飛んでいるのでかなり楽しめたことは事実です。引用した個所のノリが合う人なら、おもしろく読めるのではないでしょうか。