明晰夢工房

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大学生の「読書離れ」はいつ始まったのか?津野海太郎『読書と日本人』

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1日の読書時間がゼロという大学生が、2017年にはじめて5割を超えたという。今の大学生は経済的にあまり余裕がなく、アルバイトに忙しいからだといわれることもあるが、とにかく大学生の読書時間は減る傾向にあるようだ。齋藤孝氏などはよくこうした傾向を嘆いていて、だからこそ自著で読書の大切さをくり返し説いている。今は教養主義などほとんど滅びてしまっているし、読書で人格を高めようとする人は学生を含めてあまりいないだろう。よほど知識欲が強い人でもないかぎり、学業上必要でない本を読む理由はとくにない。

 

それでも建前上は学生の本分は勉強ではある。その学生が本を読まなくなったとなると、世の知識人は嘆くものだ。もちろんそこには自著を読んでほしいというポジショントークも働いているだろうが、書物の世界から多くの果実を得ている立場として、やはり一言いいたくなるのだろう。もっと古典に学べ、先人の知恵に触れろと。それでこそ人生が豊かになるのだと。

 

読書と日本人 (岩波新書)

読書と日本人 (岩波新書)

 

 

ところで、こうした知識人の嘆き節は、いったいいつから聞こえてきたのだろうか。津野海太郎『読書と日本人』には朝日新聞アメリカ特派員だった松山幸雄のエッセイの一部が紹介されている。

 

米国から日本に帰ってきて、いちばん驚いたのは、電車の中で大学生やサラリーマンが、恥ずかしげもなくマンガを読んでいることだった。

私はかねがね、一国の文化を支え、向上させていくのは、よい意味での虚栄心ではないかと思っている。昔は、内心では大衆読物にひかれている年齢の時に、ドストエフスキーパスカルを読んでいくうちに、ほんとにのめりこんでいく、というケースが多かった。

今の日本では、この"背伸びというのをせず、本能のままに口あたりのよいマンガを読みふける。安きに流れているのだ。(略)“教養”にまで、汗水流す気にならないのだ。

 

ここを読んでいて、なんだか懐かしい気持ちになった。90年代後半、西部邁も電車の中でマンガなんか読むな、と言っていたのを思い出したからだ。ところが、上記の松山幸雄のエッセイが書かれたのは、なんと1977年である。この時点で、すでに大学生の「読書離れは進行していた。少なくとも、そう認識していた知識人が当時存在していた。

 

津野によれば、1960年代後半にはすでに団塊世代の学生たちが少年ジャンプや少年マガジン、ガロなどのマンガ雑誌を盛んに読むようになっていたという。60年代の高度経済成長により日本の消費社会化が一気に進み、マンガ雑誌を含む新刊書は消費財として扱われるようになっていった。楽しく消費できればいいのなら、ときに退屈で難解な古典や教養書などより、マンガや大衆小説を読んだ方がいいことになる。

 

2020年に目を転じれば、現代のインテリたちは松山幸雄や西部邁のようにマンガを忌避してはいない。マンガはもはやサブカルチャーではなくメインカルチャーだ。作品によっては教養書の内にすら数えられるかもしれない。今は齋藤孝スラムダンクを語り、佐藤優がキングダムに処世術を見出す時代だ。一日の読書時間がゼロだという大学生は、マンガは読んでいるのだろうか。上記の調査でマンガを読む時間が読書にカウントされていないのだとすれば、そろそろ「読書」の定義を見直さなくてはいけない頃合いなのかもしれない。