明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

日本史リブレット『蝦夷の地と古代国家』に見る蝦夷アイヌ説と蝦夷非アイヌ説

 

蝦夷の地と古代国家 (日本史リブレット)

蝦夷の地と古代国家 (日本史リブレット)

  • 作者:熊谷 公男
  • 発売日: 2004/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

古代蝦夷とは何者かを考えるとき、蝦夷アイヌなのかそうでないのか、が古くから考察の的となってきた。だが、この問いははっきり二者択一で答えを出せるものではなさそうだ。では、蝦夷をどうとらえればいいのか。日本史リブレット『蝦夷の地と古代国家』を読めば、この問題を考えるうえで有力な手がかりを得られる。

 

本書では、蝦夷アイヌ説と蝦夷アイヌ説について、それぞれの問題点を簡潔に指摘している。まず前者については、蝦夷が稲作や馬飼など、アイヌとは異なる文化を和人から受け入れている点、蝦夷に関する文献資料が蝦夷を「化外の野蛮人」とみる偏見にとらわれている点などをあげている。

そして後者については、東北地方北部には「ナイ」「ペツ」などのアイヌ語系地名が多数存在すること、蝦夷の居住地域では続縄文土器・擦文土器など北海道系の土器が出土すること、また狩猟・肉食の文化が蝦夷に存在していたらしいことなど、のちのアイヌ民族に通ずる一面を持っていたことを指摘している。

 

つまり、古代蝦夷アイヌ的な要素と非アイヌ的な要素の両方をもっていたことになる。蝦夷の文化は北海道の続縄文文化と和人から伝わった文化の混交したものなので、蝦夷アイヌか否かとはっきり割り切れるものではない。

 

ここで蝦夷文化の形成過程とその特質を概括してみよう。気候が寒冷化する3~4世紀ごろに、北海道から東北北部に渡ってきた続縄文人たちこそが、のちの古代蝦夷の中核を形づくった人びとであった。彼らは狩猟・漁労・採集をおもな生業とし、考古学的に検出しにくい平地式住居で生活し、死後は独特の土壙墓に埋葬する習慣を東北北部に持ち込んだ。しかしながら彼らは、新天地で生活を始めるとすぐさま、盛んに南の倭人文化を取り入れ、みずからの生活文化をたえず変革していった。(pp44)

 

蝦夷はときに団結し、律令国家と何度も矛を交えている。巣伏の戦いにおいて阿弖流爲が朝廷軍を破ったように、蝦夷は敵に回せば手ごわい存在だったが、その強さの背景には続縄文文化に由来する狩猟生活がある。『続日本後紀』には「弓馬の戦闘は、夷獠の生習にして、平民の十、その一に敵する能わず」と語られているが、蝦夷の勇猛さは、ふだんから狩猟生活で弓を用いていることに一因がある。

「弓馬の戦闘」は弓の名手である蝦夷が騎乗することで成り立つ。馬飼の文化は倭人から伝えられたものであるものの、本書では蝦夷社会の中で独自の発展をとげたとされる。蝦夷は狩猟と馬飼を重要な生業としていたため、自然と「弓馬の戦闘」に秀でることになった。蝦夷倭人社会の文化を受け入れつつも、伝統的な狩猟文化を失うことなく、独自の生活形態を保ちつづけていた。

 

古代日本における蝦夷は、華夷思想における「化外の民」という位置づけとはまったく別の意味において、倭人とは異なる文化や生活習慣をもっていた。それは続縄文文化倭人の文化の入り混じる地域で形づくられたもので、アイヌの文化ともまた異なる。蝦夷はあくまで蝦夷であり、アイヌにも倭人にも分類することはできない。

 

そもそも、蝦夷アイヌか、それとも倭人かという問題設定には、人種の生物学的特徴や民族の社会的・文化的特徴を所与のものとして実体視し、それを長期にわたって不変であるとみる通念が前提となっているが、このような人種観・民族観は現在では完全に過去のものとなってしまった。民族はもちろんのこと、人種といえども、さまざまな要因によって歴史的に形成され、たえず変容していくものであり、けっして固定的なものでないことは、人類学・考古学・歴史学社会学などさまざまな学問分野の研究から明らかとなっている。この点はアイヌ倭人もけっして例外ではないのである。(p6)