明晰夢工房

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【感想】宮部みゆき『ぼんくら』の善人描写の巧みさについて語る

 

ぼんくら(上) (講談社文庫)

ぼんくら(上) (講談社文庫)

 

  

ぼんくら(下) (講談社文庫)

ぼんくら(下) (講談社文庫)

 

 

いまさら言うまでもなく、宮部みゆきはすぐれたミステリ作家だ。だからもちろん『ぼんくら』も江戸ミステリとして楽しく読み進めることができる。貧しくも平和な鉄瓶長屋を大いに騒がした、八百屋の太助の殺人事件。そして突然姿を消す人望篤い差配人・久兵衛。さらには次々と失踪する店子たち。読者はぼんくらな同心・井筒平四郎とともにこれらの謎を追いかけることになる。頭脳明晰な少年・弓之助や記憶力抜群の三太郎などに助けられつつ、鉄瓶長屋を襲った災難の謎が解きあかされていく過程で、読者は宮部みゆきの手練の技を堪能できる。

 

だが、『ぼんくら』はたんにミステリとして面白いからよい、というわけではない。宮部みゆきはいい人を書くのがうまい、といわれることがあるが、その技はこの『ぼんくら』において極まっている。この作品自体が宮部みゆきの「善人コレクション」といった様相を呈しているのだ。宮部みゆきの書く善人は、バラエティに富んでいて、リアルな息遣いが感じられる。もちろん絵空事の世界の話であるにせよ、こういう「いい人」はどこかにいそうだ、と思わせてくれる。『ぼんくら』は確かなリアリティのある善人たちがくりひろげる群像劇、としても読むことができる。

 

『ぼんくら』に登場する善人たちのリアリティはどこから来るのか。この作品においては、それぞれの人物のかかえる欠落が、その人の善性を形づくっている。ここに宮部みゆきのキャラクター造形の妙がある。たとえば鉄瓶長屋の顔である煮売屋のお徳は、一番わかりやすいタイプの善人だ。親切で人情家で、気性もしっかりしているので長屋の住人からは頼られる。感情的になりやすいが、気持ちの切り替えも早いのでそこが欠点というわけではない。

お徳の欠点は、「世間」の外側にいる人間には冷たいことだ。お徳は彼女の考える「世間」、つまり鉄瓶長屋のまっとうな住人と彼女が認めた人間にはやさしいが、佐吉のような新参者の差配人や、おくめのような遊女には冷たい。若すぎるので鉄瓶長屋の秩序を乱す(とお徳が考える)佐吉や、おくめのようにまっとうな仕事をしていない者は、鉄瓶長屋にふさわしくないとお徳は考えている。お徳の世界では何が正しく、何が間違っているかがはっきりしていて、間違っているものにはお徳は容赦がない。

 

お徳に嫌われているおくめもまた善人だ。おくめのいいところは、お徳にくらべると少しわかりにくい。なにしろ春をひさぐものだけに貞操観念が欠けている。お徳の旦那が昔よく自分のところに来ていたことを、本人の前で言ってしまう。だがこれは意地が悪いのではなく、ただおくめが世間の外側で生きていて、倫理観が少しずれているというだけだ。お徳にはさんざん辛辣なことを言われているのに、おくめは具合の悪くなったお徳の看病をしている。おくめは自分の道徳観念がゆるいかわりに、他人が向けてくる悪意にも寛容だ。お徳は後に借りを返すという言い訳をしつつ、おくめに煮売屋の商売を教えることになるのだが、これはお徳がいったん「世間」の中の人と認めた相手にはやさしい証拠でもある。

 

そして、本作の善人代表は主人公、「ぼんくら」の井筒平四郎だ。平四郎は自分を事件の捜査には向いていないと考えている。穏健な生活保守主義者の平四郎は、物事の真相を暴くことが好きではない。およそ殺人の推理などするような柄ではないのだ。同心なので仕方なく仕事はしているものの、自分が適役でないことをよくわかっている。

 

そのとおり、なんだか急に気が滅入ってしまったのだ。クサクサしてしまったのだ。どうしてまた鉄瓶長屋でこんなことが起こったんだろう。人殺しを捕まえるだの、隠し事を暴くだの、平四郎に向いている仕事ではないのだ。平四郎は、知らないことは知らないまま、聞かないことは聞かないまま、わからないことはわからないままにしておくのが好きなのだ。(p65) 

 

平四郎の善性は、怠惰で面倒なことが嫌いだ、というところから来ている。罪人に説教したり、誰かが泣きわめくところを見るのも好きではない。平四郎は「やっちまったにはやっちまっただけの理由があるもんだ」という人間観・犯罪観をもっているので、この事件の加害者の目星がついてもむしろ加害者側に同情している。平四郎はお徳の嫌っていたおくめにも同情的だが、お徳のように白黒をはっきりつけられる性格でないからこそ、おくめにも優しくできる。同じ善人であっても、お徳とおくめと平四郎ではそのタイプが全く違っているところが面白い。お徳は完全に世間の内側の住人、おくめは世間の外側の住人で、平四郎は両者の間をふらふらとしている。お徳にもおくめにもそれぞれの事情があることを平四郎は知っていて、だからこそどちらの肩も持たない。平四郎が「ぼんくら」なのは、消極的な優しさの表れだ。

 

それでも弓之助の助けを借りつつ、やがて平四郎は事件の真相を知ることになる。一連の事件を引き起こした人物にも言うべきことは言う。不幸になった者たちの気持ちも代弁する。だが、平四郎は真相を己の胸の中におさめ、世間に知らしめることはしない。すでにできあがった日常を壊すことを望まないからだ。これ以上傷つくものを増やさないという点からみれば、平四郎の消極性は美徳になる。平四郎は積極的に善をなすものではないが、世間の秩序を保つためによけいなことを言わないでおく知恵はもっている。それだけに、本作の最終章のタイトル「幽霊」は読者に強い印象を残す。平四郎の知恵によって、もうこの世にいないことにされた人物が少しだけ姿を見せるこの最終章は、世間の秩序に対する精いっぱいの復讐のようにも思える。この章に至っても、お徳がどこまでも世間の側から「幽霊」と対峙しているのに対し、平四郎の態度は最後まで曖昧なままだ。鉄瓶長屋の住人の持つそれぞれの善性は、ラストまで変わることはない。このようなキャラクターの一貫性も、この作品を安心して読み進めていける理由のひとつでもある。