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【感想】市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』

 

ユダヤ人とユダヤ教 (岩波新書)

ユダヤ人とユダヤ教 (岩波新書)

  • 作者:裕, 市川
  • 発売日: 2019/01/23
  • メディア: 新書
 

 

これを読んでいて、ユダヤ史についての知識に穴があることに気づいた。それは中世、とりわけイスラーム世界におけるユダヤ人についてだ。この本では4つの視点からユダヤ人とユダヤ教について解説しているが、1章の「歴史から見る」では「私たちの歴史認識からすっぽりと抜け落ちているのが、この中世イスラムにおけるユダヤ人とユダヤ教である」と指摘されている。

イスラーム世界において、ユダヤ人はバビロニアを中心に繁栄をとげ、とくに学問と交易の分野で活躍した。イスラームの法学はユダヤの法学に影響を与え、後ウマイヤ朝時代のスペインではユダヤ人の間にもイスラム法学や哲学、医学、言語学が浸透している。中世のユダヤ人には金貸しとしての活動や迫害を受けていたイメージがあるが、これは中世キリスト教世界におけるイメージであると本書では解説される。中世にはユダヤ人の9割がイスラーム世界に住んでいたのであり、この地では「啓典の民」であるユダヤ人は生命と財産を保護され、宗教的自治を認められていた。ユダヤ人が交易を得意としていたのも、広大なイスラーム世界の中で移動の自由を認められ、広域の商業ネットワークを作ることができたからでもある。

 

宗教としてのユダヤ教の特異性は、第二章「信仰から見る」で知ることができる。この章では、西暦200年ごろに編纂された口伝律法集「ミシュナ」の特色について解説されているが、この律法集には神殿供儀や祭日の規定、穢れの清め方など、狭い意味での「宗教」に該当する要素だけが含まれるわけではない。ミシュナには家族法を定めた巻や、日常生活のルールを定めた巻もある。ミシュナはユダヤ人が社会生活を営むためのルールも決めているのである。つまり、本書の表現を借りればミシュナは「持ち運びのできる国家」ということになる。国家を失い、世界中に離散したという歴史認識を持つユダヤ人にとって、世界のどこにいてもユダヤ社会を維持できる律法が必要だった。

 

ミシュナは人間は律法が教える現世の戒律に従っていればいい、と教えている。ミシュナはは天上の神の領域や終末論などについて思索する者は「あたかもこの世に生まれてこないほうがよかった」としているが、これはギリシャ哲学の影響からユダヤ人を守るためと解説されている。第3章「学問から見る」では、ギリシア哲学の形而上学的思考はユダヤ人を大いに魅了したと書いているが、ラビたちがギリシア哲学を拒絶するために示した決定がミシュナの規定に垣間見られるという。一時期はギリシア哲学にふれたユダヤの若者が割礼の跡を消そうとしたともいわれるが、結局ユダヤ人はローマ人のようにギリシアの文化に征服されることはなかった。ユダヤ人がユダヤ人としてのアイデンティティを保ててきた原因の何割かは、ミシュナにあるようだ。