明晰夢工房

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【書評】中国歴史人物選『秦の始皇帝 多元世界の統一者』

 

 

始皇帝の本は古いものだと、どうしても史記のエピソードを並べることに終始しがちだ。長平の戦い、呂不韋と出生の秘密、嫪毐の乱荊軻の暗殺未遂事件、焚書坑儒と長城建設、全国巡遊と始皇帝陵の話を書いたら大体終わる。それぞれの出来事に著者なりの解釈をほどすことはあっても、とりあげる話題はそう変わらない。始皇帝にまつわるトピックはすべて有名なものばかりなので、知っている人はいまさら同じ話を本で読む必要もないか、と思うかもしれない。

 

となると、始皇帝とその時代について新しい話題を提供できるのは、考古資料ということになる。幸い、秦代については竹簡や木簡という格好の手がかりがある。中国各地から出土している竹簡・木簡は文字資料の隙間を埋めてくれる貴重なものだ。本書『秦の始皇帝 多元世界の統一者』でも、1章を竹簡に費やしている。この本の7章「竹簡は語る」を読むと、秦帝国の意外な統治の実態もみえてくる。

 

第7章で一番印象的なのは、秦帝国における尋問の手順を記した文章だ。

 

取り調べのさいには、当事者の言い分をすべて聴取し、それを記録しておくこと。各自に供述させるにあたっては、嘘をついていることがわかっても、そのたびにいちいち詰問してはならない。供述がすべて終わって弁解がなければ、そこで初めて不審な点を詰問せよ。詰問されて返答につまり、(犯人であることが自明であるにもかかわらず)何度も嘘をつき、言を左右にして認めず、(その態度が)律の規定にてらして拷問に相当するならば、そこで初めて拷問せよ。ただし拷問した場合には、そのむね文書に明記しておかねばならない。

 

秦の取り調べはとにかく痛めつけて自白させればいい、というものではなかった。拷問は認められているが、それも秦の法律で必要と認められるときだけ用いるものだった。秦の法律が厳しかったことは間違いないが、それは民衆だけでなく役人にも適用される。裁判に公正を欠いた役人は南北の辺境へ強制移住させられた。

 

始皇帝が中華を統一した後、その治世の後半は匈奴と南越の征服事業に費やされている。不正を働いた役人が強制移住させられたのは秦が征服したこれらの土地だ。この遠征はどのような意図のもとに行われたか。匈奴に関しては「秦を滅ぼすものは胡なり」と書かれた預言書を読んだからという理由は成り立つが、それなら南越の地を征服する必要はない。

秦が南北の辺境に手を伸ばしたのは、本書によれば支配者としての正当性アピールだ。六国の征服を正当化するためには、これらの国ではなしえなかった事業を始皇帝が成し遂げたという説明が必要だった。「中華」の外の領域まで征服するのは、始皇帝が天下の統一者として認められるための政治的行為だった。

 

人間・始皇帝 (岩波新書)

人間・始皇帝 (岩波新書)

  • 作者:鶴間 和幸
  • 発売日: 2015/09/19
  • メディア: 新書
 

 

この征討事業の負担が重いため、結局内乱を招いてしまったことは疑いない。「六号の内は皇帝の土」という理念のための政治は、民衆に多大な苦労を強いた。『人間・始皇帝』では、いわゆる「焚書坑儒」は南北の征服事業への批判を抑えこむためのものだったと指摘されている。裏を返せばそれだけ知識人の戦争批判が激しかったということでもあり、これを弾圧した時点で秦のイメージが悪いものとなるのは必然だった。知識人の中には儒者が多く含まれ、のちに儒家イデオロギーが中国を染めることになるからだ。

 

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