明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

なぜ清朝の中国では産業革命が起きなかったのか?岡本隆司『「中国」の形成』

 

「中国」の形成 現代への展望 (シリーズ 中国の歴史)
 

 

岩波新書のシリーズ中国の歴史の最終巻になるこの本のまえがきでは、アジアと西洋の「大分岐」についてふれている。18世紀の終わりころからイギリスなど西欧では産業革命がはじまり、以降西欧諸国の覇権が決定的となったが、この分岐が起こる前の東アジアもヨーロッパと経済水準は同じだったというのだ。では「大分岐」はなぜ起こったのか、が問われることになる。本書の三章「盛世」は乾隆帝の時代を扱っているが、この章では部分的にではあるが、この時代の清朝産業革命が起こらなかった理由について解説している。

 

18世紀後半の清は乾隆帝の時代にあたり、人口は増加していて景気も良い時代だった。康熙帝の時代は「康熙デフレ」といわれるほどの緊縮財政の時代であり、鄭成功に対抗するため貿易が制限されていたこともあり、景気はよくなかった。一方、乾隆帝は贅沢の権化のような存在である。美術工芸品の収集や離宮の建設など、浪費のエピソードに事欠かない乾隆帝の個性は、「乾隆インフレ」とよばれるゆるやかなインフレが続き、好況に沸いた世相の反映でもある。

 

清朝の時代の中国の景気は、おもに海外からの銀の流入量に左右されている。本書の三章では「貯水池連鎖モデル」で中国市場の構造を分析しているが、これは各地域の市場ユニットを貯水池にたとえたものだ。海外との貿易で銀が市場に入ってくれば、商品への需要が高まり、モノが売れてその地域が潤う。結果余裕を持った地域が他の地域の商品を買うことで、別の貯水池に水(=銀)が流れ込む。この連鎖により好景気が生まれる。中国経済の体質としてひとつひとつの「貯水池」の底は浅く、外からしか水が流入しないため、西洋からの商人がおびただしく中国にやってきた18世紀後半は自然、好況になった。

 

経済全体は好調であったにもかかわらず、中国では同時代のイギリスのように資本は蓄積されず、産業資本は育たなかった。これはなぜだろうか。著者はこのように分析する。

 

大きな事業資本をそろえるには、いかに裕福でも自己資金だけでは足らない。なるべく多くの人から、遊休の資金を集めるのが捷軽である。その場合、何より重要なのは信用であり、見ず知らずの人に資金を貸しても、確実に返済してもらえる保証が欠かせない。不特定多数の人からそうした貸与・投資を促すような、リスク回避のしくみが必要なのである。

それには、ヒックスのいう公権力・国家による「規則」、具体的にいえば、権力による広域的、統一的な金融の管理・市場の規制・背任への制裁を可能とするようなしくみを構築しなくてはならない。また現代の感覚でいえば、それぞれの民間企業に会計監査や破産手続きなどを義務づけたほうがよい、ということにもなる。

ともあれ世界史上、そうした制度を創出できたのは、イギリスのいわゆる「財政=軍事国家」であり、私見ではイギリス・西欧にしか、そうしたシステムは発祥、ひいては発達、完成することがかなわなかった。イギリスを嚆矢とする株式会社や銀行・公債がその典型であり、上下・官民いずれにも適用される共通の法則が、政治・経済・社会を組み合わせて一体的にコントロールする、という制度構築がその根幹にある。

私法・民法・商法の領域・民間の社会経済に、権力が介入できたかどうか。西は是であり、東は非だった。そこに「分岐」の核心がある。

貸借の保証はそのため、東では個々人間の信頼関係でなりたたせざるをえない。信用はその範囲にしか及ばないから、金銭を貸借できる対象も、自ずから限られる。投資したところで回収できないので、余剰・遊休の資金は奢侈に費やされるのでなければ、市場に出ずに退蔵されてしまう。

これでは、いかに富民でも、大きな資本がもてない。そのため「盛世」の事業資本は、われわれが想像するよりも、はるかに小さかった。たとえ富裕な大商人であっても、たえず運転資金の欠乏に苦しんでいたのである。貧民はもとより、富民も限られた資本を奪い合い、決して安穏を約束されてはいなかった。

 

 中国はイギリスと異なり、資金を資本家に集め、産業を育成する社会システムを作れていなかった。この時期、中国の人口は爆発的に増えていたが、これを吸収できる産業が育っていなかったため、労働の対価は限りなく低く抑えられ、民衆の貧困化は進む一方だった。華人が「苦力」とよばれ過酷な労働に耐えると評価されたのには、このような時代背景がある。

 

人口が増えても耕せる土地が急に増えるわけではないから、農村からあぶれた人々は都市へ流入するか、未開地へ移住するしかない。だが移住民に対して既存の社会は冷たく、時に迫害も加える。不満をつのらせた移民は反体制に傾きがちで、秘密結社や宗教団体がこれら移民の受け皿になった。湖北や広西・四川などの辺境に移住した民の間に広がったのが白蓮教信仰であり、白蓮教徒は1796年には蜂起するにいたる。産業革命なき人口爆発は多くの場合、民衆の貧困化を招き、不穏な社会情勢を生む。産業革命の起きた西欧と起きなかった東アジアの違いについては、マクニールが『世界史』で以下のように簡潔にまとめている。

 

西欧でも人口は急速に増加した。だが大部分の西欧諸国にとっては、産業革命によって新しい雇用機会が作り出され、増えつづける植民地への移住が利用できたことから、人口の着実な増加はむしろ力の源泉となった。人口増加にこのように対応することは、日本をのぞく東アジアの国々にとっては不可能であった。アジアの場合、都市全体が経済的に破綻していた。都市部に拠点を置いた伝統的な熟練手工業、ことに織物を中心とした産業が、西欧の機械製品と競争できなくなっていたのである。都市は仕事を失った職人集団という重荷を抱えこみ、農村部の過剰人口を吸収するだけの生産的活動の機会を提供できなかった。それでも依然農村からは、都市部にむかって人口が流出していった。故郷では生活することのできない南百万人もの貧しい農民たちが、都市に流れこんだ。彼らを待っていた運命は飢えて死ぬか、あるいは臨時のはした仕事をみつけて最低生活をするしかなかった。このようにしてアジアでは、膨大な数の都市貧困層全体が不満と挫折をくすぶらせたまま、政治暴動への火種を抱える集団を構成した。

 

世界史 下 (中公文庫 マ 10-4)

世界史 下 (中公文庫 マ 10-4)