明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】小川仁志・萱野稔人『闘うための哲学書』理性でいじめを止められるか?

 

闘うための哲学書 (講談社現代新書)
 

 

基本的にあまり哲学に興味がないのだが、この本のスピノザの『国家論』の内容を引きつついじめがなぜなくならないのか、を論じている箇所は面白い。萱野稔人氏はもともとスピノザの研究者だが、彼によればスピノザマキャベリホッブズの系統に連なる哲学者で、「人間は取るに足らない存在」という認識から議論をはじめているのだという。萱野氏はこの対談で、『エチカ』の以下の部分を引用する。

 

思うに次のことは確実な事柄であり、かつ我々は『エチカ』においてその真なることを証明している。すなわち、人間は必然的に諸感情に従属する。また人間の性情は、不幸な者を憐れみ、幸福な者をねたむようにできており、同情よりは復讐に傾くようになっている。さらに各人は、他の人々が彼の意向に従って生活し、彼の是認するものを是認し、彼の排斥するものを排斥することを欲求する。(p122)

 

人間は諸感情に従属する、つまり感情にたやすく振りまわされる存在だ、というのがスピノザの基本的な人間観だ。スピノザは哲学者が往々にしてきれいごとや理想から議論を始めることに批判的で、人間や社会・国家を論じるならもっと身もふたもないところから始めないといけないと主張している。萱野氏もこのスピノザの見解に同意する立場だ。

 

人間が「諸感情に従属する」存在なら、いじめもまた人間の本質に深く根差す行為だということになる。スピノザの見解に立つなら、人間が人間である以上、必ずいじめは起きてしまうのだ。だが対談相手の小川仁志氏は「人間は本来いじめをしない存在だと思いたい」と言っている。人間は本来理性的存在で、それが例外的にうまく働かなくなるからいじめが起きる、というのが小川氏の立場だ。この本の対談はどれもそうだが、どちらかというと小川氏が(スピノザに批判されがちな)理想主義的な立場から論じている。

 

人間は理性的存在か、諸感情に従属する生き物か。この二択なら私は後者が正しいと考える。炎上商法ひとつとってみても、相手にしないのが一番いいと頭ではわかっているはずなのに、皆が叩きに参加して結局仕掛けた者の知名度を上げてしまう。理性的なのは燃やされている側と、煽りを無視できる一部の人だけだ。人間が理性的存在なら、こんなやり方がノウハウとして確立することはない。人は理性を持っているが、それをうまく機能させられることのほうが少ないように思える。

 

人間をどのような存在ととらえるかで、いじめ対策も変わってくる。人間が理性的存在なら、必要なのは啓蒙だ。小川氏が主張するように、高校生を集めて議論させれば、皆いじめはいけないということにすぐ気づく。そのくらいの理性は人間にはある。だが、ちょっと考えればいじめはいけないと理解できるのに、結局いじめがなくならないのは、考えが変われば行動も変わるというのが虚構でしかないからだ、と萱野氏は主張する。啓蒙は無意味ではないが限界があり、ここに過度に期待をかけるわけにはいかない。

 

では、どうすればいじめを止められるのか。残念ながらこの対談では答えは示されていないのだが、より抽象度の高い話が対談の後半で出てきている。一般的に、人の行動を導こうとするなら、法律や罰則、褒賞などを用いる場合と、啓蒙や教育を用いる場合とがある。後者の方法論への批判があまりないことを萱野氏は危惧している。人の理性に訴えかける方法は手間がかかり、しかも人の内面に踏み込まなくてはならない。権力が人の内面を取り締まることを警戒する萱野氏は、あまり人の理性には期待しない。

 

しかしその立場だと、小川氏が言うように、悪いことをしたものは処罰するなど、対処療法的な解決策に頼ることになる。もっと理性を働かせる方法はないのだろうか。萱野氏はこう考える。

 

ですので、その「理性への意志」を高めようとするにしても、それは「他人からよく評価されたい」とか「自分の正しさに他人を同調させたい」といった人間の情動を刺激したり利用したりすることによってしか可能ではありません。だから親や教師の前ではいい子でも、いじめの加害者になるということが十分起こりうる。理性だけで人間の行動を改善することには限界があるということです。

 

「いじめかっこ悪い」などは、まさに情動を刺激することで「理性への意志」を高め、いじめをやめさせようとするために出てきたフレーズだが、これでいじめを止められるとはあまり思えない。いじめが「かっこ悪い」行為なら、表立ってやらないようにするだけだ。隠すということはいじめが悪いことだと皆わかっているということで、その程度には人は理性を持っているが、わかっていてもやめられるほどの理性はない。

 

いじめは流動性の低い集団で起きやすいといわれるし、だから解決策として学級をなくすという提案をしている社会学者もいる。人はいじめをしてしまう生き物だという前提に立ち、だから環境を変えるべきという立場だ。現実的に考えるなら、いじめに限らず人間の悪行を減らしたければ、スピノザのような人間観に立つ必要があるように思えてくる。

 

saavedra.hatenablog.com

啓蒙がまったく無駄な行為だとは思わない。たとえばこのような本を読むことで、「ずるい言葉」を使わないよう心がけるようになる人はいるだろう。だが、このような本を買う人は、ふだんから差別やジェンダーなどの問題について意識している人ではないだろうか。こういう本を読んで考えが変わるのなら、その人はもともとかなり言葉に気をつけているはずだ。差別上等でいくら人を傷つけようが構わない人は、おそらくこうした本を手に取らないだろう。そういう人を啓蒙することは、はたして可能なのか。孔子ですら「上知と下愚とは移らず」といっている。たいていの人は上知(最上の知者)でも下愚(最下の愚者)もないから啓蒙できるのだろうか。私は孔子や小川氏ほど人間には期待できないのだが、それだけに小川氏の性善説的な主張にも魅力を感じるところはある。