明晰夢工房

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念仏は信じられない人も救ってくれる?ひろさちや『日本仏教史』

 

 B'zの曲に「信じる者しか救わないセコい神さまより僕と一緒にいるほうがいいだろ」みたいな歌詞があるが、信じていない者を救ってくれる神様はいるだろうか。神様はともかく、仏様ならいるようだ。『日本仏教史』では、一遍のこんな言葉を紹介している。

 

 名号は信ずるも信ぜざるも、唱ふれば他力不思議の力にて往生す。

 

名号とは南無阿弥陀仏の六文字のことである。信じようと信じまいと、念仏を唱えればその力によって極楽浄土へ行くことができる。信じてなくても救われる、というのは信仰として相当ハードルが低い。だが一遍もはじめからこれでいいと思っていたわけではない。一遍がこのような教えを説くに至るまでの苦悩を、この本ではわかりやすく解説している。一遍が「信心は関係ない」と確信するに至った経緯は以下のようなものだ。

 

一遍は36歳で故郷の伊予を離れ、遊行の旅に出て念仏の札を配って歩いた。だが熊野で一遍は信仰の危機に直面する。熊野の本宮へ向かう途中、一人の僧に札を配ろうとしたとき、その僧は「信心が起きないのに札を受け取れば、妄語(嘘をつくこと)の罪を犯すことになる」と札を拒んだ。この僧が受け取りを拒めば他の参詣人も同じことをすると慌てた一遍は、「信心が起きなくても受け取りなさい」と念仏札を渡した。

 

この場では大勢の人が念仏札を受け取ってくれたものの、一遍は悩む。信仰心が起きないのに唱える念仏に意味はあるのか。そんな念仏で人々は救われるのかと。一遍は熊野本宮の証誠殿に籠もり、神勅を仰いだ。すると熊野権現が山伏の姿をとって現われ、「一切の衆生南無阿弥陀仏と唱えた瞬間に往生すると決まっているのだから、信・不信を取捨することなく札を配れ」と説いたのだという。

 

この体験で一遍の迷いは消え去ったということだが、信心が起きない者も救いたいという気持ちが、このような宗教体験をさせたのだろうか。実は、この「信心」は親鸞の考えでは自分で起こすものではなく、「如来よりたまはりたる」ものだ。信仰心は阿弥陀如来から与えられるのだとすれば、信心が起きない人はどうすればいいのかわからない。自分の意志で信心を起こせないのだから。

 

念仏を信じられない人は救われないのだろうか。どうしたってこの疑問は沸く。ここで、著者はキリスト教の予定説と親鸞の教えを比較する。神はあらかじめ救う者とそうでない者を決めていて、救われる予定の者は必ず神を信じるようになる、というのが予定説だ。ところで、阿弥陀仏も救う者と救わない者をあらかじめ決めているのだろうか。もちろんそうではなく、阿弥陀仏は一切の衆生を極楽世界に迎えたいと願っている。信じられないから救われないわけではない。しかしそれでも信心が起きないという悩みは残る。そんな人はどうするべきか。この本で紹介されている親鸞の言葉はこうだ。

 

 「詮ずるところ、愚身の信心においてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」

(つまるところ、わたしの信心はこれだけだ。この上は、念仏を信じる/捨てるは、それぞれの勝手である)

(p149)

 

親鸞は念仏を信じられないと悩む人は阿弥陀仏がそうさせているのだから仕方がない、という達観に立っているというのが著者の考えだ。しかし悩める人々をこう突き放せないのが一遍なのである。結局、信心は問わないことになった。一遍はよほど真摯な人だったのだろう。もちろん法然親鸞もそれぞれに真摯なのだが、真摯さのかたちは異なる。『詳説日本史研究』では法然親鸞・一遍の教えをこのように整理している。

 

詳説日本史研究

詳説日本史研究

  • 発売日: 2017/08/31
  • メディア: 単行本
 

 

法然:ひたすら念仏を唱えようとする人々の努力が阿弥陀仏の救いをもたらす

親鸞阿弥陀仏の救いを信じる心が起こったときに救いが決定する

一遍:努力の有無や信不信にかかわらず、名号を唱えれば救いがもたらされる

 

こうしてみると、やはり一遍の教えがもっともハードルが低いと思える。信じなくても救ってくれる阿弥陀仏が慈悲深いのか、そのように説いた一遍が慈悲深いのか。いずれにせよ、一遍が悩める人々と真剣に向き合っていたことだけは確かである。