明晰夢工房

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【感想】冒険も結婚も「中動態」でしか記述できない?角幡唯介『そこにある山 結婚と冒険について』

 

そこにある山 結婚と冒険について

そこにある山 結婚と冒険について

 

 

冒険と結婚を哲学する、といった趣の本だった。著者のことをよく知らないで読んだのだが、この本は冒険そのものを求めて読むと当てが外れるかもしれない。一方で、角幡唯介が冒険と結婚という、相反するようにも思える行為についてどう思索をめぐらせてきたのか、を知りたい読者にとっては、これは必読書になるだろう。

 

まず序章がおもしろい。著者がさんざん訊かれてきた「なぜ冒険するのですか?」という問いに対する、角幡唯介なりの答えがここにある。本書の序章「結婚の理由を問うのはなぜ愚問なのか」において、著者は冒険こそが男にとっては自分の身体ひとつで死を身近に感じ、生の実感を得られる行為なのだと述べている。妊娠・出産を経て自分の身体で命そのものを感じられる女とは違い、男は外の世界に実存の根拠を求めなくてはならないのだと。

 

この章において、著者はポール・ツヴァイクのこんな言葉を引用している。

 

冒険者の才能は、拘束者を拘束すること、女性の謎めかしいアイデンティティーの裏をかいてそれを打ち負かすことにある。冒険者が打ち負かす相手の女性は、家というものの魅惑的な”家庭性”──馴致性──と共同体の空間を表現しているのであり、家と共同体は不動で、将来の予測がつくものであり、人間外の世界の没道徳的な霊力から防護されている。女性は、人間的な──と言うのはつまり社会的な──必要という安全な休息所──息をつく空間──を司っているのだ。〉

 

ツヴァイクは冒険を求める男性原理を、女性からの逃走なのだといっている。著者はこの見解に同意しつつ、冒険を社会や時代のシステムの外側に飛び出そうという行為だと位置づけている。そのような逸脱を許さず、男を家というシステムにつなぎとめておこうとするのが女という存在だというのだが、実際どうなのだろうか。ざっくり男女で分けすぎな感じはあるものの、大まかに言えば男女でそれぞれこのような傾向はあるかもしれない。男女というよりは、男性性と女性性の特徴といえばいいだろうか。

 

であれば、結婚は冒険とは相反する行為であり、冒険家として生きるなら結婚などしないほうがいいことになる。ところが角幡唯介は結婚した。そのせいか、いつからか「なぜ冒険をするんですか」ではなく「なぜ結婚したんですか」と質問されるようになったという。ふつうの職業の人ならこんな質問は受けないだろうが、やはり冒険家と結婚はどこかなじまないイメージがあるのだろう。

 

では、「なぜ結婚したんですか」という問いに角幡唯介はどう答えるか。彼にとって結婚とは「選択ではなく事態」だという。結婚はみずから選び取ったものではなく、さまざまな事象が複雑に絡みあい、推移した結果だというのだ。それ、要は「なりゆき」ってことでしょう?と言ってしまうと身も蓋もなさすぎる。このような状況をさすのにもっとふさわしい言葉がある。スピノザ哲学者・國分巧一朗が光を当てた「中動態」だ。

 

 

角幡唯介はこの本の3章「漂白という〈思いつき〉」において、『中動態の世界』を紹介している。かつて古代世界に存在していたこの文法は、能動態・受動態に還元されない人間のふるまいを記述するためのものだった。角幡唯介は問いかける。人が行為をするとき、本当に意思にもとづいているのかと。角幡唯介は今の妻と交際中、はじめは結婚する気はなかったそうだ。だがいつのまにか、事態は結婚する方向へと動いた。明確に結婚を意図したわけではなく、かといって結婚を強要されたわけでもないのなら、この状況は「中動態」的だというしかない。

 

とはいえ、「なんかそういう流れになったから結婚したのです」では多くの人は納得してくれない。少なくとも配偶者はそうだろう。角幡唯介がこの章で書いているとおり、彼の妻は「何が中動態よ。何が事態よ。あなたが結婚したかったから結婚したんでしょ」と反発している。中動態がどうとか言われても、なんだか無責任な感じがしてしまうのだ。そう、まさに行為に責任をとらなくてはいけないからこそ、中動態より能動態が求められるようになっていったらしい。明確な意思をもってそれを行った、ということにしなければ、行為に責任をとらせることができないからだ。

 

結婚がそうであるように、冒険もまた中動態的なものだと角幡唯介はいう。たとえば彼が北極への滞在を続けるうち土地との関係が深まり、思考が変化し、いつのまにか長期狩猟漂白を試みるようになる。事態はしばしばこざかしい人間の意図を超え、予想もつかないほうに転がっていくものなのだ。思えば人生における行為など、大部分はそんなものかもしれない。この『そこにある山 結婚と冒険について』にせよ、書店に入った時点では買うことすら考えていなかった。だが気がつけば手にとっていた。では、今しているこの行為は中動態的読書とでもいうべきものだろうか。それははっきりとはわからない。確かなことは角幡唯介という人が興味深い人物であるということと、この本がとても面白い、ということだけである。