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「日出処の天子」は倭と隋が対等という意味ではない?河上麻由子『古代日中関係史 倭の五王から遣唐使以降まで』

 

 

 「日出づる処の天子より、日没する処の天子に書を致す」──これは、聖徳太子が隋の煬帝に送ったとされる書状の文言としてあまりに有名だ。だがこの文章はあまり聖徳太子のイメージとそぐわない。深く仏教に帰依し、思慮深い人物だったという厩戸皇子が、倭国と隋が対等の存在だといわんばかりの書状を送るものだろうか。厩戸皇子は対外関係においては案外タカ派だったのか、隋と倭の国力差を理解していなかったのか。小野妹子が持参した書状が煬帝の目にふれたとき、大いに怒りを買うとは考えなかったのだろうか。

 

この疑問に対するひとつの回答が、『古代日中関係史 倭の五王から遣唐使以降まで』には書かれている。著者の河上麻由子氏の指摘によれば、倭国の書状の「天子」は仏教用語であり、中華思想上の「天子」ではないのだという。

 

中華思想では、天子は複数存在しえない。よって書状の天子を中華思想で理解することは、原則的に不可能である。倭王と隋皇帝の二人を天子と呼んでいるからである。皇帝を「菩薩天子」とたたえる使者の発言を踏まえるならば、倭国の書状にある「天子」は、諸天に守護され、三十三天から徳を分与された国王と解するべきである。(p89)

 

『金光明経』では、「天子」を人界の王という意味で使っている。神々の守護を受けて神通力をそなえ、衆生を教化する国王がこの経典における「天子」だ。倭国がこの意味で「天子」という言葉を使っているとすれば、倭王はあくまで「仏教王」を自称しただけで、隋の皇帝と対等な存在だと主張したわけではないことになる。

 

だが、煬帝倭国の書状を読んで不快になったと『隋書倭国伝』は記している。これはなぜだろうか。著者によれば、これは日本が仏教後進国だからということになる。インドやスリランカカンボジアも、自国の崇仏を自負する書状を隋に送っているが、これらの国々は長く仏教を信仰してきた歴史がある。それにくらべ、倭国は本格的な伽藍がようやく建設されたばかりだ。そんな国の国王が「仏教王」を自称するのは不遜だ、ということになってしまうのである。

 

倭国の書状が煬帝を「菩薩天子」とたたえているように、外交文書に仏教用語が登場するのは、この時代の国際関係に仏教の知識が必要不可欠なものになっていたからだ。隋は北周から禅譲を受けて成立した王朝だが、北周では大規模な仏教弾圧(廃仏)がおこなわれていた。隋の文帝は人心を隋に集めるため、禁止されていた僧侶の出家を認め、寺院や仏像を修理するなど、仏教の興隆につとめた。北周とは違い「仏教帝国」となった隋に、周辺諸国も追随する動きをみせている。文帝は大規模な舎利塔建立事業をはじめたが、高句麗百済新羅の使者は、隋に舎利の下賜を願い出ている。仏教を介した国際交流がおこなわれる東アジアの空気に、倭国も合わせようとしていたようだ。

 

この本の95ページには、隋が突厥高句麗など周辺諸国にどれだけの兵力を動員したかがまとめられている。この表をみると、隋は突厥相手に40万もの兵を出したこともある。隋は東アジアの超大国であり、隋と倭国との国力差を倭国側が理解していなかったとは考えにくい。倭国は対等外交を展開したかったのではなく、倭国なりにリアリズムに基づく外交を行いたかったのではないだろうか。「日出処の天子」の呼称は結果として煬帝の不興を買ってしまったが、もしこの呼称が隋との対等を意識した中華思想上の「天子」だったなら、煬帝が不機嫌になる程度ではすまなかっただろう。倭国は隋の圧倒的優位を認めていたのであり、だからこそ聖徳太子も冠位十二階などの制度改革をおこなった、と本書はまとめている。

 

政治的にも、軍事や文化活動を支える経済の面でも、仏教をはじめとする文化の面でも、倭国は隋に対抗できるレベルにはない。600年の第1回遣隋使により、自国の政治体制が未発達であることを痛感した倭国は、先述した官位十二階や十七条憲法の制定など国内制度整備を急いだ。隋の圧倒的優位を認めていたからこそである。隋と対等な関係を目標としたために冊封を要求しなかったとはいえないだろう。(p96)