明晰夢工房

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戦国時代に大進歩を遂げた京都のトイレ事情

 

 

前近代の都市は大体どこもそうだが、古代の京都もかなり不衛生な都市だった。『京都<千年の都>の歴史』では、平安京の路上の様子について以下のように紹介している。

 

10世紀後半成立の『落窪物語』に、雨降る闇夜に小路から大路に出た男主人公が、身分高きものの行列に出会い、控えろの叱声にしゃがんだところ、「屎のいと多かる上にかがま」ってしまう場面がある。平安京の街路の一部に糞便が溜まっていたことを伝える情報である。『今昔物語集』にも、「此の殿に候ふ女童の大路に屎まり居て候つるを」、あるいは「若き女の……築垣に向て南向に突居て(しゃがんで)尿をしければ」などとみえており、前述の桶洗のような「下賤」な従者の排便放尿は、邸外路上でおこなわれていたことがうかがえる。邸内の便所を使用するには、一定以上の身分と資格が要求されたのであろう。

 

古代の平安京では、路上がそのまま排泄の場になっていた。このため平安中期以降、路上の排泄物の掃除は検非違使の担当になった。検非違使は掃除夫を使い、路上に散乱する排泄物を片付け、貴人がケガレに汚染されないよう努めなくてはならなかった。

 

ところが、京都のこの衛生状態が、戦国期に大きく改善される。洛中洛外図屏風には町屋の共同便所や、路上の公衆便所が描かれている。これはルイス・フロイスの『日欧文化比較』における「われわれの便所は家の後の、人目につかない所にある。彼らのは、家の前にあって、すべての人に開放されている」という記述を裏書きするものでもある。慶長14年(1609)にはドン・ロドリゴが「かくの如く広大にして交通盛に、また街路及び家屋の清潔なる町々は世界のいずれの国に於ても見ることなきこと確実なり」と『日本見聞録』で書いている。かつて不潔だった京都は、世界でも珍しいくらい清潔な都市に変貌していた。

 

これはなぜだろうか。『京都<千年の都>の歴史』では理由として、人の屎尿が肥料として求められるようになったことをあげている。排泄物を肥料にするには肥溜めに貯蔵して熟成させる必要があり、その前提としてトイレを設置しなくてはならなくなる。

 

美食者の糞尿は粗食者より肥料効果が大きい。当然農村より生活水準の高い都市のものが歓迎される。京都近郊では野菜など畠作物への需要が大きいばかりか、良質の人糞尿確保という点でも有利な条件が存在した。菜園に人糞尿肥料を施すことは、端緒としては古代からあったが、近郊型農業への対応としての汲みとり式便所は、この時期の京都ではじめて本格的に成立する。

フロイスはまた、「われわれは糞尿を取り去る人に金を払う。日本ではそれを買い、米と金を支払う」「ヨーロッパでは馬の糞を菜園に投じ、人糞を塵芥捨場に投ずる。日本では馬糞を塵芥捨場に、人糞を菜園に投ずる」と述べているが、京都の町屋住民から買い取られた人糞は、肥溜で十分熟成の末、畠に投入されたのである。

 

フロイスの見た日本はヨーロッパとは逆に、人の排泄物を肥料として用いる国だった。この習慣が結果として都市を清潔にしただけでなく、都市近郊の農業を発展させることにつながる。京野菜の味が全国に知れわたっているのも、京都の「トイレ革命」が背景にあった。

 

京野菜のおいしさには定評がある。スグキ・タケノコ・聖護院大根・壬生菜・桂瓜・七条のセリ・九条ネギ・鹿ケ谷カボチャ……千枚漬けなど京漬物も全国ブランドである。京野菜の名声確立の前史には、京都に汲みとり式便所が普及し、並行して街頭排便の習慣が過去のものとなってゆく過程があった。