明晰夢工房

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【書評】山本博文『殉教~日本人は何を信仰したか~』(kindle unlimited探訪4冊目)

 

 

これはキリシタンの殉教の様子をくわしく記録した貴重な一冊だ。一読して驚くのは、キリシタンたちの宗教的情熱の強さだ。彼らは微塵も死を恐れない。捕まれば火刑になるとわかっているのにみずから名乗り出て殉教したがり、今まさに火刑のおこなわれている現場で殉教の様子に感激し、一緒に処刑されたがる者まで出てくる。信仰心の強い者だけが記録に残っているのかもしれないが、それにしたってこうして一冊の本にまとめられる程度には、殉教したキリシタンの例は多いのだ。何が彼ら彼女らをここまで強い信仰心に駆り立てているのか、という疑問を持ちながら、読者はこの本を読みすすめることになるだろう。

 

キリシタンたちの信仰心の強さは、武士道にも通じるものがあるように思える。実際、この本では第3章で、武士のメンタリティが信仰心と関係していたことにふれている。日本の武士は死に臨んで取り乱してはいけないことになっているから、キリシタンの武士もまた、殉教の場にあって命を惜しんではいけないことになる。教えを捨てれば、節を曲げる卑怯者ということになってしまう。

たとえば榊原加兵衛は家康から追放処分を受けたため、身内に説得されてキリスト教の信仰を捨てているが、このことを聞いた家康は、なんと「臆病で卑怯な者」と罵った。俸禄のために信念を曲げる者は、武士の風上にも置けない卑怯者だと考えられていたのである。キリスト教を信じた家康当人ですら、武士ならば最後まで信仰を貫くべきだと考えていたようだ。

 

だが、庶民の信仰心の強さ、殉死に臨んで泰然としている精神力は武士にもひけを取らない。第5章では秀忠の時代、キリシタンの大弾圧がはじまった時期の殉教について記述しているが、1619年の京都におけるキリシタンの殉教はこのようなものだ。

 

大人の眼にも顔にも驚くばかりの光が輝き、死も苦痛も感じていないように思われた。異教徒までが殉教者の不動の比類ない忍耐を認め、少しでも身体を傾けて炎を避けようともしなければ、四肢を縮ませて苦痛を表しもしないのを認めた。

 

処刑の様子を見ていた人々は、信仰の差を超え、キリシタンの勇気と忍耐力を褒めたたえた。これら52人の殉教者たちは、きわめて強烈な印象を京都の民衆たちに残した。

 

この本で紹介されるキリシタンの殉教は、すべてこのようなものだ。処刑を前にして泣き叫ぶ者は一人もおらず、誰もがまったく死を恐れることがない。炎に焼かれながら説教をする者すらいる。私が為政者なら恐怖を感じるところだ。武士ならともかく、なぜ名もなき庶民までもがここまで信仰を貫けるのだろうか。読みすすめていくと、どうやら当時の日本人はある種の節義のようなものを持っていたことがわかってくる。

 

翌日、多くの民衆の前で、彼らを訴えた者に褒賞が渡された。それは、「死んだキリシタンの中のりっぱな屋敷と1500エスクードの値に相当する30枚の金貨」だった。

しかしそれを見ていた者は、決して彼らをうらやましがることはなく、逆に「そのような褒章は破滅のもとになり、いつまでもそれを有難がってはおれなくなればよい」などという罵声が、キリシタンではない人々の間からもおきたという。

こうした裏切りに対しては、信仰の違いとは無関係に非難されるのが日本の社会の特徴である。

 

キリシタンではない者も、金のためにキリシタンを売った者を強く軽蔑していた。この態度は、俸禄のために信仰を捨てた榊原加兵衛を罵った家康にも通じるものがある。こうした節義を、殉死したキリシタンはとりわけ強く持っていたのだろう。個人的には遠藤周作『沈黙』のキチジローのように信仰を捨てる「弱いキリシタン」の話も読んでみたかったのだが、そのような人物は殉教などしないのでこの本の主人公たりえない。殉教できなかった人々は、恥や罪悪感を感じただろうか。感じたとして、その心を救える教えがこの時代にあっただろうか。そんなことを考えてしまうほど、この本に登場する「強いキリシタン」たちの姿は、読むものの倫理観を揺さぶってくる。