明晰夢工房

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【感想】五胡十六国時代を舞台に、人型の麒麟と遊牧民の青年の友情と戦いを描く『霊獣記 獲麟の書(上)』

 

 

晋の統一ははかない。三国時代がようやく終わり、一見中華は平穏を取り戻したかにみえるが、少しづつ内乱の足音が近づいてくる。気候の寒冷化も進み、半農半牧の生活を送る遊牧民の青年・ベイラを取り巻く状況も厳しさを増す。収獲は年々減る一方で、羊もあまり子を産まなくなってしまう。『霊獣記 獲麟の書』は、匈奴に従う弱小部族・羯の小グループのリーダーにすぎないベイラがそんな苦境から身を起こし、麒麟の少年とともに乱世を駆け抜ける物語だ。

 

『霊獣記 獲麟の書』はスタート時点では、まだ晋の天下がつづいている。この時代を舞台にした小説はあまりないので、洛陽の描写も新鮮に感じる。ベイラは漢人の郭敬に連れられて洛陽をおとずれるが、街中では講談師が三国志の講談をしている。すでに三国時代は物語として語られる時代になっている。殷賑を極めるこの街で、ベイラは彼の運命の鍵を握るものと出会うことになる。見た目は10歳ほどの子供でしかない一角だ。

 

一角は、ベイラの頭から白光が天に向かって立ち上っていたという。ベイラはただならぬ運気をもっているのだ。ここで読者はベイラは何者なのか、やがてどのような名で歴史に登場するのか、と興味を惹かれることになる。この時代にくわしければ早い段階でわかるかもしれないが、かえって知識がない方が楽しめるかもしれない。のちにベイラが畑から掘り出す剣に刻まれた文字も、彼の正体を探るヒントになる。かなりの大物、とだけいっておこう。ベイラは時代を創る側の男なのである。

 

やがてベイラは成長するが、一角の方はまったく姿が変わらない。それは彼が麒麟だからだ。正確には麒麟の幼体だ。まだ幼いが、麒麟であるからにはその性質は仁である。血を見れば具合が悪くなり、死体を見れば吐いてしまう。いっぽう、ベイラは遊牧騎馬民らしく馬の扱いに長け、武勇に長じた戦士だ。乱世に乗じ、天下に名乗りをあげようとするベイラの道行きに流血は避けられない。本来ベイラのような匈奴の一員と、一角は相容れない存在だ。しかしそうであるがゆえに、一角がベイラの牽制役として重要になることもある。ゆきすぎた殺戮がベイラを危機に陥れることもあるため、一角は謀略や外交の重要性を訴える。戦わずして勝つのが孫子の理想ではないのか、と。

 

本作の魅力は、あまり他の作品では描かれない晋末~五胡十六国時代の状況がくわしく描かれていることだ。この時代の匈奴には、劉邦を圧迫していたころのような勢いはない。匈奴を実質的に束ねる左賢王・劉淵ですら、晋に飼われる傭兵のような存在に成り下がっている。匈奴の弱小部族の一員でしかないベイラの立場は、当然さらに苦しいものになる。この巻におけるベイラの最大の敵は東嬴公だが、この人物は晋の皇族でありながら、なんと奴隷狩りに手を染めていた。財政難に陥った晋の帝室は、皇族に異民族を奴隷として売り飛ばすことを認めていたのだ。東嬴公の矛先はベイラの一族にも向かい、ベイラは人生最大の危地に陥ってしまう。ここで味わう苦難は、のちに彼を人間として大きく成長させることになる。

 

この巻では第九章までベイラと一角の交流やベイラの苦労話が続き、ストーリーの進行はわりとゆっくりとしているが、十章からかなり物語が動き出す。ここでようやくベイラの正体が明らかになる。やっと歴史の表舞台に姿をあらわしたベイラの道のりはまだまだ長いものになるはずだが、作者はこのシリーズをどこまで書いてくれるのだろうか。ベイラのその後を考えるとあと一巻ではとうてい終わらなさそうだが、さてどうなるか。物語終盤ではベイラの部下として、仏教を信じ、略奪品を貧者に施す郭黒略のようなおもしろい人物も出てくることだし、長く続いてほしいシリーズだ。もっとも、続いてほしいのはベイラの甥で血気盛んなババルが成長し、(おそらくは)史上有名なあの人物になるところを見たいからでもあるのだが。