明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

平維盛は本当に憶病な武将だったのか

 

 

アニメ『平家物語』が6話で富士川の戦いを描いていた。この戦いで平家の大将を務めた平維盛はアニメ中では弟の資盛に「怖がり」と言われており、実際富士川の戦いでは源氏の大軍を前におびえる様子をみせている。舞を得意とする感受性の高さは、戦場においては不利な要素になる。

 

 

平家物語』での平維盛は、富士川の戦いにおいて水鳥の羽音に驚き逃亡したという、あまりにも有名なエピソードがある。平家軍が水鳥に驚き逃亡したことは『山塊記』にも書かれていることで、平家物語の創作ではない。富士川の戦いの実相はどんなものだったのか。これを知るために、まず当時の戦争の常識を理解する必要がある。『頼朝と義時 武家政権の誕生』では、平家の軍隊の構成についてこのように解説している。

 

10世紀以降、地方反乱に対して京都から追討軍が派遣されても、追討軍は実質的な戦力として十分に機能せず、現地勢力が奮闘することが多かった。現地勢力が反乱軍を鎮圧してしまい、追討軍到着の前に決着がつくことすらあった。平将門を討ったのも下野の豪族であった藤原秀郷である。

平家による軍事作戦も、この伝統に忠実であった。清盛は全国各地で発生する反乱に対し、まず現地にいる「私の郎党(平家)」が打撃を与え、総仕上げとして追討使を派遣するという方針を採っている(『玉葉』)。朝廷の命を受けた追討軍の派遣は、現地勢力の士気を高め、反乱軍を動揺させることが目的だった。(p71)

 

この通りだとすれば、本来維盛軍は源氏を討伐するメインの軍事力ではなかったことになる。地形など現地の事情をよく知っている地元の平家家人が源氏に一番よく対抗できるはずだった。だが、橘遠茂など現地の平家方は、維盛軍が到着する前に甲斐源氏に殲滅させられていた。この時点で、維盛軍の前途は暗いものとなってしまう。富士川に到着した時点で、維盛にはほぼ勝ち目がなくなっていた。

 

富士川の西岸に陣を張った追討軍の状況は絶望的だった。ただでさえ飢饉による食糧不足で士気が低下しているところに鉢田合戦の敗報が届くと、強制的に動員した兵の多くは四散し、京都から付き従っていた平家家人ら四千騎しか残っていなかった。着陣後も数百騎が武田方の陣営に投降するなど兵力の減少は続き、一千~二千騎という惨状に陥った。東岸に展開する武田勢は四万以上と言われており、とても勝負にならなかった。侍大将の伊藤忠清が総大将の平維盛に撤退を進言し、追討軍は戦わずして退却した(『玉葉』『吉記』)。(p74-75)

 

 

この状況では大将が誰でも勝てるはずはなく、撤退した維盛を責められないように思える。そもそも維盛は伊藤忠清の助言に従っただけなのだから、彼がことさらに憶病な大将だと評価することはできないはずである。それどころか、維盛は戦う意欲があったという指摘もある。『平家の群像』にはこう書かれている。

 

維盛自身は、「あへて引退すべきの心なしと云々、しかるに忠清次第の理を立て、再三教訓し、士卒の輩、多くもつて之に同ず、よりて黙止する能はず」(『玉葉』治承4年11月5日条)と伝えられており、敗軍のなかで健気にも戦意を失わなかったらしい。(p114)

 

維盛にも平家の大将としての責任感はあったということだろうか。維盛の実像は『平家物語』で描写されているものとは異なるようだ。この後、維盛は源氏との戦いにおいて武功もあげている。再び『平家の群像』から引用する。

 

また史料に見えるように、あげた首の数からいえば維盛は重衡に次ぐ数である。主力にふさわしいまずますの戦果をあげたことになろう。ところが『平家物語』でも後出の語り本系になると、維盛像は武将としての無能さ、女々しさというマイナスイメージが付着してくる。この戦闘でも維盛軍の参戦の事実を意図的に削っている(重衡もだが)。そのようにしてつくられた人物像は、維盛にとって不本意であろう。(p121)

 

これは墨俣合戦における維盛の武功の話である。維盛は重衡と並ぶ活躍を見せていたのであり、ここでも臆病者というイメージは維盛にはあてはまらない。維盛は貴族化した平家vs荒々しい源氏の坂東武者、という図式化された構図の犠牲者というべきだろうか。維盛が絶世の美貌を持ち、立ち居振る舞いが優美であったことは事実だったため、文弱の貴公子に仕立て上げるには格好の素材だったのかもしれない。