明晰夢工房

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【書評】「ほとんどの人は本質的ににかなり善良だ」と主張する30代歴史学者の著作『Humankind 希望の歴史 上 人類が善き未来をつくるための18章』

 

 

人間の本質は善か悪か。この問題について、古今の多くの哲学者が議論してきた。西洋思想において性悪説の代表者はホッブズ性善説の代表者はルソーだが、『希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』の著者ルドガー・ブレグマンは、ルソーの立場に立つ。「ほとんどの人は、本質的にかなり善良だ」という彼の主張は、一見ただの綺麗事にも思える。しかしブレグマンが本書で挙げる数多くの事例を知るごとに、人間は思っていたよりも良い性質を持っているのかもしれない、という気持ちにさせられる。人間の本質が善悪いずれか結論を出すのは、本書の考察を読んでからでも遅くはなさそうだ。

 

ブレグマンが本書の上巻でしているのは、多くの知の巨人たちが積み上げてきた性悪説への挑戦だ。彼はまず二章において、ゴールディングが『蠅の王』で描いた無人島での少年たちの争いは本当に起きるのか、と疑問を投げかける。そしてトンガから漂流し、実際に無人島に取り残された少年たちの事例を見つける。少年たちは『蠅の王』とはまったく異なり、鶏小屋や菜園、ジムなどを作って立派に共同生活を営んでいた。この事実を知り、ブレグマンは「真の『蠅の王』は友情と誠実さの物語であり、互いに支え合うことで、人間は非常に強くなれることを語っている」と結論づける。ノーベル文学賞を受賞した『蠅の王』はあくまでフィクションであり、現実を正確に描写したものとはいえないようだ。

 

とはいえ、性悪説は手ごわい。人間が本質的に利己的で、悪である証拠はいくらでもみつかるように思える。たとえば有名なスタンフォード監獄実験などはどうか。学生に看守と囚人役を演じさせたら、看守がどんどん嗜虐的になっていったというあの恐ろしい実験こそ、人間の闇を暴いたものではないのか?と考えたくなる。しかし、ブレグマンが8章で書いていることを読むと、この実験の結果は信じてよいものでないことがわかる。「看守たち」は科学者たちからサディスティックにふるまうよう圧力をかけられていたのであり、学生たちが自然にそうしたわけではなかった。しかも、この状況下でなお「看守たち」の多くが囚人を厳しく扱うのを躊躇していた。彼らの三分の一は囚人に親切ですらあった。この実験結果からは「人間の本質は悪」という結論は導けない。

 

本書の良い点は、内容がさまざまな知の世界へリンクしているところだ。ブレグマンは性悪説的な世界観を形作ったものとしてホッブズの『リヴァイアサン』やマキャヴェッリの『君主論』、ドーキンスの『利己的な遺伝子』などをあげているが、ここにはさらにジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリなど最近の知の巨人たちも加わる。ハラリはネアンデルタール人が滅びた原因について「サピエンスがネアンデルタール人に出会った後に起きたことは、史上初の、最も凄まじい民族浄化作戦だった可能性が高い」と推測しているし、ダイアモンドは「状況証拠は弱いが、殺人者たちには有罪の判決が下された」としている。そのハラリが本書を「私の人間観を一新してくれた本」と評しているのが面白い。性悪説といえば、ジャレド・ダイアモンドは『文明崩壊』でイースター島で起きたという二つの部族の凄惨な争いを紹介しているが、ブレグマンは6章でこの争いが本当に起きたのかを検証している。『文明崩壊』は一度読んでいるが、この章を読んで再読したくなった。ハラリの『サピエンス全史』にも興味が湧いた。本書は人間の本質を知りたい読者に、豊饒な知の世界へのアクセス手段を提供してくれている。

 

『希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』上巻を読みすすめると、世の中そんなに捨てたものでもない、という気持ちになる。だが一方で、人間が善良ならなぜ差別や戦争で多くの人が苦しんできたのか、とも問いたくなる。人間は仲間には親切だとしても、敵とみなした者には残酷だ。加えてネットの匿名性は人を攻撃的にし、誹謗中傷に苦しむ人々を生む。これでも人の本質が善だといえるのか。確かにブレグマンが言うとおり、多くの人はあまり争いを好まないのかもしれない。しかしそれは他人の目がある状況下での話だ。匿名性によって人が攻撃的になるのなら、そちらが人の本性ではないのか?

こう考えたくなってしまうのは、1章で書かれている「ミーン・ワールド・シンドローム」が原因かもしれない。マスメディアが暗いニュースばかり流すので、人々は世界を実際より危険な世界だと信じるようになる。暴動や災害・テロ攻撃など、ニュースになる出来事は例外的なものばかりだが、これらにくり返し触れることで人々は悲観的になるのだという。人間の心理は良いことより悪いことに敏感だ。狩猟生活の時代には、クモや蛇を怖がる人のほうがそうでない人より生き残りやすかったからだ。人が性悪説に傾きがちなのは、それなりの理由がある。だとすれば、ブレグマンはこの本を書くことで、人の本能に抗おうとしているのだろうか。

 

たとえそれが例外的なことだとしても、人類がさまざまな悪行を積みかさねてきたのは事実だ。ごく少数の悪人だけが悪いことをしているのではない。夏目漱石が『こころ』の先生に語らせたとおり、「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」がこの世の真相だろう。本来善良なはずの人間が、なぜ悪を為してしまうのか。本書の下巻ではその理由が明かされるようだ。その理由を知ってなお、性善説を信じる気になれるだろうか。この先を読み進めるのが少々不安であり、楽しみでもある。