明晰夢工房

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グイン・サーガがKindle Unlimited入りしたと聞いてノスフェラスの思い出がよみがえってきた

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そうか、とうとうグインサーガKindle Unlimited入りか……と、この記事を読んでしばらく感慨にふけってしまった。正編と外伝合わせて150巻以上、栗本薫が生前書いたものが読み放題対象になっている。これを全部紙の本でそろえるのは大変だし、こういう大部のシリーズこそサブスクで読むにふさわしい。

 

 

グイン・サーガヒロイック・ファンタジーの名作とよくいわれる。事実その通りなのだが、必ずしも全巻を高く評価できるわけではない。いにしえの書評ブロガーたちはこの作品にふれるとき、グイン・サーガは〇〇巻までは名作だった、とよく語っていたものだ。その巻数は人によって違うが、間違いなくいえるのは、辺境編は本当に傑作だということだ。なにしろここで描かれるのは、異世界であるグインサーガワールドの中におけるさらなる異世界ノスフェラスだからだ。

 

ノスフェラスというのは、ゲームオブスローンズにおける「壁の向こう側」に当たると考えるとわかりやすい。そこは人が住むのに適した土地ではなく、人間以外の様々な種族や怪物が住んでいる魔境なのだ。もっとも、ノスフェラスは壁の向こう側よりもさらに厳しい土地だ。地域全体に瘴気が漂い、矮小な体躯を持つセム族や、巨体を持つ幻の民ラゴンなどが住んでいる。さまざまな不気味な生物も棲息しているが、とりわけ恐ろしいのが巨大な不定形生物のイドだ。キングスライムなどよりはるかに手強いこの敵を豹頭のグインがどう退けるか、も辺境編の見せ場のひとつだったりする。

 

グイン・サーガをはじめて読んだとき、私はこのノスフェラスにすっかり魅せられてしまった。作家は創造力ひとつで世界をまるごと一個作りだせてしまうことを知った。サバクオオカミがうろつき、大食らいが巨大な口で食らいついてくる危険極まるこの世界で、主人公グインと、突如転移装置でここへ飛ばされてきた双子のリンダ王女とレムス王子は冒険を繰りひろげる。この地をめざして兵を繰り出してくるモンゴール公国との戦いも手に汗握るものだが、結局のところ、辺境編の魅力のもっとも大きな部分を占めているのは、このノスフェラスという妖しい世界そのものだったと思う。

 

だからこの辺境編が終わり、グインと双子たちがノスフェラスを去ることになったときは、妙な寂しさがあった。ここからは人間たちの物語になるんだな、という予感がしたからだ。グイン・サーガはファンタジーだし、ここから先も超自然的要素は何度も出てきているが、それでも辺境を去ったあとは国取りの要素が前面に出てきた印象はある。栗本薫があとがきで「ここから先は三国志になりますよ」と書いていたのは何巻だったか。一度は滅びたパロ(リンダとレムスの故国)を奪還しなければいけないのだから、国盗りの話になるのは当然なのだが、もう少し長くノスフェラスを旅していたかったという感覚がその頃はあった。中世ヨーロッパみたいな世界ではなく、この地球上には絶対に存在しないものを書いてこその「ファンタジー」だと、当時は思っていたからだ。

 

 

グイン・サーガの作中では、このノスフェラスにどうしようもなく魂を引かれる人物が出てくる。草原の王国・アルゴスの「黒太子」スカールだ。彼がノスフェラスに惹かれていくきっかけはネタバレになるので書けないが、この危険極まりない土地へ尋常でない興味を抱くスカールの姿は、どこか読者の心を代弁しているようなところがある。本当の意味での「異世界」とはノスフェラスのような場所であり、読むだけでこの別世界へとトリップできるのがファンタジー小説の醍醐味だ。そういえば、あらたにこのシリーズを書き継いだ五代ゆうは、新シリーズ最初の巻『パロの暗黒』の冒頭で、リンダがノスフェラスを思い出すシーンを書いている。これは長年読みつづけてきたファンの心をくすぐる演出だ。すべてはノスフェラスからはじまったのであり、読者の心はいつだってそこに帰っていく。今生きているこの場がすべてではない、と感じていたい読者にとっては、あの恐ろしくも魅惑的な土地こそが心のオアシスだったのかもしれない。