明晰夢工房

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【書評】脚光を浴びたことのない古代ローマ人50人の生活を描く『古代ローマごくふつうの50人の歴史 無名の人々の暮らしの物語』

 

 

古代ローマの生活史の本は何冊か出ているが、中でもこれは充実している。古代ローマ時代を生きた無名の人々が50人も紹介されているので、これらの人々の暮らしをつうじてローマの実像に迫ることができる。紹介されているのは居酒屋の女将や靴職人、奴隷や剣闘士などバラエティに富んでいるので、興味を引かれる人物の個所だけ読んでも楽しめるが、全体を読めば一冊で古代ローマの衣食住や日常生活が大まかにわかるつくりになっている。

 

ここでは古代ローマならではの仕事をしていた人々を何人か紹介したい。まずはクリーニング店を営んでいたルキウス・アウトロニウス・ステパヌス。ローマ人は長さが5メートルもあるトガを着ていたが、これを自宅で洗うのは大変だったので、ルキウスの仕事はローマには欠かせないものだった。彼が衣服を洗う洗剤に用いられるのはカルシウムを含む土やアンモニアだが、一説にはアンモニアは路上に置かれていた尿便を回収して集めていたともいう。一般市民の家にはトイレがなく、家に尿便が置かれていた事情があったからこう推測されるのだが、こんな意外なところからローマ人のトイレ事情も見えてきたりする。

 

古代ローマといえば剣闘士だが、この本ではプリスクスとウェルスという二人の剣闘士が紹介されている。この二人は実力が伯仲していたため、試合が長引き、めずらしく両者がともに勝者とされた。二人の戦いぶりが称賛されたためだが、負けた剣闘士が必ず殺されるわけではない。本書によると、剣闘士の生存率は90パーセントを超えている。剣闘士の養成には多額の資金が必要なので、そうそう命を奪うわけにもいかなかったようだ。一人の剣闘士が実戦を行うのは年数回で、生涯での対戦数が二十戦以下だったというから、無事引退できた剣闘士もそれなりにいたのだろう。過酷な仕事なのは間違いないが、剣闘士は三年間生きていれば引退でき、五年間生きていれば解放され自由を手にすることができた。

 

下水システムが整っていた古代ローマには配管工も存在していた。本書で紹介されるベレニウス・ウェルスもその一人だ。ローマの代表的な送水管には石で築いた水路・鉛管・テラコッタ製の陶管があったが、ウェルスは鉛管を作っていた。輸入された鉛の鋳塊を溶かし、排水管を作るのが彼の仕事だったが、それぞれの鋳塊に製造者の名前が記されているため、ウェルスの名前も残ったのだ。都市生活を維持するには、強い水圧がかかる配水管が機能していなくてはならないが、金属の管は水圧を上げるのに適していた。ウェルスの作っていた鉛管は、青銅の管より安価なため一般的だったという。ウェルスのような職人は、ローマのインフラを維持するうえで欠かせない人材だった。

 

古代ローマの文化レベルの高さは、公共図書館の多さから知ることができる。四世紀初頭までに、首都ローマには二十八館の図書館が造られたという。図書館には私設図書館と公共図書館があるが、本書で紹介されているカッリステネスは公共図書館の司書だ。ティベリウス帝の奴隷出身のカッリステネスはアポロン図書館の専任司書に任命されているため、高度な教育を受けていたと考えられる。書籍を管理するには、内容を理解していなくてはいけないからだ。アポロン図書館の館長をつとめるガイウス・ユリウス・ヒュギヌスも解放奴隷だが、学者で多くの著作を残したと伝えられる。古代ローマは多くの奴隷が存在していたが、奴隷でも富裕層の家内奴隷は高度な教育を受けられることがあるため、こうした人物も出てくる。先に紹介したクリーニング店主のルキウスもそうだが、この本で紹介される50人には奴隷出身者が多く、ローマが奴隷なしには成り立たない社会だったことがわかる。農園や鉱山などで肉体労働を強いられる奴隷も多いなか、図書館に勤められるのは奴隷出身者としてはかなり幸運な部類といえるだろうか。

 

古代ローマ社会を支えた奴隷の実態については、貴族の奴隷スペンドの物語を読めばよくわかる。スペンドは二度結婚しているが、彼のように貴族に仕えている奴隷の場合、同じ家に仕える者同士での結婚が多かった。奴隷から生まれる子供は、そのまま主人の奴隷になる。とはいっても、奴隷がつねに主人に虐げられていたわけではない。奴隷の子供は主人の子供と一緒に育てられ、ときには遊び相手になることもある。奴隷は法的には主人の所有物だが、気前の良い主人からは賃金やチップをもらえることがあり、これを貯めて自分を主人から買い取ることもできた。奴隷は正式な手続きを経て解放されればローマ市民権を得られるし、市民権を得た解放奴隷の子供は自動的にローマ市民権を得られる。解放された奴隷がレンガ職人やマンションの管理人、家庭教師など、さまざまな職につきローマ社会で活躍する例を、この本ではたくさん読むことができる。解放奴隷もまた、古代ローマの「ごくふつうの人々」だったのだ。