明晰夢工房

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「三方ヶ原の戦いは偶発的に起こった」という説

 

 

三方ヶ原合戦の戦いについて、実態を伝える当時の史料はない。このため従来は『三河物語』の内容に基づき、家康が自領を通過する武田軍を見過ごせず、みずから討って出ると宣言したと考えられてきた。だが黒田基樹氏は『徳川家康の最新研究』において、「当代記」の記述に注目している。この史料における三方ヶ原合戦の描写は以下のようなものだ。

 

信玄は二俣城の普請を終了させ、在城衆を置くと、二十二日に出陣し、井伊谷領都田(浜松市)を通過して三方ヶ原に進軍した。そこへ徳川軍の物見勢10騎・20騎が攻撃し、武田軍と交戦状態になったので、家康はこれを救援するため浜松城を出陣、思いがけずに武田軍と合戦になってしまった。徳川軍は敗北し、千人余が戦死した。武田軍は浜松近辺を放火したが、城下には攻め込まなかった。(p99-100)

 

この「当代記」の記述には家康を美化するところがなく、内容が自然であるため、黒田氏はこれが三方ヶ原合戦の実態を伝えているものと考えている。武田軍が大軍であるため、家康はもともと正面切って戦う意思はなかったが、偶発的に戦うことになってしまった、というのだ。

 

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平山優氏『新説 家康と三方ヶ原合戦』でも、先走った武者たちが我先に武田軍を追いかける様子が描かれている。

 

いっぽう、徳川・織田連合軍は、武田軍の後方を追尾していたが、浜松城からすでに物見と称して、血気に逸る武者たちが10騎・20騎づつ、続々と武田軍の後を追いかけていたという。彼らを、徳川方は抑えることができていなかったようだ。『四戦紀聞』『大三川志』などによると、先駆けをした武者は、何と1000余にも及んだという。(p164-165)

 

これらの武者たちは武田軍に石礫を投げられ、その挑発に乗る形で戦をはじめてしまった。平山氏によれば、家康は先駆けをしていた武者たちを徳川軍本隊へ引き取ってから合戦を始めるつもりだったようだが、その計画が崩れてしまった。平山氏は家康には交戦の意志があったとする立場だが、物見が勝手に戦いをはじめてしまったという点は黒田氏の見方と共通している。

 

三方ヶ原合戦で織田・徳川方が敗れたことで、足利義昭は信長と手を切り、武田や本願寺・朝倉ら反信長連合と結ぶことになった。黒田説が正しければ、ほんの偶然から信長と義昭は決定的に対立し、やがては室町幕府の滅亡にまで行きついたことになる。