明晰夢工房

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「遼来来」は「張遼さんおいでおいで」という意味になってしまうらしい

 

 

遼来来。ご存じのとおり、張遼が来た!という意味だ。泣く子を黙らせるために使われた点では、日本における「蒙古が来た」と似たようなフレーズだが、実は「遼来来」では「張遼さん来て来て」といった意味になってしまい、泣く子をもっと泣かせることになってしまう。本来の表現は「遼来遼来」だったのだが、「遼来来」はどこから出てきたのか。渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』にはこう書かれている。

 

合肥の戦い以後、孫権張遼を恐れ、諸将に「張遼とは戦うな」と念を押した。孫権の抱いた恐怖心は『演義』では、「遼来、遼来」(張梁が来た)」と言うと、呉では怖くて子供が泣き止んだ、と表現されている。その起源は、『大平御覧』人事部七十五に引用する『魏書』の「江東の子供が泣くと、これを恐れさせるため、『張遼が来た、跳梁が来た』と言った。(そう言って泣き)止まないことはなかった[江東小児啼、恐之曰、遼来、遼来。無不止矣]」であるが、直接的には童蒙書である『蒙求』の記述を典拠としよう。ちなみに、吉川英治の『三国志』では、「遼来、遼来」が「遼来来」になっているが、これだと「張遼ちゃん、おいでおいで」となってしまい、子供は大泣きである。(p151-152)

 

確かに、「遼来来」は吉川三国志ではじめて目にした記憶がある。吉川英治が表現をこう変えた理由はわからないが、響きがいいと思ったのだろうか。「来々軒」などのラーメン店の名前が示すように、来来は誘うための言葉なので、遼来来だと呉を滅ぼしたい人が張遼を招き寄せている感じになる。

 

215年、張遼合肥城を固く守ったため、孫権が攻略をあきらめて退却し、逍遥津の半ばまで渡ったとき、張遼孫権軍に突入して奮戦し、孫権の将軍旗を奪うほどの活躍をみせた。この退却戦は淩統の部下が皆討ち死にするほどの大敗で、以後孫権張遼を恐れるようになった。孫呉に深いトラウマを植えつけた張遼だったが、彼の勝因は川を渡る途中の敵を攻めるという、『孫子』にも書かれている兵法の基本を守ったことにあった。恐るべきは張遼の武勇だけではなく、孫子の卓見ということになるだろうか。