明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】火坂雅志・伊東潤『北条五代(上)(下)』

 

北条五代 上

北条五代 上

 

 

火坂雅志が執筆中に急逝したため未完になっていた作品を伊東潤が引き継ぎ完成させた『北条五代』を読んだ。後北条氏五代の興亡を描くこの作品で、火坂雅志は三代目当主・北条氏康の青年時代まで、伊東潤はそれ以降を担当している。

 

読んでみると、火坂雅志パートから伊東潤パートへの移行は意外とスムーズだ。どちらかというと火坂雅志のほうが淡々とした筆致で伊東潤のほうが描写が詳細、かつ戦闘シーンが武闘派という印象はあるが、両者の個性が作品内で喧嘩することはなく、とくに違和感なく読みすすめていけるのではないかと思う。

 

火坂雅志の描く北条早雲は梟雄の印象が強く、政戦両略の野心家だ。人物像は従来の早雲像から大きく離れてはいないものの、謀略を駆使する早雲の国盗りを存分に楽しめる。だが、この作品の一番の功績は後北条氏の二代目・北条氏綱を描いたことにあると思う。柔軟性に富む父とは異なり、生真面目な氏綱は父に器量が劣っていると悩むものの、扇谷・山之内両上杉家や武田家・里見家など周辺勢力と粘り強く渡り合い、着実に北条家の勢力をひろげていく。氏綱を支える風魔小太郎や北条長綱などのキャラクターも魅力的だ。北条家を陰から支える風魔一族と氏綱の出会いに絡んで氏綱と小太郎の妹のロマンスが描かれる一幕もあるが、ここはハードな政治と軍事の話が続くなかで珍しく艶めいた場面でもある。

 

火坂雅志パートでは、北条氏康は獣の殺生すら嫌がるほどの繊細な若者として描かれる。このため、当主としては自分は不適格だと悩み一時は出奔までしてしまう。ここで火坂雅志パートが終わっているが、ここを引きつぎ伊東潤北条氏康を九州である人物と出会わせる。かなり創作が入っている部分と思われるが、ここで氏康の師匠になる人物がなかなか面白味のある人物で、のちの氏康の政治観・戦略に大きな影響を与える。北条家を受けついでからの氏康の活躍は史実通りに書かれているが、氏康から見た上杉謙信像には新鮮味がある。北条家や関東の国衆からすれば、謙信の侵攻は災厄のようなものだ。この謙信と氏康がどう対峙するのか、が氏康パートでの見どころのひとつになる。

 

その氏康から当主の座を受けつぐのが氏政だが、この作品の下巻では有名な「汁二杯」のエピソードは出てこない。かわって、兄弟の氏照や氏邦と手を携え、北条家存続のため力を尽くす氏政の姿が描かれる。氏政には人としてのやさしさがあり、それが当主としての失点になることもある。三増峠の戦いで大きな犠牲を出してしまったこともそのひとつの例だ。だがこの失敗も氏政が味方の被害を減らす意図があったために起きたこととのちには理解されている。氏政は早雲や氏康にくらべ武略は劣るかもしれないが、誠実な人物として描かれている。

 

上巻と下巻の氏康パートまでは北条家は上り調子なので読みやすいが、氏政の治世も後半に入るとだんだん読みすすめるのがつらくなってくる。西から信長が勢力をひろげてくるからだ。これまで歴史学の新知見もいくつか取り入れ、氏政も従来通りのイメージでは書かなかった本作だが、信長についてはいつも通り「魔王」然とした人物として書いている。敵であるぶんにはこう書いたほうがいいのだろうか。信長の支配下に入れば、苛烈な統治を押しつけることになり北条家の掲げる「禄寿応穏」を守れなくなる。苦悩する氏政を支え続けたのは江雪斎だ。このすぐれた外交家は氏康の代からずっと北条家に仕えているが、その手腕は当主が氏直に代わっても活かされ続ける。

 

やがて信長が横死すると、氏直が前面に出てくることになる。氏直パートで強烈な印象を残すのは真田昌幸だ。『真田丸』では北条家や上杉家、徳川家の間を巧みに泳いで生き残った昌幸だが、それだけに北条家から見た印象は悪辣なものとなる。江雪斎は一度は昌幸を攻めるべきと主張するものの、若者らしい氏直の正義感を立てて自説を引っ込める柔軟さも見せる。この時点で唯一頼りになる戦略家の江雪斎は今後も北条家を支え続けるものの、秀吉相手にはあまり手腕の見せどころもない。終盤はやや駆け足気味だが、滅びを前にした氏政・氏直父子の対話は戦国の世のはかなさを感じさせ、強く印象に残るものになっている。この二人のいさぎよさは、北条家の幕引きを爽やかなものにしている。最後まで読み切った読者は、北条家のイメージを新たなものにするのではないだろうか。

 

【感想】謎解き×怪異×人情全部入りの宮部みゆきよくばりセット『きたきた捕物帳』

 

きたきた捕物帖

きたきた捕物帖

 

 

宮部みゆきの時代ものには怪異要素のあるものとないものがある。怪異入りなのは『三島屋変調百物語』『荒神』『あかんべえ』などで、これらの作品は捕物ではない。いっぽう怪異なしの作品は『ぼんくら』『堪忍箱』『おまえさん』などで、ぼんくらシリーズは捕物だ。人情味は宮部作品なら全作品にあるから、怪異と捕物が合体すれば自動的に人情もついてくることになり、ここに宮部みゆき時代劇の全要素がそろう「宮部時代小説よくばりセット」ができあがる。宮部みゆきが「私がずっと書きたった」という『きたきた捕物帳』は本所深川を舞台に展開する捕物帳であり、妖怪や幽霊は(今のところ)出てこないもののちょっと不思議な味付けもあり、さらには主人公北一の成長を眺められるビルドゥングスロマンでもある。もちろん江戸の町人の表の顔も裏の顔もていねいに描く描写力はあいかわらず卓越していて、大安定の宮部ワールドに心ゆくまで浸ることができる。

 

第1話「ふぐと福笑い」は主要人物の顔見せといった回。岡っ引きの千吉親分の子分だった北一の回想から物語ははじまる。仙吉の商売だった文庫売りを引きつぐ意地の悪いおたまや世慣れた差配人の勘右衛門、仙吉の妻で盲目の松葉、その女中のおみつなどが出てくるが、一番のキーマンは盲目ながら、いや盲目だからこそなのか、常人をはるかに超える鋭い感覚と洞察力を持つ松葉だ。松葉は北一と同じ長屋に住むことになり、北一は松葉の家事を手伝うかわりにおみつに飯を食わせてもらっているのだが、ある日北一は松葉の洞察力を見込んで相談を持ちかける。

相談事とは、出して遊ぶと必ず祟る「呪いの福笑い」の件。ある材木屋の子供がうっかりこの福笑いを取りだして遊んでしまい、それ以来家の者が火傷したりものもらいを患ったりしている。これを解決するには福笑いで遊び、一発で正しい場所の目鼻口を置かなければならないのだという。この難題を目の見えない松葉がどう解決するのか?がこの話の読みどころだ。本当に福笑いの呪いなんてものがあるのかわからないが、松葉の解決法には不思議なところは何もない。当人が言うとおり、「一足す一は二」なのだ。

 

第二話「双六神隠し」はタイトル通り、双六にまつわる「神隠し」の話。魚屋の息子・松吉が行方知れずになると、友人の丸助は双六のせいだと言い出す。彼らが遊んでいた双六とは「大熱」「突き当り」「金三両」など奇妙な書き込みのあるものだった。松吉は「神隠し」のマスにとまったから姿を消したというのである。のちに松吉はひょっこり姿をあらわしたが、当人も神隠しにあったようだ、と言う。

一体どういうことなのか。北一は真相を探りはじめる。頼りになりそうな勘右衛門も怪談には弱く、今回は当てにならない。北一はまだ少年なので、子供たちの嘘には敏感だ。これは神隠しなどではない、と確信した北一は聞き込みをはじめる。松葉からもヒントをもらいながら、北一はしだいに真相に近づいていく。そうこうするうちに今度は松吉の友人の仙太郎がいなくなってしまう。しかも丸助の家の前の干物箱には金三両が入れられていた。松吉同様、「金三両」のマスにとまった丸助にも双六と同じ現実が訪れた。

ここからさらに北一は推理を働かせる。やがて明らかになってくるのは、仙太郎をとりまく複雑な環境だ。裕福な蠟燭屋の跡取りである仙太郎も、さまざまなものを背負っている。彼の家族も善人ばかりではない。正しくない感情、決して表に出してはならぬ鬱屈をを抱えた者が、彼の周りにはいる。だが、真実を知ってしまうと、その「正しくなさ」にも一定の理解はできる。決して根っからの悪人ではない者が、状況によって正しくない者になってしまう。複雑にもつれる人の感情の動きをていねいに追い、正しくない者にも一定の同情心を起こさせる、これこそ宮部みゆきの人間描写の真骨頂だ。現実が巨大なピタゴラ装置であるならば、ここで起きているのは感情の玉突き事故なのだ。北一はこの玉突き事故のしくみを見事に解き明かし、松吉の抱えていた鬱屈まで晴らしてみせる。北一は人間として一回り大きくなり、他者を助けられる男になった。70ページ程度の分量に生きることのつらさと切なさ、そして尊さを凝縮した密度の濃い一篇だった。

 

第三話「だんまり用心棒」はこの物語のもう一人の主人公・喜多次が登場する話。北一は同心の沢井蓮太郎の頼みで地主の屋敷の床下に埋まっていた骨を掘り出すが、そこで烏天狗の根付をみつける。扇橋町の湯屋の釜焚きが天狗の顔の彫り物をしていると聞いた北一は、根付との関係を確かめるためこの釜焚きの元を訪れる。釜焚きはみすぼらしい身なりで会話もろくにできない少年で、これが喜多次だ。このときはまるで頭の回らない少年にしか見えなかったが、この喜多次がのちにまったく異なる一面を見せることになる。

この後、差配人の勘右衛門が何者かにさらわれ、身代金を要求される。北一はおおよそ犯人の目星がついていたが、勘右衛門がどこにいるのかまではわからない。だが北一のもとをおとずれた喜多次から、北一は意外なことを聞かされる。ここでようやく『きたきた捕物帳』のタイトルが回収される。北一と喜多次がコンビを結成し、勘右衛門誘拐事件の解決にあたることになるが、ここから先は喜多次の目が醒めるような活躍ぶりが見ものだ。喜多次が北一に協力してくれる意外な理由も明らかになるが、それでもなお喜多次の過去には多くの謎が残る。喜多次の多能ぶりは一体どこからくるのか、どんな生い立ちなのか。それを知りたくて、今から続編が待ち遠しくなる。

 

第四話「冥土の花嫁」は北一の文庫屋としての成長ぶりを眺められる。味噌問屋「いわい屋」に引き出物として納める文庫をつくるため、文庫作りの先達の末三や人の良い武士の青海新兵衛、団扇屋の丸屋の協力を仰ぐことになる北一だが、皆が力になってくれるあたり、深川の人々の温かさが身に染みる。だがいわい屋の新郎の前に、死別した元妻・お菊の生まれ変わりだというお咲が現れる。お咲はどういうわけかお菊の記憶を受けついでいて、発言には矛盾がみられない。いわい屋が大混乱に陥るうち関係者が怪死する騒ぎまで起きてしまい、結局北一は事件解決のため動き出すことになる。

謎解き自体はわりとシンプルなものだが、この話でメインになるのは北一の成長と自立だ。北一が意地の悪いおたまのもとを離れ、商売人としてどう自分を売り出していくか、どんな人を頼ればいいのか、が描かれているが、北一がかかわる人々のキャラが全員立っていて、さながら深川人間図鑑といった様相を呈している。宮部みゆきの多くの人間を書き分け、それぞれの登場人物の内面に自在に入り込む手腕にはいつもながら感心させられる。喜多次の過去が少し明らかになる一幕もあり、この謎めいた少年への興味がさらに増す仕掛けもある。父親が謎の死を遂げているだけに、おそらく続巻で喜多次の過去についてさらに触れる機会もあるのだろう。

 

全体を通してみると、本作では謎解きと人情の要素が大きく、怪異要素はやや控えめだ。4つのストーリーそれぞれが怪異の雰囲気をまとってはいるが、あくまで現実的な理由のある怪異なので、三島屋変調百物語とはまた味付けが異なる。ともあれ、宮部作品が好きな読者だけでなく時代小説好きには安心して進められる内容だし、シリーズ化もすでに決定しているので、いずれテレビドラマ化されることも今から期待しておく。

【書評】殷の女性兵士から兵馬俑の髪型の秘密まで、古代中国史の最新知見を得られる『戦争の中国古代史』

 

戦争の中国古代史 (講談社現代新書)

戦争の中国古代史 (講談社現代新書)

 

 

古代中国史の入門書として文句なしにおすすめできる本が出た。本書『戦争の中国古代史』はタイトル通り軍事についての記述が多いものの、殷~前漢の政治史を要領よくまとめているので古代中国史の概説書としても使える一冊になっている。古代中国史の最新知見を盛り込みつつ、殷の女性兵士や武霊王の「胡服騎射」改革の真の目的、「宋襄の仁」が当時の「軍礼」に基づく行為だったことなど、興味深いトピックを数多くとりあげているので、中国史に少しでも関心のある人なら楽しく読みすすめられる内容になっている。

 

以下、興味を引かれた内容についていくつか紹介する。

 

殷に「女性兵士」は存在したか

殷の王妃・婦好は「戦う王妃」として有名だ。実際に彼女と軍事とのかかわりを示す甲骨文が出土している。だがこの本によれば、殷代には女性の司令官だけでなく、女性兵士が存在した可能性があるという。前掌大遺跡や少陵原遺跡など、下層の貴族や平民の女性の墓にも武器が副葬されている例があるからだ。女性と思われる人物とともに埋葬されている玉戈には被葬者の軍功らしき文章が書かれているものもあり、この点からも女性が出征していた可能性が指摘されている。

 

武器の副葬は魔除けの可能性もあり、必ずしも女性の出征を示す証拠にならないという批判も出ているが、これらの出土品は古代の戦争の実態を知るうえで貴重な史料であることは間違いない。今まであまり殷代の歴史に興味がなかったが、この話題だけでも殷代の出土品が魅力的であることがわかった。

 

「宋襄の仁」は当時の戦争のルールに基づく行為だった

「宋襄の仁」という有名な故事がある。宋の襄公が川を渡る途中の楚軍を攻めず、陣をととのえるのを待ってから戦って大敗したため、「無用の情けをかける」意味でよく用いられる。ここだけを見ると襄公はいかにも地に足のつかない理想主義者にしかみえない。だがこの本によれば、渡河する途中の敵を攻めないのは当時の「軍礼」(戦争のルール)にもとづいた行為で、襄公はこの規範に従っていたのだという。

 

軍礼とは「スポーツで言えば競技のルールであるとかスポーツマンシップのようなもの」とこの本では説明される。この軍礼においては渡河の途中の敵を攻めてはいけないことになっていたようで、楚もこのルールを共有している。

 

高木氏は、『佐伝』の中の戦争に関する記述を参照すると、当時の人々が、弓矢による攻撃を交互に行うというルールや、窮地にある敵、脆弱な敵、負傷して戦意のない敵、喪中の敵などへの攻撃を控えたり、敵であっても武勇に優れた者には敬意を払うといった規範意識を共有していたことが見いだせるという。襄公の場合は、川を渡る最中で窮地にある敵を攻撃しないという規範を実行したことになる。

実際に敵軍が川を渡っている時に攻撃をしてはいけないというルールが共有されていたようで、『佐伝』僖公三十三年には、晋と楚が汀水という川を挟んで対峙した際に、晋軍が楚軍に「そちらが川を渡るのであれば、わが軍は後方に退くので、その間に川を渡って陣を整えよ。あるいはそれが嫌ならそちらが退いて我が軍が川を渡るのを待て」と提案し、楚軍は自分たちが後方に退いたという話が見える。の戦いで宋を破った楚も、ここでは渡河の軍礼を共有していたということになる。(p128)

 

ルールにのっとって正々堂々と戦うべき、という規範が、春秋時代にはまだ存在していた。この規範はしだいに崩れていき、やがて孫子が「兵は詭道なり」と主張するように不意打ちや騙し討ちなどを戦争の本質とみなす兵家が台頭してくる。『孫子』の成立は春秋時代後期と考えられているが、それが本当なら戦国時代に入る前からすでに戦争観は現実的で厳しいものになっていたことになる。

 

「胡服騎射」改革と趙・燕・秦の「小帝国」化

戦国時代の軍事改革として有名なものに、趙の武霊王の「胡服騎射」がある。これはよく知られているとおり、騎兵を導入することで軍事力の強化をはかったものだ。だがこの本では「胡服騎射」はたんなる軍制改革ではなく、林胡や楼煩などの遊牧民との親和をはかる礼制・外交改革でもあったという見方を紹介している。武霊王は趙を中原の国家としてだけでなく、「胡人」の政権としても位置づけようとしていたというのである。これは趙の「帝国化」へ向けた動きであり、事実武霊王は北方の遊牧民の制圧に成功している。

この「帝国化」の動きが趙だけでなく、他国でも進行していたことがこの本では指摘されている。たとえば燕は遊牧民の東胡を攻め遼東や鴨緑江の東へと勢力を広げているし、秦もまた義渠や巴・蜀を滅亡させ支配下に置いている。三国とも支配領域を「中華」世界の外にまで押し広げていて、「小帝国」を形成している。こうした動きはやがて秦が中国を統一することで生まれる大帝国への胎動と位置付けられる。楚も「帝国化」をめざしていたと本書では指摘されるが、楚は秦の名将・白起に首都を攻め落とされたため強国の地位から脱落した。すでに「帝国化」していた趙も長平の戦いで秦に大敗したため、これ以降は秦一強の時代になる。「小帝国」同士の争いを制した秦が中国を統一するのは、歴史の必然だった。

 

兵馬俑の髪はなぜ右側で結われているのか?

秦の兵馬俑はあまりにも有名だが、もの言わぬ兵馬俑も資料としてはかなり雄弁で、秦について多くを語ってくれる。この本では兵馬俑の髪型に注目している。秦の兵士は髪を右側に束ねて結っているが、これを結髪とよぶ。なぜこの髪型なのだろうか。この本で紹介する鶴間和幸氏の見解では、結髪にすると髪が砂と埃から守られるのだという。つまり、兵馬俑の兵士の髪型は、首都咸陽付近の防衛か、胡人との戦いを意識したものということになる。趙や燕などの「小帝国」を併呑し大帝国となった秦は、必然的に匈奴などの胡人と向き合わねばならないことになる。結髪は秦を象徴する髪型といえるのかもしれない。

さらには、秦では髪型は軍隊編成上の身分標識でもあったという。冠をかぶらず髪をあらわにしているのが当時の一般兵士の髪型だったようだ。兵馬俑の結髪は実用的だっただけでなく、その地位を表すものでもあった。あまり史料には登場しない一般兵士のことを知る手がかりとして、兵馬俑がきわめて重要であることを再認識させられる。

 

殷周史の入門書としても便利

以上、面白かった個所をいくつか紹介したが、著者の佐藤信弥氏は殷周史の専門家であるだけに、この本はマイナーになりがちな西周時代についての記述も充実している。周が牧野の戦いで殷に勝利した要因として戦車戦に習熟していたことがあげられること、周の外敵だった獫允(犬戎)は戦車を所有していて周と同じ文明圏にあったらしいことなど、この時代にもとりあげたかったトピックが数多くある。西周時代には一章が割かれているので、ぜひ読んでこの時代についても知ってほしい。西周時代の馬車はイラスト付きで解説されているので、当時の戦車戦を想像する手がかりにもなる。西周に興味がわいたら同氏の『周―理想化された古代王朝』を読めば、さらにこの時代をくわしく知ることができる。

 

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

 

 

マギレコのPAPA先生が描く武田信虎のマンガが面白い

なんと平山優先生監修の武田信虎のマンガがツイッターに投稿されていた。描いているのはマギレコでお馴染みのPAPA先生。信玄のパパだからPAPA先生という人選?かわいい絵柄なのに内容は本格派だ。

 弱冠14歳で武田家当主になり、翌年に坊ヶ峰の戦いで反乱軍を撃破する信虎。天才かな?実際に指揮していたのは家臣の誰かかもしれないけどすごい。

 京都を真似して升目上の区画をつくり、甲府を建設する信虎。そして国衆とその家族を強制的に甲府へ移すなど剛腕を発揮している。秀吉の城下集住策に先んじること半世紀。やっぱり信虎はすごい。

 甲斐に攻め込んできた1万五千の今川氏親軍を二千の兵でどうにか退ける信虎。すごい……のか?戦勝の数日後に生まれたため勝千代と名づけられた子が後の信玄。

 

 

棟別銭を課し佐久郡も平定するなど着々と力を蓄える信虎。しかし次第に晴信との確執が深まっていく。

 

家臣の人望を失い追放されるも、武田家の基礎をつくったとフォローされる信虎。甲府を建設し甲斐を統一した信虎の存在なくして、信玄の活躍はない。信虎の悪評が広まったことで甲斐が晴信の下で一致団結したという功績(?)もある。すごいのかそれは。

 

武田信玄アレクサンドロスなら武田信虎はフィリッポス二世みたいなものだ。内憂外患に悩むマケドニアを危機から救い、新首都を建設するなどきわめて有能だったこの父なくしてアレクサンドロスの活躍はない。フィリッポス二世はわりと有名だが、武田信虎の名誉回復は十分になされているとはいえない。甲斐を強国にのし上げ、信玄が雄飛する基礎をつくった人物として、もっと注目されていいように思う。

武田信虎 (中世武士選書42)

武田信虎 (中世武士選書42)

  • 作者:平山 優
  • 発売日: 2019/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

【感想】菊池英明『太平天国 皇帝なき中国の挫折』

 

 

なぜ太平天国軍は清朝にかわり、中国の支配者になれなかったのか。そう問いを立てつつこの本を読みはじめた。読み進めると、太平天国側の体制にはある「狭さ」があったことが見えてくる。太平天国は上帝のもとでの大家族という理念を掲げ、人々が一律に平均化された生活を送ることで格差のない社会をつくれると訴えたが、本書によればこうした理想社会は往々にして貧困と差別に苦しんだ客家のコンプレックスの裏返しであったため、北方民族や漢族の他のサブグループへの包容力を欠いていたという。

 

太平天国の指導者・洪秀全客家の出身だったことはよく知られている。中国南部に華北から移住した客家たちは、移住先ではよそ者として差別的扱いを受け、社会の下層で苦しむことが多かった。こうした境遇に置かれた反動として、客家は「自分たちこそは中原からやってきた正当な漢族の末裔だ」というアイデンティティを持つことになる。洪秀全もまた南宋の大臣を洪一族の始祖として祀っており、これがのちに洪秀全が「選ばれし者」と自認する基礎となった。こうした屈折した自己認識を持つと、人は他者への寛容さを欠くことがある。

 

太平天国が他の漢人への包容力を欠いていた一例として、この本では太平天国の南京の女性への待遇を紹介している。南京を占領した太平天国は南京の婦人に米や水の運搬・竹の伐採や堀の掘削などさまざまな仕事を要求したが、これは纏足をしている南京の女性にできることではない。太平天国には安徽などの貧しい地域出身の女性が多く、こうした女性はこれらの仕事を苦にはしないが、太平天国は安徽の女性と南京の女性の生活を無理に平均化しようとした。太平天国の掲げる「貧しきを憂えず均しからざるを憂う」は中国古来の伝統的価値観への回帰でもあったが、その内実は現実を無視した原理主義に他ならなかった。

 

太平天国の抱える「狭さ」は対儒教政策にもあらわれている。もともとキリスト教の影響を受けている太平天国孔子廟を壊し、儒教の経典を焼いたため読書人の反感を買っていた。南京では儒教関連の書籍を「妖書邪説」としてすべて焼却した。だが地方支配には文書作成などの読書人の能力が必要とされるため、太平天国儒教政策を転換し、統治に必要な部分は容認している。それでも読書人を太平天国に参加させるのは困難だった。対して漢人官僚の曽国藩は多くの読書人を湘軍に吸収し、将校としている。太平天国でも読書人が厚遇された例はあるというが、それでも曽国藩の陣営に参加するほうが「礼教」の世界に生きる読書人はより葛藤を感じなかっただろう。著者にいわせれば「太平天国が読書人を味方につけられなかったことが湘軍を生んだ」ことになる。

 

いまこうした現象に注目すれば、太平軍と湘軍の戦いはヨーロッパと中国という二つの文明間の観念戦争という様相を呈していた。ただし、太平天国自身は上帝を中国古来の神と認識しており、めざしていたのも「いにしえの中国」の復活だった。その論理に従えば、太平軍と湘軍は「大同」の理想実現による社会的な格差の解消か、それとも「礼教」すなわち神々に代表される社会秩序の維持かという、それ自体はきわめて中国的な価値観に基づいて争ったことになる。(p148-149)

 

この記述に従うなら、太平天国も曽国藩の湘軍も、どちらも中国的な価値観に拠っていたことになる。であれば、長く中国に根付いている儒教の伝統に従った湘軍に分があったということだろうか。太平天国は「大同世界の実現」という理想を実現するため強圧的な政策を行い、江南都市など他地域にすむ人々の習慣や価値観への包容力を欠いていた。こうした不寛容さはこの本によれば、ユダヤキリスト教の影響によるものだという。抑圧された民の異議申し立ては、抱えた苦難の大きさからしばしばエスノセントリズム(自民族中心主義)に陥り、他者の苦悩への理解を欠いてしまうからだ。太平天国が全国的な政権に成長するにはより多様な人々を包摂することが不可欠だったが、思想上の限界でそれは不可能だったのかもしれない。

 

話は前後するが、洪秀全はもともと理想世界をつくるため挙兵しようとしていたわけではない。この本の一章によれば、かれは若いころアメリカ・バプテスト派の宣教師イッサカル・ロバーツを訪れ、洗礼を受けることを求めていたが、この時点での洪秀全は武力蜂起など考えてはいなかったという。だが彼に嫉妬するある中国人が、洗礼を受けたあとも勉強を続けられるよう奨学金を申請するといい、と悪意のアドバイスをした。経済的庇護を受けるため入信する「ライス・クリスチャン」を嫌っていたロバーツは洪秀全の申し出を拒絶し、洗礼は無期限に延期されてしまった。もし洗礼を受けられていれば、洪秀全はまじめなプロテスタントとして生き、戦乱とは無縁の生涯を過ごしたかもしれない。あとから何を言っても仕方がないが、太平天国の乱が2000万人を超える犠牲者を出し「人類史上最悪の内戦」とも評されることを思うと、洪秀全が平和に生きられた可能性についてつい考えたくなる。

【感想】筒井忠清編『昭和史講義 戦後編(上)』はシベリア抑留の入門書として使える

 

昭和史講義【戦後篇】(上) (ちくま新書)

昭和史講義【戦後篇】(上) (ちくま新書)

  • 発売日: 2020/08/07
  • メディア: 新書
 

 

全20講の構成で昭和史の様々なトピックを取りあげているが、この本の内容ではとくにシベリア抑留について興味を引かれた。第3講「シベリア抑留」は22ページ程度の内容だが、この講義でソ連に捕らえられた日本人がシベリアでどのような生活を送ったかが簡潔にまとめられている。

 

この講義によれば、ソ連とモンゴルに抑留された日本人は70万人以上、そのうち死亡者は10万人程度と推定されている。数字を見ただけでいかに過酷な環境で働かされていたかがわかる。ソ連がなぜこれだけの日本人を抑留したか確定的なことは言えないとしつつも、この講義ではソ連が大量の若い男性労働力を必要としていたことを指摘している。

 

 ただ確かなことは、戦争で2500万人ともいわれる膨大な犠牲者を出し、国土が荒廃したソ連が、国民経済復興のために咽喉から手が出るほど「若い男性の労働力」を必要としていたことだ。スターリンは、すでにヤルタ協定を根拠にして大量のドイツ軍捕虜をソ連に連行して使役し、捕虜は使えると味をしめていたから、日本兵ソ連に連行することも当然と考えたであろう。(p50)

 

2500万人は途方もない数字だ。これだけの人材の損失を埋め合わせるため、日本人もまた必要とされていたようだ。労働力としてシベリアに連れて行かれた日本人が味わった「シベリア三重苦」は飢餓と重労働と極寒だが、この講義ではそれぞれの要素についても解説されている。ソ連国民ですら飢えている状況下で日本人に十分な食料が回ってくるはずもなく、日本人にはソ連の給食の基準をはるかに下回る量しか供給されていない。

ろくに食べるものがない状況下で、日本人は過酷な労働を強いられる。ソ連には共産主義独特のノルマ制度があり、体力のまさるソ連人のノルマがそのまま日本人に適用されているという問題がまずあった。ノルマを達成するか超過達成しなければ賃金は支払われないため、多くの抑留者にはほとんど賃金が支払われなかった。病弱で体力のない者はノルマを達成できないため食料を減らされ、ますます体力が衰えるという悪循環に陥っていた。安全対策がおろそかなため作業中の事故も多く、衛生状況も悪いため赤痢発疹チフスも流行した。労働環境としてはこれ以上に過酷なものは考えにくい。

 

興味深い史実として、シベリアでは日本人とドイツ人が交流していたことも書かれている。収容所生活でドイツ人と接した日本人が最も驚いたのは、ドイツ人が捕虜になってもまったく打ちひしがれていなかったことだという。

 

日本人が一番驚いたのは、ドイツ人が「今回はソ連に負けたがこの次はやっつけてやる」と意気軒高なことだった。長い戦乱の時代を経てきて「勝敗は時の運」という現実的な戦争観をもつドイツ人と、常勝の日本軍ゆえたった一度の敗戦にうろたえ、もう戦争はこりごりだと考えるばかりの日本人の違いであろう。(p64)

 

この短い記述のなかにも、日本とドイツのたどってきた歴史の違いが読みとれる。敗戦慣れているいる国とそうでない国とでは、捕虜の態度までまったく違ったものになってしまう。人は知らず知らずのうちに、生まれ育った国のありようをその身に背負ってしまうようだ。

 

日本は同調圧力の強い国だ、といわれることがある。これは本当だろうか。この講義では、シベリア収容所内ででソ連の礼賛や共産主義の宣伝などの「民主運動」が展開されたことを紹介しているが、日本人は将校などを「反動分子」としてしばしば吊し上げ、激しく攻撃した。ドイツ人も「民主運動」をしていたが、この講義によればドイツ人は日本人のように他人をつるし上げて思想を強要するようなことはしなかったという。この事実だけで単純に日本人は同調圧力が強くドイツ人は弱い、とすることはできないだろうが、両者の気質の違いが大きかったことは確かなようだ。

【感想】田中優子・松岡正剛『江戸問答』

  

江戸問答 (岩波新書 新赤版 1863)

江戸問答 (岩波新書 新赤版 1863)

 

  

2章の浮世問答の「学問のオタク化と多様化」がおもしろい。明治維新は江戸時代の「学び」から出ているが、江戸時代の学びとは「実」と「遊」の間にあるものだった、というのが田中優子松岡正剛の共通認識だ。遊びながら学ぶ、知ることを楽しむ、という方向に振り切ればその人は学問オタクだ。この二人に言わせれば伊能忠敬も平賀源内も知のマニア、オタクなのである。

 

松岡 江戸時代にはそういうオタクっぽい感覚をなんと呼んでいたんだろう。「好き者」とはまたちょっと違いますね。

田中 たんなる「好き者」よりもやっていることはちょっと力が入っていますよね。しかも、それが流動性を生んでいる。遠くの塾にわざわざ行くのが平気なのと同様に、地方から突然、江戸や京都や大阪に出てきて塾に入ったりもする。大阪にあの先生がいるとか、江戸にこの先生がいるとか、おもしろい学校があるらしいという、それだけの動機で出てきちゃったりする。何か仕事があるとか、一旗揚げようというのではないんですね。そうやって出てきた人が、たまたま自分でも学校をつくってしまう。じゃあ、学校をつくってずっとそこにいるのかというと、つくったあとにまた平気で故郷に帰っちゃう。自分の故郷で小さな塾の先生をやったりする。

松岡 とことん遊学的。ぼくは日本の遊びにおいては、「遊」のなかに「実」がそうとう入っていて、その「実」のなかにも「遊」が入っていたと思っていますよ。日本の「学び」とはそういうものだった。そのぶん理論や哲学のようなものはつくれなかった。

 

このように、学問に「遊ぶ」時間をつくれたのはなぜなのか。田中に言わせれば、江戸時代にはたくさん働いてもっと稼ぐという考え方があまりなかったのだという。大工も商人も、自分のテリトリーを超えてまで儲けようとはしない。武士なら収入は石高で決まっているし、内職をしなくても生活できるならあえてすることはない。

 

出世欲も生活欲もあまりない人たちが多かったため、遊ぶ時間は確保できたようだ。そうなると、「遊び」関連のジャンルが成長する。浮世絵や出版物、金魚や錦鯉や朝顔、お稽古事などだけでなく、塾へ人が移動することもまたお金を生み出す。遊びが深まれば深まるほど、たくさんのお金が動くことになる。そのせいもあってか、江戸時代の日本は経済成長率がイギリスに継いで世界二位だったという。「遊び」は人の流動性を高め、人も物も動かし、結果としてそこに経済が生まれる。

 

こうした「遊」の世界における嗜好は江戸時代にかなり細分化されていたと松岡正剛は語っている。

 

松岡 多様性を認めることで、競争は生まれないかわりに、流動性がどんどん生まれる。これは江戸の経済社会の大きな特徴だと言えそうですね。

たとえば朝顔が好きな人たちのなかにも、咲いたところが好き、しぼんだところが好き、ツルが巻いているところが好き、ツルが上がっていて三本になっているのが好きというように、ものすごく細かく好みが分かれていて、それに対応するだけの朝顔市場というものができていく。金魚や錦鯉なんかも、もうわけがわからないぐらい品種を増やしていくでしょう。そうすると、いまでいうロングテールが動く。それどころか超ロングテール市場ですよね。

 

これと似たような世界を現代に見出すなら、YouTubeではないかと思う。先日、40代独身実家住まい女の日常だとか、30代工場勤務男の毎日だとかを淡々と語るだけの動画を見た。編集もあまり凝っていないし、特別面白いというものでもないが、どちらもけっこうたくさん再生されている。嗜好が細分化された世界では意外なものにも需要があり、そこにまた経済が生まれる。「好きなことで生きていく」まで行かなくても、「好き」が経済を生み出していたという意味では、現代人と江戸人には共通するものがありそうだ。