明晰夢工房

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【書評】「ほとんどの人は本質的ににかなり善良だ」と主張する30代歴史学者の著作『Humankind 希望の歴史 上 人類が善き未来をつくるための18章』

 

 

人間の本質は善か悪か。この問題について、古今の多くの哲学者が議論してきた。西洋思想において性悪説の代表者はホッブズ性善説の代表者はルソーだが、『希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』の著者ルドガー・ブレグマンは、ルソーの立場に立つ。「ほとんどの人は、本質的にかなり善良だ」という彼の主張は、一見ただの綺麗事にも思える。しかしブレグマンが本書で挙げる数多くの事例を知るごとに、人間は思っていたよりも良い性質を持っているのかもしれない、という気持ちにさせられる。人間の本質が善悪いずれか結論を出すのは、本書の考察を読んでからでも遅くはなさそうだ。

 

ブレグマンが本書の上巻でしているのは、多くの知の巨人たちが積み上げてきた性悪説への挑戦だ。彼はまず二章において、ゴールディングが『蠅の王』で描いた無人島での少年たちの争いは本当に起きるのか、と疑問を投げかける。そしてトンガから漂流し、実際に無人島に取り残された少年たちの事例を見つける。少年たちは『蠅の王』とはまったく異なり、鶏小屋や菜園、ジムなどを作って立派に共同生活を営んでいた。この事実を知り、ブレグマンは「真の『蠅の王』は友情と誠実さの物語であり、互いに支え合うことで、人間は非常に強くなれることを語っている」と結論づける。ノーベル文学賞を受賞した『蠅の王』はあくまでフィクションであり、現実を正確に描写したものとはいえないようだ。

 

とはいえ、性悪説は手ごわい。人間が本質的に利己的で、悪である証拠はいくらでもみつかるように思える。たとえば有名なスタンフォード監獄実験などはどうか。学生に看守と囚人役を演じさせたら、看守がどんどん嗜虐的になっていったというあの恐ろしい実験こそ、人間の闇を暴いたものではないのか?と考えたくなる。しかし、ブレグマンが8章で書いていることを読むと、この実験の結果は信じてよいものでないことがわかる。「看守たち」は科学者たちからサディスティックにふるまうよう圧力をかけられていたのであり、学生たちが自然にそうしたわけではなかった。しかも、この状況下でなお「看守たち」の多くが囚人を厳しく扱うのを躊躇していた。彼らの三分の一は囚人に親切ですらあった。この実験結果からは「人間の本質は悪」という結論は導けない。

 

本書の良い点は、内容がさまざまな知の世界へリンクしているところだ。ブレグマンは性悪説的な世界観を形作ったものとしてホッブズの『リヴァイアサン』やマキャヴェッリの『君主論』、ドーキンスの『利己的な遺伝子』などをあげているが、ここにはさらにジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリなど最近の知の巨人たちも加わる。ハラリはネアンデルタール人が滅びた原因について「サピエンスがネアンデルタール人に出会った後に起きたことは、史上初の、最も凄まじい民族浄化作戦だった可能性が高い」と推測しているし、ダイアモンドは「状況証拠は弱いが、殺人者たちには有罪の判決が下された」としている。そのハラリが本書を「私の人間観を一新してくれた本」と評しているのが面白い。性悪説といえば、ジャレド・ダイアモンドは『文明崩壊』でイースター島で起きたという二つの部族の凄惨な争いを紹介しているが、ブレグマンは6章でこの争いが本当に起きたのかを検証している。『文明崩壊』は一度読んでいるが、この章を読んで再読したくなった。ハラリの『サピエンス全史』にも興味が湧いた。本書は人間の本質を知りたい読者に、豊饒な知の世界へのアクセス手段を提供してくれている。

 

『希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』上巻を読みすすめると、世の中そんなに捨てたものでもない、という気持ちになる。だが一方で、人間が善良ならなぜ差別や戦争で多くの人が苦しんできたのか、とも問いたくなる。人間は仲間には親切だとしても、敵とみなした者には残酷だ。加えてネットの匿名性は人を攻撃的にし、誹謗中傷に苦しむ人々を生む。これでも人の本質が善だといえるのか。確かにブレグマンが言うとおり、多くの人はあまり争いを好まないのかもしれない。しかしそれは他人の目がある状況下での話だ。匿名性によって人が攻撃的になるのなら、そちらが人の本性ではないのか?

こう考えたくなってしまうのは、1章で書かれている「ミーン・ワールド・シンドローム」が原因かもしれない。マスメディアが暗いニュースばかり流すので、人々は世界を実際より危険な世界だと信じるようになる。暴動や災害・テロ攻撃など、ニュースになる出来事は例外的なものばかりだが、これらにくり返し触れることで人々は悲観的になるのだという。人間の心理は良いことより悪いことに敏感だ。狩猟生活の時代には、クモや蛇を怖がる人のほうがそうでない人より生き残りやすかったからだ。人が性悪説に傾きがちなのは、それなりの理由がある。だとすれば、ブレグマンはこの本を書くことで、人の本能に抗おうとしているのだろうか。

 

たとえそれが例外的なことだとしても、人類がさまざまな悪行を積みかさねてきたのは事実だ。ごく少数の悪人だけが悪いことをしているのではない。夏目漱石が『こころ』の先生に語らせたとおり、「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」がこの世の真相だろう。本来善良なはずの人間が、なぜ悪を為してしまうのか。本書の下巻ではその理由が明かされるようだ。その理由を知ってなお、性善説を信じる気になれるだろうか。この先を読み進めるのが少々不安であり、楽しみでもある。

 

 

kindle unlimitedにようやく中公新書が登場……でも読めるのはまだ一冊(2023年1月26日現在)

2カ月99円のキャンペーンをやっていたので、今月6日からkindle unlimitedを利用している。このサービスはいろいろな新書が読み放題になるのが強みだが、残念ながら中公新書はまだ読めず……

と思っていたら、先日偶然読み放題対象になっている新書を発見した。

 

 

今のところ、中公新書で読み放題対象になっているのはこの一冊だけのようだ。今後もっと増えるのだろうか。『吉田松陰とその家族』は松陰の評伝としては読みやすい本だし、幕末史の専門家が書いているので内容も手堅い。当ブログでの書評はこちら。

 

saavedra.hatenablog.com

中公新書で読み放題入りを希望するなら、名著として知られる『ルワンダ中央銀行総裁日記』『アーロン収容所』『元禄御畳奉行の日記』あたりになるだろうか。中公は歴史系に強いので『物語〇〇の歴史』シリーズも個人的には入れてほしい。あまり新しい本は読み放題にはならないので『荘園』あたりはしばらく無理そうだ。

 

 

岩並新書はkindleunlimitedでは『独ソ戦』『流言のメディア史』『〈私〉時代のデモクラシー』など15冊以上が読み放題対象になっているので、中公新書もこれくらいは読めるようになることを期待したい。

 

 

 

なぜ水銀を飲むと不老不死になると信じられていたのか

水銀は毒物なのに、なぜか健康にいいなどとSNSで主張する人たちがいるらしい。ほとんどの人は相手にしない主張だが、かつて水銀の服用を推奨する書物『抱朴子』が、中国では広く読まれていた。この書物は道教の重要文献で、水銀を用いた「還丹」が神仙になるために必要と説いている。なぜ水銀を服用すれば不老不死になれると信じられたのか。神塚淑子道教思想10講』にはこう書かれている。

 

 

神仙になる方法として、葛洪が何よりも重要であると考えたのは、「還丹」と「金液」の服用である。還丹は丹砂(硫化水銀からなる鉱物)を熱して作ったもの、金液は金を液状にしたもので、環丹と金液を合わせて「金丹」という。(p65)

 

葛洪は『抱朴子』において、神仙になるためには水銀だけでなく、金を溶かしたものも飲む必要があると説いた。この両者の持つ性質が、不老不死になるために欠かせないと考えられていたからだ。

 

丹砂は、熱することでその色が朱色から白銀色へ、白銀色から朱色へという変化を繰り返すところから、そのようにして作られた丹薬は、還元の性質を持つと考えられた。一方、黄金は不変の性質を持つ。そこで、還丹金液を服用することで、人体はその還元・不変の性質を得ることができ、結果的に不老不死が実現できると考えられたのである。(P66)

 

葛洪の生きた四世紀の中国には、ある物質を体内に取り入れることで、その物質の性質を自分のものにできるという考えが存在した。このため、丹薬を服用すれば不老不死になれると信じられていた。しかし、実際には水銀化合物を含む丹薬は毒物なので、唐代には武宗のように丹薬を服用して命を落とす皇帝が出てしまった。このため、不老不死をめざす方法として、修練によって体内に丹をつくりだす「内丹」の法が盛んになっていく。

 

『抱朴子』が書かれたのが四世紀なのに、丹薬が毒になることが唐の時代まで知られていなかったのは不思議だ。材料の確保が難しいので、飲んだ人があまりいなかったのだろうか。唐は帝室が道教の祖とされる老子(李聃)と同じ姓を持っているため、道教を重んじていた。玄宗は鑑真の招聘を求める遣唐使に対し、道士を日本へ伴うことを求めた。使節はこれを断ったが、もし受け入れていれば日本に道教が広まっていたかもしれない。道教の神仙思想に覆われる古代日本がどんな文化を持つのか想像したくなるが、その場合は人々が丹薬で命を縮めるリスクも引き受けることになるから、やはり道教は受け入れなくて正解だったと考えたくなる。

「人間は機械であり自由意志など存在しない」と主張するマーク・トウェインの問題作『人間とは何か?』を紹介する

 

 

これほど身もふたもない本もなかなかない。何しろこの本でくり返されるマーク・トウェインの主張とは「人間とは自己満足のために生きる機械である」というものだからだ。機械であるからには、人間のどんな輝かしい行為も称賛には値しない。崇高な慈善事業も、尊い自己犠牲も、すべてはそれを為す者の自己陶酔にすぎないのであり、満足を最大化する為に機械的になされたことなのだ──という醒めた人間観が、この作品では延々と披露される。

 

この作品は、マーク・トウェインが匿名で発表した『人間とは何か?』を漫画化したものだ。この漫画はマーク・トウェインの分身である老人と、青年実業家との対話で構成されている。老人は独自の人間機械論を展開し、「人間に人間的価値などない」と冒頭で断言する。まだ若く、この人間観に納得できない青年はさまざまな観点から老人に反論するものの、結局は老人の言い分にねじ伏せられてしまう。人間は設計通りに作用する機械であり、シェイクスピアすらも「高性能な機械」にすぎず、自力で作品を生み出したのではない、という老人の主張は極論にも思える。だが、それでも彼の言い分にはどこか抗いがたいものを感じてしまうのも確かだ。

 

この身もふたもない人間観に、なぜ抗いがたい魅力を感じてしまうのだろうか。それは、この人間観を採用することにメリットがあるからだろう。この本の最終章で老人は、「人間は無力で何も生み出してはいない。だからすべて自分が悪いと思い背負い込むこともまた人間の驕りだ」と結論づける。この考えは人々を自己責任論から解放してくれるものだ。人間が機械であり、周囲の環境に自動的に反応しているだけの存在なら、あらゆる失敗はその人のせいではなくなる。そして、あらゆる成功もその人の功績ではない。「人間は気質や環境に形作られた存在なのだから、誇りも尊厳も全て捨ててしまうべきなんだよ」という老人の言葉は、成功者の驕りに冷水を浴びせかける。そこには、確かにある種の痛快さがある。

 

人間は設定通りに動くだけの機械であり、自由意志など存在しない。この前提に立てば、自分にも他人にも寛容になれるのだと、老人は説く。全ては「なるべくしてそうなっている」のなら、我々は誰を責めることもできないし、自分を責める必要もない。自分にも他人にも優しくなれる人間機械論は、なかなかいいもののように思える。だが、この人間観を全面的に受け入れることをためらわせるものもある。あらゆる凶悪犯罪も、自分に対してなされた加害も、なるべくしてなっただけと肯定するのか。身勝手な欲望で他者の人生を破壊した人物も、本当にそうせずにはいられなかったのか、という疑問がわく。ここに人間機械論の難しさがある。結局、それは人間の自然な感情に逆らうのだ。自由意志なき世界で倫理や道徳をどう組み立てるのか、「そうせざるを得なかった」人でも裁いていいのか、という問題が立ちはだかる。残念ながら、この本はこのあたりの疑問には答えてくれていない。

 

私はあまり哲学的な人間ではないので、自由意志があるかないかではそれほど悩まない。いずれが真実だとしても、自由意志があるという建前を捨てたら社会が成り立たなくなるとは思うので、あるということにして生きていくだろう。むしろ私が気になるのは、どうしてマーク・トウェインがこんな本を書いたのかだ。彼はアメリカ文学界における最大級の成功者なのだから、自由意志を否定するインセンティブはない。他の多くの成功者のように、自分は意志と努力でこの成功を勝ち取ったのだ、と主張してもいいはずだ。人間が機械にすぎないなら、彼は自分の成功を誇る資格がなくなってしまう。なのに、どうしてわざわざこんな本を書いたのか。

 

その答えともとれる内容が、この漫画のエピローグには描かれている。ここに出てくるマーク・トウェインの娘クララによれば、「父の性格的な特徴の一つは、困っている人に温かい同情を示すこと」だという。自己責任論を退け、弱者に寛容な価値観をつくりあげるために、マーク・トウェイン人間機械論を生み出したのではないか。弱者に情けをかけるるべきだと唱えるだけでは、もともと優しい人しか弱者を助けない。弱者に同情的でない人にも、弱者がその立場にあるのは当人のせいではない、と論理的に説明するために、人間機械論が必要だった可能性はある。この漫画で最後に説かれるとおり、マーク・トウェインの人間観は「赦しの思想」だったのだろうか。

「天道是か非か」の問いに仏教の論理で答えた僧・慧遠

孔子の弟子で最も素行が立派だった顔回のような人物が早世することもあれば、大盗賊が天寿を全うすることもある。司馬遷は善人や悪人がその行いにふさわしい報いを受けないことを嘆き、「天道是か非か」という有名な問いを発した。このような徳と福の矛盾に中国思想界は苦しんでいて、南北朝時代に至ってもこの問題に悩んでいた人物がいる。たとえば東晋の戴逵は、『釈疑論』で正しい生活をしてきたにもかかわらず、さまざまな辛酸をなめてきたことを嘆いている。そしてかれは、すべては天命なのであり、君子は報いを期待することなく為すべき善を為せばよいのだ、と結論づける。ほぼ諦めの境地に達しているように思える。幸不幸は運命でしかないなら、幸せになることは度外視してやるべきことをやるしかない。

 

戴逵は『釈疑論』を高僧として知られた慧遠に送ったが、慧遠は仏教の立場からこれに反論した。慧遠によれば行いの報いは現世で受ける場合(現報)と来世で受ける場合(生報)とそれ以後の世で受ける場合(後報)の三種があり、これで善人が短命だったり悪人が栄える事例を説明できるとした。現世だけに限定して禍福の問題を考えれば戴逵のように運命論に行きつくが、輪廻転生を持ち出せば因果応報はきちんと成り立っていると考えることができる。この考え方は、当時の中国思想界に大きな衝撃を与えた。

 

 

仏教が中国の知識人の関心を得た理由の一つは、長らく福と徳の矛盾に苦しんできた中国思想に、その矛盾を解決する三世輪廻の思想を与えたからだと思われる。もちろん、仏教の三世輪廻説に対しては、荒唐無稽であるとする激しい反論も呼び起こしたが、それはこの輪廻の思想がいかに衝撃的だったかを物語る証拠でもある。インドにおいては、輪廻は苦しみの象徴とでも呼ぶべきものであり、この世に再び生まれないことが宗教的理想とされた。しかし、中国における一般知識人の受容としては、輪廻は徳と福の矛盾を解決する救済の理論とされたところに、四、五世紀の中国の仏教受容の一つの特徴があった。

(『新アジア仏教史06 中国Ⅰ南北朝 仏教の東伝と受容』p130)

 

伯夷叔斉や顔回のような人物も来世、あるいはもっと先の世で報われているのだと考えるなら、運命を嘆くこともなくなる。正しく生きたのに苦しみばかり続いた人生だったとしても、来世に期待をかけることはできる。この世の理不尽さに耐えるには、来世や死後の世界などを持ち出すのは有効だっただろう。だが人々の信仰心がおとろえ、輪廻などを信じることができなくなれば、また福徳一致の難問(アポリア)が頭をもたげてくる。司馬遷の問いが古くても心に響くのは、この難問がいまだ解かれていないせいかもしれない。

 

ミイラ職人や陶工・書記・農夫など古代エジプト人の生活が物語風にわかる本『古代エジプトの日常生活』

 

 

原書房からは古代ローマギリシャ・中世イングランド・古代中国などの日常生活を扱った本が出版されているが、今冬『古代エジプトの日常生活』が出た。この本では農夫や牛飼い・漁師などの庶民、医師や書記のようなインテリ階級、ファラオや宰相などの貴人に至るまでエジプト社会を構成する人々の生活を満遍なく紹介している。ミイラ職人のようなエジプトならではの職業の実態もわかるので、古代エジプトに興味のある人なら一度は読んでおきたい内容になっている。

 

興味をひかれた個所をいくつか紹介すると、まず三章ではナイル川の増水期に徴集される農夫の様子が書かれている。農夫の仕事場は王墓の建設現場だが、徴集された者たちは粗末な宿舎で眠り、豊富だが味気ない食べ物を食べることになる。だが仕事をさぼらない限り、労働者はひどい扱いは受けない。農夫が留守の間家族には穀物とビールが振舞われるので意外とホワイトな職場に思えるが、実は過酷な仕事は囚人や外国人捕虜に押しつけられていた。ピラミッド建設現場では労働者の待遇は意外とよかったといわれるが、その陰で犠牲になっている人々はやはり存在した。

 

六章で解説される医師の仕事は、エジプト社会を知るいい手がかりになる。医師が治療するのは切り傷や腹痛などありふれたものから、ワニやカバに噛まれた傷などエジプトならではの怪我もある。はげ頭を治してほしいと訴える者もいたらしい。医薬の材料としてはロバのミルクやハゲワシの血、オイルで熱した古本など、一風変わったものも用いられている。この章では医師のネフェルホテプは馬車から落ちて足を骨折した者の治療もしているが、これはファラオの真似をして馬車のうしろに立ちあがる者がいたせいらしい。ファラオが危険を省みない人物だと、怪我人と医師の仕事が増えてしまう。

 

書記はインテリだが、意外と庶民との接点もある。三章で農夫の家に行き、王墓の建設を手伝ってほしいと告げに行くのは書記だ。書記はエリート層とその子供たちの職業で、数年間書記学校に通い、厳しい訓練を受けてこの仕事に就く。書記は公式の書記法と筆記体の文字をマスターし、後者で日常的な業務を記録した。書記は教養があるため、詩を作ることもできる。この本の10章では、書記が学のない漁師にプロポーズのための詩を作ってやる一幕もある。この箇所は創作かもしれないが、この章に出てくる「君の姿を見ると、僕はビールなしでも胸が高鳴る」といった詩句にはなかなか味わいがある。この本の著者はエジプト考古学者だが、こういった詩句の書かれたパピルスをどこかで読んだのだろうか。

 

エジプトならではの職業・ミイラ職人の仕事の様子は七章で紹介されている。ファラオの遺体に黒曜石のナイフを入れ、腸を取り出してナトロン(ミイラ化に使われる乾燥剤)を腸の上に注ぐ……このあたりの描写はたぶん他の本では読めない、貴重なものだ。鑿を鼻孔に差し込み、木槌を打って頭蓋の中に届く穴をあけ、脳を取り出す作業は読んでいるだけで緊張感が増してくる。脳や臓器を取り出すミイラ職人の仕事は、それぞれの臓器がどこにあるかを正確に知っていなければつとまらない。ミイラ職人は極めて高度な技術を要する仕事だった。こうして作られたミイラは不思議と人を魅了する力があるようで、のちにヨーロッパではミイラをすりつぶした医薬品が人気になった、とコラムに書かれている。この本はこうしたコラムも豊富で、ここを読むだけでも自然と古代エジプトに親しめるようになっている。

「信長の軍隊は兵農分離していたから強い」は本当?平井上総『兵農分離はあったのか』

 

 

「信長は特別な戦国大名」というイメージはいまだ根強く存在している。「特別さ」の要素のひとつとして、「信長の軍隊は兵農分離が進んでいたから強かった」というものがある。他の戦国大名は百姓を兵としているから練度も低く、農繁期には戦えない弱点があるが、信長はこの弱点を克服したというわけだ。信長だけが専業の兵士を率いて戦っていたのなら、確かにその点では優位性があるように思える。だが本当にそうだったのか。平井上総氏の『兵農分離はあったのか』は、この問題を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる一冊だ。

 

一口に「兵農分離」といっても、さまざまな要素を含んでいる。『兵農分離はあったのか』では、「兵農分離」を1.兵が農民から専門家へ 2.武士と百姓の土地所有形態の分離 3.武士の居住地の変化 4.百姓の武器所持否定 5.武士と百姓の身分分離の5つの要素に分けて考察している。戦国時代の軍隊が「兵農分離」していたのかを考えるとき、多くの人が気になるのは1についてだろう。百姓は兵として戦場に連れていかれていたのだろうか。この本の最終章ではこう書かれている。

 

戦国時代に、村に住む武士・奉公人が多かったことは事実だが、兵として動員するのは正規の武士・奉公人と軍役衆であった。百姓を臨時動員することもあったが、領国の危機の時だけであり、おもな戦闘員ではなかった。(p285)

 

どこの戦国大名でも、百姓を兵として動員することは基本的にはない。この意味においては「兵農分離」は達成されている。ということは、信長軍だけでなく、他の戦国大名の軍隊も農繁期に戦えることになる。事実、第三次川中島の戦いでは四月から九月まで武田軍と上杉軍が対峙しているし、北条早雲は八月や九月に甲斐に侵攻していることは西俣総生氏『戦国の軍隊』でも指摘されている。北条早雲(伊勢宗瑞)の時代ですでにこうなのだから、戦国大名の軍隊は早くから「兵農分離」していたと考えられる。

 

 

伊勢宗瑞は後北条氏の初代というだけでなく、幕府の役職などにこだわらずに、自力のみによって支配領域を形成していったという意味において、最初の戦国大名と評されることが多い。その宗瑞にして、農繁期・農閑期を選ばずに軍事行動を起こしているのだ。戦国大名の軍隊は、最初から農兵などに基礎を置いていなかった、と考えるしかあるまい。(p98)

 

百姓が本来非戦闘員だったことは、いくつかの史料から知ることができる。たとえば北条氏の天正十五年の動員令は珍しく百姓を兵として動員対象にしているが、「屈強の者を村に残し、弱弱しい人足のような者を提出するようなら村の小代官の首を斬る」と書かれている。村が武勇の者を出し渋っている様子がうかがえるが、これは事実上の徴兵拒否だと中世史家の藤木久志氏は見ている。百姓は戦場に行く場合は陣夫(兵粮などを運搬する人足)として働くのが普通であって、戦うのは武士の役目だから、屈強な者など出したくないというわけだ。北条氏の領内では陣夫の仕事すらも忌避されがちだったようで、夫銭とよばれる税を支払うことでこの役割を逃れた例もある。戦闘員ではない百姓は、なるべく戦場には近づきたくなかったのだろう。

 

軍隊の在り方だけではなく、5.の「武士と百姓の身分分離」という点から見ても、戦国時代には明確に兵と農は分かれている。『兵農分離はあったのか』の二章では、実際に戦場に行っていた人々の身分について考察しているが、ここで注目しているのが軍役衆だ。戦国大名は軍事力を強化するとき、百姓を武士に取り立てる。これが軍役衆である。軍役衆になった時点で身分が百姓から武士に移動し、出陣する義務を負うが、百姓が村に対して負担する税金や夫役などが免除された。軍役を負担する者は戦国大名の家臣に組み込まれるので、この点でもはっきり百姓とは区別されることになる。

 

ただややこしいのは、軍役衆は武士になっても村に住んでおり、土地から切り離されてはいない点だ。歴史教科書などでは「兵農分離」というとき、武士が城下町へ集住することも指している。これが達成されていない段階では、「兵農分離」の要素のうち2.武士と百姓の土地所有形態の分離 3.武士の居住地の変化を満たせない。この点から見れば、戦国時代には「兵農分離」が完全には達成されていなかったともいえる。「兵農分離」を単に軍隊の在り方から見るなら戦国時代でも「兵農分離」はしていたが、社会構造から見れば「兵農分離」できていない部分があった。

 

3.武士の居住地の変化については、信長が城下集住政策を進めたと評価される記事が『信長公記』に存在する。弓衆や馬廻安土城下に妻子を連れてきていなかったため、これらの武士120名の自宅を焼き払わせ、無理やり移住させたというものだが、これは従来「兵農分離」政策だと理解されてきた。だが『兵農分離はあったのか』五章では、こうしたやり方が信長家臣団全体に適用できると見るのは早計だと指摘されている。弓衆や馬廻は信長の身辺に付き従う者だから安土城下に集めたのだろうが、他の織田家臣はどうだったのか。再び本書の五章を読んでいくと、織田政権の重臣の大部分は安土城下には住んでおらず、それぞれの領地の城に居住していたことがわかる。荒木村重のように、妻子を居城の有岡城に住まわせていた武将もいる。織田政権が安土城下に武士を完全に集住させたわけではないから、信長が「兵農分離」を推し進めたといえるのかは微妙なところだ。

 

私たちは信長が全国統一一歩手前まで行っていたという結果を知っているため、どうしてもそこから歴史を見てしまう。それだけの大事業を成し遂げられたからには、なにか他の戦国大名とは違う先進的なことをしていたはずだ、と考えたくなる。その先進的な政策のひとつとして「兵農分離」があげられる、と黒田基樹氏は『戦国大名 政策・統治・戦争』のなかで指摘している。

 

 

現在でも通説的な評価とされているのが、天下人となった織田信長・羽柴(豊臣)秀吉は、他の戦国大名よりも先進性があり、それゆえ天下一統をすすめ、近世社会の扉を開けた、といったような理解である。(中略)信長・秀吉に対するそのような評価は、戦前からみられるから、これはまさに近代歴史学の展開に呼応したものであった。そして先進性を生み出す要素として、経済が措定され、とりわけ戦後になって、秀吉の「太閤検地論」が画期的とされたり、それが「兵農分離論」と融合されたり、さらに遡って信長の経済政策に画期性を見出そうとする見解などが生み出されていった。(p228)

 

だが戦国時代や織豊期の研究の進展により、こうした信長や秀吉の評価は変わってきている。『兵農分離はあったのか』の終章でも、「兵農分離をめざした政策はほとんどなかった」と書かれている。ではなぜ武士の城下町への集住など、近世において「兵農分離」といえる状況がかなりの地域で生まれたのか。この本では、「兵農分離」とは「現象」なのだ、と結論づけている。「兵農分離」の要素のうち、特に武士の城下町への移住については、環境要因でこれを説明しやすい。豊臣期以降は戦争が激減し、武士は城下町での仕事を多く求められるようになった。加えて京都や江戸への参勤の機会が増えたため、武士が自分の領地に住んで経営に専念するのは難しくなった。こうした状況が、結果として城下町居住という生活形態の変化を生んだ。信長や秀吉が「兵農分離」を志向しなくても、時代がその方向に動くことはある。歴史はつねに英雄たちが望んだ方向に向かうわけではない。