明晰夢工房

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確証バイアスが「日本人は集団主義的」という文化ステレオタイプを生んだ──高野陽太郎『日本人論の危険なあやまち ―文化ステレオタイプの誘惑と罠―』

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「日本人は集団主義的である」という通説は間違っている、という記事が一部で反響を呼んでいた。この記事の参考文献としてあげられている高野陽太郎氏の『「集団主義」という錯覚 ― 日本人論の思い違いとその由来』は、2008年に刊行されている。10年以上前に、日本人=集団主義的というイメージが誤りであることはすでに指摘されていたことになる。

にもかかわらず、いまだに多くの人々が「日本人は和を重んじるため、個性が抑圧される」「出る杭は打たれる」などといった「日本人論」をなんとなく信じている。エビデンスの裏付けがなにもないこうした偏見が、なぜ信じられているのか。高野氏の著書『日本人論の危険なあやまち ―文化ステレオタイプの誘惑と罠―』を読むと、これらの偏見が定着した歴史的経緯を知ることができる。

 

 

日本人論の基礎をつくったパーシヴァル・ローウェル

本書によれば、「日本人は集団主義的」という見方の源流は、明治16年に来日したアメリカ人パーシヴァル・ローウェルに行きつく。ローウェルは著書『極東の魂』で日本人の特徴を「個性がないこと」だと強調している。なぜローウェルは、日本人の個性を感じることができなかったのか。著者は、ローウェルの日本語能力にその原因を求めている。人の個性は言葉を通じて感じ取られるので、一年ほどしか日本語を学ばなかったローウェルには日本人の個々の違いを感じにくかった、というわけだ。

 

こうした事情にくわえ、ローウェルは、民族は西から東へ行くにしたがって没個性的になる、という考えを持っていた。つまり、「アメリカファースト思想」である。さらにローウェルは「人間は進化するほど個性的になる」というハーバート・スペンサーの主張の影響も受けている。これらの説に従えば、個性の乏しい日本人は遅れた民族ということになってしまう。こうした様々な偏見にもとづいて書かれた『極東の魂』には、その後の日本人論の原型ともいうべき主張がみられる。「個我が共同体の精神に溶け込んでしまう」といった記述などがそうだ。「日本人は中国やインドの文化を輸入し模倣してきたが、独創性には欠ける」という主張もあるが、これも雑な日本人論ではいまだによく見かける。「日本人は子供の段階で止まっている」という指摘は、本書によればマッカーサーの「日本人は12歳の少年のようだ」という見解にも影響を与えているのだという。日本人論のベースをつくった『極東の魂』はアメリカでは広く読まれ、この本によってアメリカにおけける日本人のイメージが形成されていった。

 

菊と刀』は和辻哲郎柳田國男に批判されていた

こうしたアメリカにおける日本人のイメージが、日本に定着するきっかけを作ったのがルース・ベネディクトの著書『菊と刀』だ。文化人類学の名著といわれるこの本には、「集団主義」という言葉は出てこない。だが『菊と刀』は日本文化を「恥の文化」と位置づけている。周囲の人々の目を気にし、恥ずかしくないよう行動する日本人はまさに集団主義的だ。ここで描かれる日本人は、神が定めた「罪」を犯さないよう行動する西洋人とはまったく異なっているように思える。

だが、和辻哲郎は『菊と刀』について「我々の側からは、そういう結論を不可能にするための同数の反対のデータを容易に並べることができる」と批判した。柳田國男もまた、多くの日本人が「罪」という言葉を口にしていたことを指摘している。ベネディクトの日本文化論は根拠に乏しいものだった。なにしろベネディクトは日本語も話せず、来日したこともない。彼女は当時はアメリカの敵国だった日本を研究していたため、文化人類学には欠かせないフィールドワークも行えなかった。このため、それまでアメリカ人が抱いていた「集団主義的」な日本人像を踏襲せざるを得なかった、と本書の6章では書かれている。

 

では、なぜ『菊と刀』の内容を多くの日本人が信じたのか。著者は理由のひとつとして、「挙国一致」のスローガンのもと、日本人が戦争を遂行していたことをあげている。『菊と刀』の邦訳が出版されたのは1949年だが、この数年前まで日本が軍国主義一色に染めあげられていた過去をふりかえれば、「日本人は集団主義的」という言説はすんなりと受け入れられる。アメリカの占領下にあった日本において、アメリカを見習わねば未来はないと考えていた日本人にとり、ベネディクトの言葉が「天の声」に聞こえた、とも著者は指摘している。民主主義は個人の自立の上に成り立つ。民主化した日本にとり「集団主義的」な文化は、乗り越えるべき過去の遺産と受けとめられていたのかもしれない。

 

だが本書によれば、「集団主義的」な行動はどの国にもみられるものだという。アメリカでは第二次大戦中、12万人もの日系移民を強制収容所に監禁した。戦後には赤狩りの嵐が吹き荒れ、数多くの学者や芸術家・官僚が尋問を受けた。これらの人々は議会に召喚されただけで世間から白眼視されたと6章では書かれている。ここだけ読めば、アメリカも日本同様、世間による抑圧の強い国だと思えてくる。「集団主義的」な出来事だけを恣意的にとりあげれば、どんな集団も集団主義的だと言えてしまう。

ある仮説を立てると、その仮説に都合のいい事例ばかりが見えてしまうことを「確証バイアス」と呼ぶ。「日本人は集団主義的だ」という先入観を持っていると、日本人の集団主義的な行動ばかりが目につく。「アメリカ人は個人主義的」と思っている場合も同じことが起こる。本書の7章では、和辻哲郎によるベネディクト批判は、彼女が確証バイアスにとらわれていたことの指摘だと書かれている。研究者ですら確証バイアスにとらわれることがあるのだから、知的訓練を受けていない一般人は余計に信じたいことだけを信じてしまう。

 

確証バイアスが生む「文化ステレオタイプ」の危険性

確証バイアスが危険なのは、それが文化ステレオタイプを生んでしまうからだ。著者によれば「日本人は集団主義的」といった日本人論は典型的な文化ステレオタイプになる。ステレオタイプは当然事実に反するから、文化の正確な理解をさまたげる。それどころか、他国への敵意を煽るのに利用されることもある。本書の9章では、日米貿易摩擦において文化ステレオタイプが利用されたことを指摘している。対日貿易赤字の膨らむアメリカでは、日本に自主規制や数量制限などの要求を吞ませるため「日本は自由貿易のルールに従わない特殊な国だ」という認識を必要としていた。日本の特殊性とは、今までさんざん言われてきた「集団主義」だ。日本異質論は日本を叩くための格好の武器になり、反日感情が煽られた結果、東芝のラジカセを叩き壊す議員まで現れた。ここまで叩かれていても、叩かれる側の日本人までが「日本人は集団主義」という幻想を信じていた。文化ステレオタイプの呪縛はここまで強いのか、と驚くような話である。

 

東京大学がわざわざ「日本人は集団主義的であるという通説は誤り」と題する研究成果を公開するのは、いまだにこれを信じる人がたくさんいるからでもある。根拠に乏しい説でも多くの人がそれを信じていれば、影響力を持ってしまう。血液型性格診断に科学的根拠がないことなどずいぶん前から指摘されていたが、つい最近まで血液型で大まかな性格がわかると信じる人は少なくなかった。「日本人は集団主義的」という偏見が力を持たなくなるまでどれくらいかかるだろうか。「日本人は日本人論が好きだ(これもステレオタイプかもしれない)」といわれるが、「日本人は特殊だ」という言説に需要がある限り、ステレオタイプな日本人論は今後も出てくる気がする。今のところは高野氏の本を読んで、ステレオタイプを再生産する側にならないよう努めるしかなさそうだ。

飢饉・間引き・百姓一揆……木枯し紋次郎は江戸天保期の社会矛盾に翻弄された男だった

 

 

「あっしには関わりのねぇこって」──『木枯し紋次郎』をリアルタイムで視聴していない私でも、この台詞くらいは知っている。原作小説を読んでみたところ、この有名な台詞は一巻では出てこなかった。これはドラマ版のオリジナルなのだろうか。とはいえ、小説でも渡世人の紋次郎が堅気の世界とは一線を引いて生きていることに変わりはない。いや、そもそも紋次郎はあらゆる他者と積極的にかかわろうとはしない。第一話『赦免花は散った』を読めば、この紋次郎の虚無的な性格が形成された事情が理解できる。兄弟の契りを交わした仲間に裏切られ、生きる希望を摘み取られた紋次郎は目的もなく、ただ死ぬまでの時間つぶしをしながら流れ歩く男になった。彼にとって人助けはこの世に生きた証を残す手段ではなく、ただの気まぐれでしかないのだ。

 

だが、裏切られる前の紋次郎の人生が希望に満ちていたわけでもない。渡世人の人生は当てもなくさまよう船のようなもので、そこには未来も目的もない。生きようが死のうがどうでもいい、というニヒリズムの影が、つねに紋次郎にはつきまとっている。紋次郎がこんな人間になった背景には、天保期の荒んだ世相がある。この時代、農民の生活苦と飢饉のため間引きが広くおこなわれていたが、紋次郎も間引きされそうになった過去をもっている。六番目の子供だった紋次郎は生まれてすぐ間引かれそうになり、姉の機転で助けられた。その事実を八歳のとき兄から聞かされて以来、紋次郎は口をきかない少年になった。望まれた子供ではなく、生きる根拠が不確かなものとしか感じられない紋次郎が、明日をも知れない渡世人の世界に身を投じるのは必然だっただろう。

 

紋次郎が旅先で遭遇する出来事もまた、天保期の世相と大いに関係している。一巻の第3話「湯煙に月は砕けた」は、甲州騒動に参加した無宿たちが紋次郎が療養している温泉宿に流れてきて、騒動を起こすストーリーだ。この話では、甲州騒動について以下のように記している。

 

半月と少し前の八月二十日には、すぐ北の甲州で大変な騒動が持ち上がった。同じ甲州でも甲州盆地の東の部分を郡内地方と言っていたが、そこで十六の宿場と近隣の農民たちが一斉に蜂起したのであった。郡内地方は甲州街道の宿場負担が嵩む一方、特産の織物が不振に陥り、それに加えて天保の飢饉に遭遇したのであった。

餓死人、捨て子数知れずという惨状にあって、頼みとする甲府盆地の米穀商からは一粒の米も送ってこなかった。そのために激怒した農民の一揆となり、それに無宿人・盗賊・乞食などが加わった。無差別の打ち毀しに発展した一揆は、盗み、略奪、強姦、放火と暴虐をほしいままにしながら三千人の大集団にふくれあがった。

笹子峠を越え、片端から大きな商家、村役人の住まいを襲撃、百六か村三百五軒を破壊して、ようやく沼津藩と諏訪藩の兵力によって鎮圧されたのであった。(p108-109)

 

 

紋次郎は、このような騒然とした世相の中を生きていた。この騒動に参加した者たちは領主や村々から「悪党」とよばれていたが、彼らは無宿で長脇差を帯びている点、紋次郎とも共通するところがある。騒ぎに乗じて逸脱的行動をとる彼らもまた紋次郎同様、心に虚無をかかえた者たちだ。須田努は『幕末社会』において、『無宿の多くは若者であった。天保という時代、百姓として生まれた男たちには将来の”夢”などというものはなかった、としか思えない』と書いている。この時代、新田開発は限界を迎えていたため次男以下は分家独立などできず、田畑を相続できた長男にとっても年貢は重い。このため百姓として生きることを忌避し、村から離脱する「不斗出」が増えていた。不斗出はやがて宗門人別長から除外され、無宿になる。無宿とは生きる希望を持てない者たちであり、それゆえに騒動を起こしたり、紋次郎のように非社会的になったりする。甲州騒動に参加したのがアッパー系の無宿なら、紋次郎はダウナー系の無宿だろうか。

 

このような天保期の社会矛盾がもっとも重く胸にのしかかるのが、四話の「童唄を雨に流せ」だ。紋次郎が間引きされそうになった過去についてもここで言及されている。紋次郎がこの過去を思い出したのは、あるきっかけから産んだばかりの我が子の口をふさごうとしている母親・おまんを目撃してしまったからだ。他者とかかわりたがらない紋次郎がこの母親を助けたのは、我が身に降りかかった悲劇を二度と見たくなかったからである。しかし、この母子にはこの後、さらに過酷な運命が待っている。普通の人情時代劇なら待っていそうな幸せな結末は、この二人には訪れない。二人の行く末を知ったとき、紋次郎の胸の中には、木枯しにも似た冷たい風が吹き込んでいたことだろう。おまんは父に勘当された過去を持つが、この父の人間性がまたひどい。父の冷酷さと社会の過酷さに打ちのめされたおまんは、紋次郎にも救うことができない。笹沢左保の筆は、荒涼とした天保期の世界をリアルに描き出している。

 

二章に戻ると、ここでは渡世人の食についての言及がある。貸元が客人に食べさせる飯は、丼に山盛り二杯と決まっているそうだ。しかし紋次郎はここしばらく、山盛りの飯にはありつけていない、という描写がある。どこの貸元でも飯の盛り方が軽く、麦や雑穀を混ぜている。野州に行くと、粥や雑炊を食べさせる貸元衆が多くなる。そんなところに、紋次郎は飢饉が近づいていることを感じている。飢饉であっても、客人に食べさせる飯がないでは貸元の恥になる。米が調達できず、あるものを出すなら麦や雑炊になるあたりに、食事情の厳しさが感じられる。とはいえ食えるだけましなのであり、子供が増え過ぎたら口減らしのため間引き対象となってしまう。もっとも紋次郎自身は飢餓を心配したり、その対策を考えることはない。 いつ餓死しようとかまわないという、渡世人の明日を顧みない価値観がここでも顔を出す。

 

このように、『木枯し紋次郎』には天保期の世相入門書という一面がある。この小説はかなり時代考証にも力を入れているようで、一話からして紋次郎の流された三宅島の風俗や習慣がくわしく描写されている。紋次郎が旅をすると、各地の交通事情や地方の祭りなどもていねいに紹介される。こうした解説の部分は、テンポの良い現代小説を読みなれた身にはやや冗長に思えるところもある。だが小説を読むついでに天保期の社会を知ることができると考えれば、これはこれでお得な一冊ともいえる。笹沢左保はミステリ作家らしく、この作品でも一話ごとにちょっと驚くような仕掛けを用意しているので、今読んでも十分に面白い作品といえる。時代小説好きなら、『木枯し紋次郎』を読めば現代でも色あせない価値を感じることができるのではないだろうか。

ネット炎上の激化は社会比較説・沈黙の螺旋・集団的浅慮などが原因

 

 

kndle unlimitedで『眠れなくなるほど面白い図解社会心理学』を読んでいたら、ネット炎上が激化する原因を解説している箇所があった。この本の28ページでは、ネット炎上が加速する原因として「社会比較説」「集団曲化」をあげている。

 

社会比較説とは、他者の多くが自分と同じ意見であることで自分の意見に自信を持ち、その考えがより強化されることです。集団曲化(48ページ)は、集団で討論する際、メンバーにリスキーな意見の人が多ければ、集団での意思決定もよりリスキーに、逆に安全志向の人が多いとより安全に偏る傾向のことです。

 

ネットでは自分と同じ意見をすぐに見つけられるからその考えが強化されやすく、コミュニティは同じ意見を持つ人で固まりやすいから集団曲化もしばしば起きる。攻撃的な意見がコミュニティ内で優位なら、その攻撃性がより強化される。こうして炎上が加速していくと考えられる。

 

このページでは、このふたつの原因のほかに「沈黙の螺旋」「集団的浅慮」も紹介している。沈黙の螺旋とは、自分たちを多数派と認識する側はより雄弁になり、少数派と自認する側が社会的孤立を恐れて沈黙する現象のことだ。人間は社会的動物であり、周囲の状況を敏感に察知して優位な側につこうとする。その結果、多数派はさらに多数派に、少数派はより少数派になる。ネット民が燃やされる側になるのを恐れて燃やす側になることが、炎上を加速させている可能性がある。

 

「集団的浅慮」は、集団であるためにかえって不合理な判断をしてしまう現象のことだ。集団的浅慮はメンバーの結束力が強く、反対意見の出にくい閉鎖的な集団で起こりやすい。「自分たちにとって不都合な情報や反対意見の遮断などが集団的浅慮の兆候」とこの本には書かれているが、炎上が激化するなかで「沈黙の螺旋」がなりたっている状況では、燃やされる側の意見は事実上遮断されてしまう。ここで集団的浅慮が起こり、さらに炎上を加速させてしまうおそれもある。

 

こうした社会心理学の本を読むと、人がいかに社会から排除されるのを恐れているかがよくわかる。ネット炎上も人が社会的孤立を恐れ、多数派をめざす本能から加速してしまうものだが、ネット社会は必ずしも実社会とつながっているわけではない。匿名の人のツイートひとつが炎上したところで、実生活に被害が及ぶことはあまりない。それでも人は炎上を恐れる。原始狩猟社会に生きていたころの本能は、理性ではコントロールできないのか。人の脳がデジタル社会に適応できる日はくるのか。いずれにせよ、いましばらくの間、人々は燃やされる側にならないよう周囲に気を配らなくてはならないようだ。

ウクライナに直接千羽鶴を送った人はいなかったらしい(ロザンの部屋の感想)

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ロザンの二人が「ウクライナに折り鶴」の件について語っているのをきのう知った。この動画で宇治原史規が語っているところによると、戦地のウクライナに直接折り鶴を送ろうとした人は確認できなかったそうだ。「ウクライナに折り鶴」議論のスタート地点は、障害者就労移行支援施設の利用者がウクライナ大使館へ折り鶴を送ろうとしたという話で、これも実行はされていない。なのに多くの人が「戦地に役にも立たないものを送りつけようとした人がいる」という前提で議論している。以下の記事でもこの点を指摘している。

 

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送り先がウクライナ大使館でも、やっぱり折り鶴は送らないほうがいい、という意見はありうる。現にロザンの動画のコメントでもそうした意見は多く見かける。いっぽうで、大使館にだったら送ってもいいのでは、という意見も少なくない。どちらが正しいにせよ、ウクライナに直接送るのと、大使館に折り鶴を贈るのとでは印象がかなり変わってくる。先の動画で宇治原史規は「ウクライナ大使館の人は日本文化にくわしいだろうし、折り鶴をもらったら嬉しいもしれない」と話している。送り先がウクライナならこうした意見は出てきようがない。

 

いつから「折り鶴を戦地に送る人」などいういもしない人が叩かれ始めたのか、とロザンの二人は首を傾げている。ネットの伝言ゲームで情報がねじ曲がっていくのはよくあることだが、なぜこの方向にずれていったのか。ロザンの動画のコメントでは「折り鶴は当人に直接渡す印象が強すぎるから」という指摘がある。そうかもしれない。加えて、東日本大震災のイメージがある。被災地に折り鶴が大量に送られてきて処分に困った、といった話を多くの人が耳にしている。このイメージが現代に重ねられ、「戦地に折り鶴を送る困った人」という虚像がつくりだされた可能性はある。だが、あまり心のきれいでない私は、もっと別の可能性を考えてしまう。「戦地に役にも立たないものを送りつける愚か者」の存在を、じつは我々自身が待ち望んでいたのではないか。

 

最近、カルト的な反ワクチン団体のニュースをよく目にするようになった。ワクチン接種は人口削減が目的だとか、爬虫類型の生命体が人に擬態しているだとか、その主張はあまりに荒唐無稽だ。いい年をした男女が光の戦士を自称し、自分たちだけがこの世の真実に目覚めていると叫ぶさまは、多くの人々の失笑を買っている。そうした面があるからこそ、この団体はニュースになる価値がある。「愚か者を指さして笑いたい」という潜在的願望にこたえてくれる存在だからだ。陰謀論者は笑われるだけの理由はあるが、見下せる相手がほしい、愚か者を笑って憂さを晴らしたいという気持ちは、事実を都合のいい方向にゆがめることもある。ウクライナ大使館に折り鶴を送ろうとした人がいる、では叩く対象としてはちょっとインパクトが足りない。戦地のウクライナに折り鶴を送ろうとした人がいる、のほうがより不適切な印象になる。水も食料も足りないなかこんなものを送られる側の気持ちにもなれ、と叩く正当性が出てくる。「ウクライナに折り鶴を送りつける人」は、「安全に笑える愚か者」や「叩けば正しさポイントが稼げる対象」が存在してほしい、という願望のつくりだした幻だったかもしれない。

性善説と性悪説、どっちで生きるのが得?下園公太『寛容力のコツ──ささいなことで怒らない、ちょっとしたことで傷つかない』

 

 

萱野稔人『名著ではじめる哲学入門』によると、20世紀以降の哲学では性善説的な考えが優勢になっているそうだ。ヒューマニズムが浸透したのがその理由のひとつとのことだが、これはあくまで哲学の世界の話だ。市井の人々は性善説を信じているだろうか。野菜の無人販売所は世界中にあるが、人の善意を前提にしないと、こんなものは運営できない。いっぽうで、ネットの世界はデマや誹謗中傷であふれかえっている。人の本質が善か悪か、かんたんには決められそうにない。

 

ただ、性善説性悪説どちらを採用するのが得か、には答えが出ているようだ。ツイッターの人気アカウント「ぱやぱやくん」が尊敬する元自衛隊のメンタル教官・下園公太氏によれば、性善説で物事をとらえる方が人に寛容になれ、生きやすくもなるのだという。

 

あなたは、性善説性悪説、どちらの立場でしょうか?

どちらが正解・不正解というわけではありませんし、人の考え方や価値観はそれぞれですから、どちらであってもいいと思います。

しかし、本書のテーマに引きつけていえば、性善説」で物事をとらえるほうがさまざまな意味から寛容力を高くする作用があると思います。

性悪説」の人は、猜疑心と警戒心が強いため、いつも緊張しています。緊張しているということはエネルギーを消耗させているということですから、疲れています。疲れは寛容力を下げる直接的な原因である、ということは、これまでも繰り返し述べてきたとおりです。

たとえば、新卒で社会にはじめて出たり、転職してこれまでとはまったく違う環境に身を置くことになったりしたとき、誰でも大きなストレスを抱えますが、性善説」の人は、こういうピンチのときに、人に「助けて」と頼ることができます。そして、実際に手を差しのべてもらえるのです。(『寛容力のコツ』p97より)

 

なぜ性善説の人が助けてもらえるのかは書かれていないが、おそらくこういうことだろう。性善説の人は人を信じやすく、ふだんから友好的に他者に接する。多くの人に親切にしているから、いざという時に助けてもらいやすい。「人は信じられる」という考えにもとづいて行動した結果、予言の自己成就のようなことが起きているわけだ。性悪説の人は人に頼れないので、この逆の結果になってしまう。

 

とはいえ、性悪説の人も好きでそうなっているわけではない。下園氏はこの本で、現代は性悪説に傾きやすい社会だ、と書いている。人に譲るより権利を主張する人が増え、ネットで人の悪意を数多く目にする世の中になった。性悪説の人が考えを変えるのは簡単ではないが、ネットから距離を置くのは有効そうだ。実際、『寛容力のコツ』でも、ネットが心を不安定にするリスクを強調している。ウェブの毒に吞まれないためには、夜九時以降はネットを見ないなどのルールを設けるのがいいそうだ。やはりデジタルデトックスはしたほうがいいのだろうか。

 

saavedra.hatenablog.com

『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』では、無作為に人に親切にすることが幸福感を高めると書かれている。これは脳科学や心理学などの知見から得られた結論だ。科学も性善説で生きることを支持しているらしい。ある程度性善説的な考えを持っていないと、親切にはできないからだ。性悪説で生きると、「こちらの親切心につけこむ輩が出てくる」などと考えてしまい、親切にはしにくくなる。確かにテイカー(自分の利益のためだけに人から奪おうとする人)には気をつける必要がある。だが世の中テイカーだけでできているわけではないし、多くの場合、親切には親切なり感謝なりが返ってくる。相手がこちらの親切心を搾取するばかりだったら、付き合いをやめればいい。

 

 

もっとも、人を信じる、親切にするといっても、余力がなければできない。日本はもともと高ストレス社会であるうえ、今はそこにコロナ禍が重なっている。人を信じたくても、その余裕が持てない。だからこそ下園氏のように、心の重荷を下ろすカウンセラーが仕事として成り立っている。性善説で生きるためにまず自分をケアするところから始めなければいけないとするなら、なかなか難儀な話ではある。

「表現の自由」などとっくになくなっていた令和日本

 

 

安田峰俊氏の『みんなのユニバーサル文章術 今すぐ役に立つ「最強」の日本語ライティングの世界』を読んだ。1記事2000万PVを叩き出した実績のある著者の本だけに、さすがにわかりやすい。安田氏が説く「プロの日本語」の書き方は超実践的で具体的、精神論は一切ない。句読点の打ち方から改行の仕方、無駄な文章のダイエット法、漢字をひらく方法まで網羅する親切設計で、これを実践できれば文章が格段に読みやすくなることは間違いない。そのうえビジネスメールの書き方やマッチングアプリのプロフ作成法・バズる記事の書き方まで教えてくれるので至れり尽くせりだ。これで1,100円(税別)ならコスパはかなり高い。ウェブで文章を書くすべての人におすすめしたい快著だ。

 

そんなお得な『ユニバーサル文章術』だが、ちょっと気になる箇所がある。この本の8章によると、令和日本の文章術には「表現の自由」がないというのだ。炎上するアニメやマンガの広告の話だろうか、と思ったら、もっと広いジャンルの話だった。安田氏はこの本のなかで、ネット炎上を研究している山口真一氏を紹介している。山口氏の考える炎上しやすい話題は以下の3つだ。

 

1.格差を感じさせる内容:食べ物、社会保障、所得格差など

2.熱心な人がいる話題:政治・戦争・自衛隊や他国の軍・皇室・宗教・ファンの多いコンテンツやスポーツなど

3.型にはめようとする話題:性別による役割分担など

 

アニメやマンガなどがジェンダー専門家に批判されるケースは3に該当する。専門家はしばしば「この作品のキャラクターはジェンダーステレオタイプ的な描写をされている」などと指摘する。つまり性別の型にはめられているということだ。以前はこうした指摘により、作品側が炎上することが多かった。だが最近はこれらの発言が、批判された作品のファンから逆に炎上させられることも多い。とにかくジェンダーの話題がネットの火薬庫であることは確かだ。誰もが自由に男女論について語れる空気はない。

 

 

だが、「表現の自由」はアニメやマンガだけの問題ではない。政治や戦争などもデリケートな話題であって、語り方次第では多くのバッシングを浴びるリスクもある。国際政治学者の細谷雄一氏も、そんな圧力を日々感じているようだ。有名アカウントとして政治と戦争双方について語り続けるのは、かなりのストレスなのだろう。細谷氏は周囲の人に恵まれているのでツイッターを続けられているそうだが、そうでないために発言をやめてしまった人もいるはずだ。政治や戦争を語る「表現の自由」は、環境に恵まれた人、メンタルの強い人だけのものになってしまったのかもしれない。

 

もっとも、私のように無名なアカウントが戦争について的外れなことを言ったところで、それほどバッシングを受けることもないだろう。ジェンダーの話題だって、要は差別的なことを言わなけれいいだけだろう、なにも難しいことはない、と思われるかもしれない。だが事はそう簡単ではない。誰も差別したつもりもなく、ポジティブなことしか言っていなくても、炎上するリスクはあるのだ。安田氏はこんな例をあげている。

 

男性が公の場で家事・出産・育児に言及する行為もリスクが高い。たとえ「今日は妻のためにカレーを作りました」「子供にミルクをあげたよ」といったポジティブな内容でも、「今日しか食事をつくらないのか」「いつも妻がおこなっているのにミルクぐらいでいばるな」など、怒りっぽい誰かによる理不尽な攻撃を誘発する可能性がある。(p285)

 

この例にはすごく既視感がある。似たような炎上例を私も何度も見たことがある。難しいのは、安田氏も指摘するとおり、これらの批判は一定の正しさを含んでいることだ。こうした女性側の批判から男性がなんらかの気づきを得ることはありえるだろうし、何より女性側にも批判する自由がある。育児中のパパは優しく見守ってあげて、などといったら、今度は女性側の表現の自由を奪うことになりかねない。かつては女性側が抑圧されていたのだから、今度はこちらが批判するターンだといわれたら、正面切って反論するのはむずかしいだろう。

 

kensuu.com

だが、問題はその批判の数なのだ。「炎上」と呼べるほどに多数の批判が集まれば、批判された側は心が折れる。あるいは反発する。炎上させられた側が非を認めていて反省していた場合でも、バッシングがあまりにひどければ反撃したくなる。反撃すればさらにバッシングが集中する悪循環が生じ、炎上ブルースは加速していく。この流れが、上記のエントリではていねいに解説されている。叩かれる側にも非はあるとしても、犯した罪と受ける制裁の量があまりにアンバランスだ。安田氏も炎上について、集団で行使される社会的制裁が明らかに「やりすぎ」だと書いている。嘆かわしい状況だが、起きてしまった炎上はコントロールできない。なら、はじめから炎上を避けるしかない。燃えそうな話題には言及しなければいいのだ。

 

こうした事情を踏まえたうえで「炎上」の回避術を述べるなら、いちばんいい方法は「センシティブな話題には絶対に触れない」ことだ。

政治やジェンダーの話題は、たとえ肯定的な言説であっても発言しない。ウェブ上で私生活や個人情報を開示する行為も、できるだけおこなわない。

身の安全を守るために、責任感ある大人が危ない行動をしないことは決して恥ではない。登山経験が浅い人が真冬の槍ヶ岳に軽装備で登ったり、英語ができない人が深夜に一人でニューヨークの地下鉄に乗ったりしてはいけないのと同じだ。(p287)

 

太字の部分は私ではなく安田氏が強調しているものなので、よほど強く伝えたいのだろう。ネットでは政治やジェンダーの話題は、真冬の槍ヶ岳なみに危険なものになってしまったようだ。もっとも安田氏は炎上を恐れて自分の表現を委縮させるのもバカバカしい、とも書いている。どうしても書きたいなら、リスクを恐れず書くしかないのだ。ただし、センシティブな話題に触れるなら周到な準備が必要だ。しかるべき根拠を用意し、入念なファクトチェックをおこない、ユーモアを交えて叩かれるリスクを下げる。これくらいの自衛策を用意するのがプロだ、と安田氏は説く。きっちり自衛したうえで紛争地へ飛び込むか、そもそも紛争地を避けるか。表現の自由とは、前者を選ぶ覚悟のある人だけのものになったようだ。

現代日本における表現の自由は、残念ながらすべての人間には保証されていない。「プロ」の覚悟をちゃんと持っている人が、戦わないと得られない権利なのである。(p288)

 

幸せになる方法は科学的に解明されつつある──『「幸せ」について知っておきたい5つのこと NHK「幸福学」白熱教室』

 

 

幸せとは何か。どうすれば幸せになれるのか。これは古来、宗教や哲学の扱う問題だった。だが最近は違うようだ。『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』によれば、近年は脳科学やロボット工学・心理学など用いて、幸福を科学的に研究する機運が高まっているという。科学的に幸福を探求する「幸福学」は、幸福感を得るためのシンプルな方法を、この本の読者に提示してくれる。

 

この本を読むと、幸福感を得るための「幸せのレシピ」は、それほどハードルの高いものではないことがわかる。第一章で紹介される幸せの材料は、人との交わり・ここにいること・親切の3つだ。「人との交わり」は良好な人間関係を結ぶことだが、これは「コーヒーショップの店員と笑顔で会話すること」程度でもかまわない。これなら今親しい人が周りにいなくても実行できる。

 

無作為に人に親切にすることも幸福感を高める。ただしこれにはコツがあって、1日ひとつだけ親切にするよりも、週に1日だけ5つの親切を実践するほうが幸せになれるそうだ。親切と対になるのが感謝で、日々小さなことでいいから感謝の気持ちをつづる日記をつけたグループは、普通の日記をつけたグループよりはるかに幸福感が高かったという。一日一善より週一多善のほうが幸せになれる理由が知りたいところだが、残念ながらそこまではこの本には書かれていない。

 

幸せのレシピの3つ目「ここにいること」は、目の前のことに集中すること。つまりはマインドフルネスだ。逆に、スマホなどを使用すると注意力が散漫になるので幸福感が下がってしまう。生活が便利になってもあまり幸福になった気がしないのはこのせいだろうか。実際、スマホのメールチェック1日3回に制限すると、1日何度もチェックするよりストレスが減るそうだ。我々は日々スマホを使っているのか、それともスマホに使われているのか、たまには見直したほうがいいかもしれない。

 

この「幸せのレシピ」のいいところは、実行する人を選ばないところだ。第三章で「幸福学のインディ・ジョーンズ」の異名をとるエド・ディーナー博士は「出身地や収入レベルは関係なく、すべての人が幸せになれる可能性を持っていると思います」と言っている。実際、宝くじで高額当選した人ですら、外れた人より並外れて幸せではないという調査結果もある。日本は1950年代にくらべてはるかに豊かになっているのに、日本人の幸福度はこの頃からずっと横ばいだ。お金はたくさんあったほうがいいが、幸せになるために大金持ちをめざしても当てが外れるかもしれない。

 

この本を読んでずっと感じていたのは、通俗的な道徳はおおむね正しかったのではないか、ということだ。他者に親切にせよ、日々小さなことに感謝するべきだ──といった道徳訓は、いかにも説教くさく聞こえる。だが、結局そうしたほうが幸せになれるといわれれば、こうした道徳を守る人も増えるかもしれない。この本の二章では「人のためにお金を使うと幸福度を上げられる」と書かれているが、決して豊かでないのに寄付をする人がいるのはこのせいではないだろうか。寄付をする人はそれが善行だからそうしているのだろうが、同時にそれが幸福感をもたらすことを経験的に知っているのかもしれない。善行には確かなメリットがあるのだ。

 

一方で、こんな疑問も出てくる。善行が幸せをもたらすのに、なぜ多くの人は寄付をしたり、それほど他者に親切にしたりしないのか。善行が得になると皆が知っているなら、わざわざ利他だの隣人愛だのを説く必要もないはずだ。糖や脂肪は脳に快楽をもたらすから、太るとわかっていてもなかなか摂るのをやめられない。これらの栄養素を求めるのは人の本能であって、摂ると気持ちよくなることを人はあらかじめ知っている。だが、善行が幸福感をもたらすことは、幸福学を学ばないとわからない。ということは、人の本質は善ではないのだろうか。幸福になる方法を考えるのは哲学から科学の仕事になったのかもしれないが、こうした人の本質について考えることは、まだ哲学の仕事なのかもしれない。