明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

山田風太郎『人間臨終図鑑』で知る「かわいそうセンサー」の反応する場所

 

 

中年男性が過労死しても顧みられないのは「かわいそうランキング」が低いからだ、といわれることがある。一般論としてはそうかもしれない。だが、山田風太郎『人間臨終図鑑』を読んでいると、中年男性の死でも気の毒に思えることが多々ある。そりゃ有名人だからだろう、と思うだろうか。でも有名人の死なら誰でもかわいそうだと思えるわけではない。気の毒かどうかは死んだ状況、死に方によるのだ。『人間臨終図鑑』は年齢別に古今東西の有名人の最期をひたすら並べている本だが、これを読んでいると自分の「かわいそうセンサー」が何に反応するかがよくわかる。

 

一般論として、やはり若者の死のほうが同情されやすいことは否定できない。この本を読んでいても、10代や20代での死はおおむね悲劇的だと感じる。若すぎる死と感じられる上限はぎりぎり30歳くらいだろうか。義経がちょうどこの年で没している。これはやはり悲劇だ。31歳を超えると中年という雰囲気が出てくるので、悲劇性はしだいに薄れてくる感じがある。

 

とはいっても、「かわいそうセンサー」が反応する最期なら、31歳を超えていても同情はする。私の場合、才能ある芸術家が世に認められる前に逝ってしまう、という場合は特に同情してしまうようだ。30代ならシューベルト(31歳)、モディリアニ(36歳)、ゴッホ(37歳)など。同じく37歳で逝ったロートレックも生前は偉大な画家とは思われていなかったから、ここに数えてもいいだろうか。これらの人物に同情しない人もいるに違いない。芸術家などという不安定な職を選んだのだから自業自得だ、と思う人もいるだろう。万人の「かわいそうセンサー」に訴える最期などない。

 

比較的若くして死んでいても、革命家的な人物の場合、私の「かわいそうセンサー」は反応しない。坂本龍馬32歳、ダントン35歳、ロベスピエール36歳。死ぬにはまだ若い年齢だが、命を燃やし尽くしたんだから認められなかった芸術家よりいいだろう、なんて思ってしまうのだ。彼らだってもっと生きたかったはずなのに、こんなことを考えてしまうのだから勝手なものだ。政治にかかわりたいと思ったことがないから同情できないのだろうか。このように生きたい、と思えない人物にはあまり感情移入できない。

 

『人間臨終図鑑』は、wikiで有名人の最期を無料で読める現代においては、出版当時よりもその価値は下がっているのかもしれない。それでもこの本を今読む意味があるとするなら、それはどんな最期に感情を動かされるのか、を知ることができる点にある。有名人の最期をたくさん知ったところでそれ自体は雑学にしかならないが、人の最期を通じて自分自身が見えてくるのはなかなかおもしろい。通読すれば、意外な人物に心動かされている自分を発見して驚くこともあるかもしれない。

kindle unlimitedを2ヶ月使ってみた感想とおすすめ本

kindle unlimitedを去年の11月9日から使いはじめて2ヶ月になろうとしている。2ヶ月299円の価格につられて試してみたサービスだが、100分de名著シリーズや光文社新訳の古典がたくさん読めること、新書もけっこう幅広く読めることなどが魅力で、最初の1ヶ月くらいはこれらの本を読みあさっていた。

 

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結果として、それまで何となく読んでしまっていたネット上の議論や揉め事などを見る時間が激減し、かなりストレスを減らすことができた。ある意味デジタルデトックスにもなっていたわけで、時間を有意義に使う、という意味でも役に立つサービスではないかと思う。

 

ただし、1か月を過ぎるころから徐々に飽きてきた。読める新書に新しいものはあまりないし、古典はじっくり時間をかけて紙の本で読みたいのでkindleで読む気があまりしない(これは人によるだろうと思う)。100分de名著シリーズのような入門書的な本がたくさん読めるのはいいが、私は興味の幅がそれほど広くなく、仏教やギリシャ哲学関連の本数冊を読んだら満足してしまった。

 

 

漫画で読める名著がたくさんあるのはいい。中でも『ソクラテスの弁明』はほぼ原作とおりなうえ、『パイドン』の一部も入っているのでお得。まんがで読破シリーズでは『神曲』『死に至る病』『エミール』などを読んだ。漫画ではほんのさわりくらいしかわからないかもしれないが、それでも入門書としては役立つ。『死に至る病』は思想部分にはあまり惹かれなかったが、キェルケゴールの苦悩に満ちた人生そのものが物語として成り立っていた。

 

 

kindle unlimitedは結局サブスクなので、各分野の入門書的な本をつまみ食い的にたくさん読むのに一番向いているのだと思う。逆に専門書的な者はあまり読めないので、なにかを深く知りたい人には向かない。といっても例外はあり、このサービスでは『新アジア仏教史』を全巻読むことができる。仏教史について知りたい方はこれを読むためだけに使ってみてもいいかもしれない。

 

 

歴史好きな人にとっては、『信長公記』『神皇正統記』などの現代語訳が読めるメリットもある。歴史系の古典では『雑兵物語』が抜群に面白く、弓兵も槍兵も鉄砲足軽も、騎馬武者と戦うならまず馬を狙えと書かれている。「将を射んと欲するなら……」はやはり正しかったのだろうか。唐辛子を身体に塗れば暖まるが、その指で目を触るなといった生活の知恵まで書いているのが楽しい。

 

 

マンガや自己啓発書はあまり読まないので、これらが読みたい人とってのkindle unlimitedの価値はよくわからない。ただ、著者に興味があったため読んだ『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』はいい本だった。その願望は本当の願望なのか、をひたすら内観していくこの内容は、ある意味アンチ自己啓発ともいえるかもしれない。個人的には紀里谷和明氏がこのような本を書いていることが驚きだった。

 

これまで紹介した本以外にも、kindle unlimitedで読めてよかった本は少なくない。以下、そのうちの数冊を紹介する。

 

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いつもの永田カビ、といわれればそれまでだが、理解あるパートナーが現れなくても幸せにはなれるらしい……というわけで、その種の展開が苦手な人にも安心して読める内容。

 

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悪人正機説は何も突飛なことを言っているわけではないことがよくわかる一冊。そもそも「善人」「悪人」の定義が我々の考えるそれとは全然違っていたのだ。親鸞があくまで仏教における「悪人」(=煩悩まみれで自力で悟りを開けない人)に寄り添っていたことがよくわかる内容だった。

 

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やはり読むべき古典はある、と思い知らされた一冊。ストーリー自体はよく知られたものであっても、格調高い文章に触れる意味はある。古代ギリシャの息吹は原典に近いものでなければ感じにくい。

 

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これ以上ないくらいわかりやすい初期仏教の入門書。なぜ仏教では悟りを開いて輪廻からの解脱をめざすのか、古代インド人の思想を紐解きつつていねいに解説してくれている。これを読んで初めて「諸法無我」の意味が理解できた。

 

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なぜカルトから抜け出すのが難しいのか、がよくわかる漫画。カルトには独特の「承認の場」があり、自分が特別にな人間になったかのような感覚に浸れる。この味を覚えたら容易には外の世界に出られない。幸運も手伝ってようやく世間に戻れた著者の戸惑いや恐怖もよく描かれていて、自由であることの困難さを思い知らされる。

 

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江戸初期のキリシタンたちがいかに弾圧に抗し、信仰を貫いたかを記した本。捕まれば火刑になるとわかっているのにみずから名乗り出て、殉教したがる日本人の信仰心の強さにはただただ驚かされる。信仰を捨てた武士を臆病者と罵ったという、家康の意外なエピソードも知ることができる。

 

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古今東西の有名人の臨終のようすを年齢別に並べている本。歴史上の人物については淡々とした記述になっていることも多いが、近代以降の人物については詳しく書かれている。どんな死に方に同情できるかで自分の価値観が浮かび上がってくる一冊。

 

kindle unlimitedは30日間無料体験できるので、無料期間中にこれらの本以外にも面白そうな本は探せるのではないかと思う。30日では読みきれないほどよさそうな本がたくさんあったら継続すればいいのではないだろうか。

 

【書評】秦の軍事制度から古代中国の性差まで多彩な論文を収録した『岩波講座世界歴史05 中華世界の盛衰』

 

 

今年10月から岩波講座世界歴史新シリーズの刊行がはじまった。刊行二冊目になる『中華世界の盛衰 4世紀』では、殷から西晋末にいたるまでの中華世界およびその周辺世界を扱っている。通史を扱っているのは『「中華帝国」以前』『漢帝国の黄昏』『漢人中華帝国の終焉』で、ここを読めば古代中国の通史について一通りおさえることができる。

 

この本は全体として辺境を意識したつくりになっていて、『漢人中華帝国の終焉』では後漢の西北辺境を守備した「西北の列将」がこの時代、国家を支える人材として厚遇されたことを説く。『楽浪と「東夷」世界』『漢晋期の中央アジアと中華世界』では中国東西の辺境世界についてそれぞれ概観し、『漢魏晋の文学に見られる華と夷』では李陵や王昭君など夷狄の地に送られた人物と文学の関係について論じている。このため中国だけでなく周辺世界について知りたい読者にもおすすめできる。

 

この本に収録されている『軍事制度から見た帝国の誕生』は、なぜ秦が他の戦国六国を征圧できたかを考えるうえで役に立つ。荀子は秦について「民は軍功をあげる以外に国から利益を得る方法がない」と指摘していたが、この論文は秦の軍功報奨制度を概観しつつ、荀子の主張を裏づけていく。秦では敵の首級をひとつあげると爵一級が与えられたが、一級でも爵位を獲得すると支給される耕地の面積が増やされた。爵位は子孫にも継承されるためこれを得るメリットが大きく、兵士を戦場で勇敢に戦わせるうえで役立っていたと解説されている。

秦では兵役や徭役労働も細かく整備されている。重要なのは秦では物資輸送など、徭役労働にまず動員されたのが刑徒だったことだ。刑徒を徭役に用いれば生産活動を阻害しない。もちろん刑徒だけでは労働力が足りないが、一般人民を服役させるときは農繫期には富者・農閑期には貧者を派遣するなどして生産活動を安定させる配慮がなされている。荀子が称賛した軍功報奨制度は、こうした制度と連動して機能していたとこの論文では結論づけている。秦が刑徒労働に頼ることができたのは、それだけ秦の法が過酷だったからなのだろうか。

 

岩波講座世界歴史の新シリーズはジェンダーにも焦点を当てることが特色だが、この巻では『礼秩序と性差』でどのように古代中国における性差が形成されてきたかを解説している。この論文によると、古代中国における男女の差異を強調しているのが『春秋左氏伝』荘公二十四年で、ここでは「男女の別は国家の大いなるけじめ」と記されている。春秋時代においてすでに、両性を分ける思考は存在していたことになる。「男女の別」は『礼記』にもみえるが、男女の区別を軽んじることが国家や社会の混乱につながるという考え方が儒家の礼理念のなかにあらわれていることがわかる。

儒家の考える「男女の別」の中身は、結婚観に最もよく見てとることができる。『礼記』では妻が夫に従うべき存在であると明言している箇所があるが、これが婚姻における「男女の別」になる。妻は家を存続させるため出産の役割を期待され、そこでは個人より家の論理が優先される。こうした男性優位の文化は二里頭文化の時代にすでに存在していたようだが、戦国時代には西周時代に比し、夫の墓に対して妻の墓が小さくなるなど、さらに男女の差異が大きくなっていった。『礼記』は戦国時代から前漢時代にかけて成立した書物なので、この時代の男性中心的な価値観が反映されていることがわかる。戦国時代は人材が諸国間を移動するダイナミックで自由な時代というイメージがあったが、性差という点からみると窮屈な点もあり、この論文を読んで少し印象を新たにした。

豊崎由美氏は「書評」をどう定義しているのか?豊崎由美『ニッポンの書評』

 

 

豊崎社長とけんごさんの一件を見て以来、書評とは何かが気になってきた。書籍にどう言及すれば書評になるのか。せっかくだから、ここはトヨザキ社長の見解をうかがってみることにする。『ニッポンの書評』の第一講において、豊崎さんは作家と批評家、編集者と書評家の関係性について、このように解説している。

 

わたしはよく小説を大八車にたとえます。小説を乗せた大八車の両輪を担うのが作家と批評家で、前で車を引っ張るのが編集者(出版社)。そして、書評家はそれを後ろから押す役割を担っていると思っているのです。

 

これはかなり明快な整理だ。作品の構造を分析し、それが今書かれる意義を明らかにする批評家と異なり、「これは素晴らしいと思える作品を一人でも多くの読者にわかりやすく紹介すること」が書評家の役目だと豊崎さんは語る。書評家は読者と作品の間をつなぐ存在で、批評家とはまったく別の存在だとここでは位置づけられている。

 

では、具体的に何を書けば「大八車を後ろから押す」ことになるだろうか。豊崎さん自身は第一講で「読んで面白けりゃ、どんな書き方したっていいんじゃねーの、というアナーキスト」を自称している。書評とは自由で幅の広いものなのだ。だがこれだけだと何を書けばいいかわからない人も多いだろう。そんな人には第二講がヒントになる。この本の第二講で豊崎さんは「粗筋紹介も立派な書評」と書いている。それなら誰でもできそうに思えるが、粗筋紹介はそんなに簡単なものではない。粗筋をつかむには読解力が必要だ。書評は比較的短く書くことが求められるので、書評家は正確にストーリーを把握したうえ、簡潔に説明できなくてはいけない。だから削りに削った粗筋と引用にこそ書評家の力量が出る、と豊崎さんは言う。その粗筋が面白そうなら、書評家は応援の役割を果たせるのだ。

 

書評がきちんとその機能を果たすには、書評においてやってはいけないことを考えるのも大事になる。書評の禁じ手とはなにか。豊崎さんが第二講で語る書評観はこうだ。

 

1.自分の知識や頭の良さをひけらかすために、対象書籍を利用するような「オレ様」書評は品性下劣。

2.贈与としての書評は読者の信頼を失うので自殺行為。

3.書評は読者に向かって書かれなければならない。

 

これには完全に同意する。書評家はあくまで黒子に徹するべきで、自分自身が前に出てきてはいけない。作品をダシにした自分語りなど書評ではない。読者は作品について知りたいのであって、書評家の自慢など聞かされたくはないのだ。余計なことを書かず、作品の魅力を伝えることに徹するべし、という点から、豊崎さんは一切ぶれていない。

 

ここまで述べてきたとおり、書評家の役割は作品の魅力を伝えることにある。だが、魅力を伝えられればなんでも書評になるのだろうか。極端な話、有名芸能人がツイッターで一言「涙が止まりませんでした」と小説に言及すれば、宣伝効果はあるだろう。これは「書評」だろうか。ふつうに考えて、これはただの「感想」ではないだろうか?

 

素人の感想とプロの書評の違いはなにか。両者の区別は実は難しい、と断りつつ、豊崎さんはプロの書評には「背景」がある、と書いている。膨大な読書経験から身につけた語彙や物語のパターン認識、個々の本がもつさまざまな要素を他の本の要素と関連づけ、「本の星座」のようなものを作り上げる力。それがプロの書評家には欠かせないというのだ。自分流に言い直すなら、面白いとかつまらないとかの感想は、本に対する「反応」にすぎない。そこには自分と本との一対一の関係性しかない。だがプロの書評は、その本の魅力を他作品との比較や関係性のなかで語ることができる。その書評は他の多くの本とのネットワークをもっているのだ。直接他の本に言及しなくても、文章におのずと評者の深い知識と豊富な読書経験がにじみ出てくるのがプロの書評、ということになるだろうか。

 

ここまで書いてきて、あらためてけんごさんの動画は書評だっただろうか、と考えてみたりもする。少なくとも彼は「大八車を押す」ことは十分できていた。役割からすれば、書評家と同じことをしていたことになる。それでもけんごさんは「書評家」ではなく「小説紹介クリエイター」と名乗っていた。もっとも、肩書などどうでもいいことかもしれない。大事なのは作品の魅力を伝えられているかどうかだ。押される大八車からすれば、どう押されようが関係はない。書評であれ感想であれ紹介であれ、それぞれが好きなやり方で押せばいいし、推せばいいのだ。

 

(追記)

豊崎由美氏は「書評」をどう定義しているのか?豊崎由美『ニッポンの書評』 - 明晰夢工房

自身と他者の関係性をどう捉えようが自由だとは思うけど、批評家が両輪の片方を担うというのはだいぶ不遜な印象を受けた。作家は批評家なしでも前進できるけど、批評家はそうじゃないじゃん?

2021/12/19 09:48

b.hatena.ne.jp

何だ、この野郎は。私はこの阿呆と今まで口をきいたこともない。人を不遜と罵るなら、まず自分が初対面の人間への礼節を保て。作家が批評家なしでも前進できるというなら、ブロガーだってid:nunulkのようなブックマーカーなど必要としていない。安全圏でイキるしか能のない有象無象の分際で偉そうな口を叩くな。

【書評】呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』

 

 

本書の特徴をかんたんに言うと、「公武対立史観にとらわれない歴史叙述」になる。公武対立史観とは、公家と武家の対立関係を宿命的なものとみなす歴史観のことだ。この史観に立つと、治承・寿永の内乱や承久の乱は「朝廷に対する武家独立戦争」になるが、事実はそう単純ではない。源頼朝は貴族社会の一員だったため朝廷には妥協的な一面があり、鎌倉幕府成立以後も公家は武家に対して優勢だった、というのが著者の見方だ。武士の全国支配が確立されるには承久の乱を待たねばならない。承久の乱において鎌倉幕府の指導者は北条義時なので、「武家政権の誕生」を叙述するには頼朝と義時をセットで語る必要がある。

 

公武対立史観を離れた頼朝像とはどんなものか。第四章を読むと、頼朝が征夷大将軍の位を求めたのは、御家人との関係を人格的結合から制度的結合に移行させるため、と書かれている。御家人の統制のために征夷大将軍の権威が必要だったのであって、東国独立構想に基づいて将軍位を求めたわけではない、という解釈だ。

また、この章では頼朝が娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させる計画を進めていたことにもふれている。これは平清盛同様、天皇外戚として権力を振るおうとする失策と評価されたことがあった。だが著者は、そのような見方は「頼朝は朝廷から独立した武家政権の確立をめざしていた」という先入観からくるものと指摘する。この当時、頼朝の最重要課題はみずからの家を源氏嫡流として復興することであり、そのために鎌倉将軍家の家格を上昇させる必要があった。大姫入内計画もその一環ということである。頼朝自身は「王家の侍大将」という自意識を生涯持ち続けており、「頼朝の政治構想は、他の武家の棟梁たちのそれに比して、抜きんでて画期的、斬新だったとは思えない」というのが著者による政治家・源頼朝の評価になる。

 

この頼朝から政治手法を学び、北条家の覇権を確立していったのが義時である。義時の人生のハイライトはもちろん承久の乱だが、第八章における「承久の乱の歴史的意義」には興味深い記述がみえる。幕府は京都を制圧したのち、後鳥羽院の王家領荘園をすべて没収しているが、幕府はこれをわがものとせず、後高倉院に進上しているのである。この事実をもって、著者は「幕府は、院政や荘園制といった既存の政治・社会体制を否定しなかった。その意味で承久の乱は『革命』ではない」と結論づける。これは、承久の乱を革命と位置付ける大澤真幸氏への批判でもあるだろう。ここでも公武対立史観は注意深く退けられている。もちろん後鳥羽院に勝利したことにより、鎌倉幕府が全国政権に成長したことはきわめて重要だ。だが、義時も頼朝同様、朝廷との共存をはかっていたことにも目をむける必要がある。

 

本書では頼朝と義時の人柄についても考察が加えられている。二人とも戦場での華々しい活躍がなく、権謀術数を駆使したため、どこか冷酷な印象もある。だが、彼らの行動については当時の政治的状況のなかで考える必要がある。頼朝が義経を討伐し、範頼まで粛清したのは、著者によれば後継者問題が背景にある。嫡男の頼家がまだ幼いため、ライバルになりえる義経や範頼を排除したというわけだ。もともと頼朝は一介の流人であり、東国武士の神輿の上に乗っているだけの存在だった。そんな頼朝が猜疑心の強い人物になるのは当然であり、立場を守るため粛清をくり返したのもやむをえない、と本書では指摘される。孤独な境遇が頼朝の政治力を鍛えたということになるだろうか。なお、頼朝は弱小武士や僧侶など、利害関係のない相手には優しい一面もあったという。

 

義時の人物像は頼朝にくらべはっきりとしないが、「陰謀家」のような印象もある。実朝暗殺について、義時が黒幕だと古くから言われてきたからだ。『吾妻鏡』によれば実朝が鶴岡八幡宮に参拝する直前、義時は体調不良を訴え、自宅に戻っている。この後実朝が暗殺されたことを考えると、確かに義時は怪しく思える。だが著者は『愚管抄』の記述がより信憑性が高いと考え、実朝の指示によって中門付近に控えていたのが真相だと指摘する。義時と実朝の間に深刻な意見対立はなく、義時が実朝を暗殺する動機はない。義時を「冷酷な策謀家」とする通俗的な見方は、ここでは慎重に退けられている。著者がまえがきで記すとおり、冷酷なだけの人物は人の上には立てない。頼朝同様、義時もまた政治姿勢が時代の要請に合っていたからこそ権力を握ることができた、という本書での評価は、おおむね公平なものと思える。

 

本書は偉人伝の体裁で書かれていないので、英雄物語を求める向きにはあまりおすすめできないかもしれない。だが『吾妻鏡』によりつくられた頼朝や北条一族の虚像を修正しつつ、諸説を検討しながら何が史実かを慎重に追っていく叙述スタイルは堅実で、信頼がおけるものと思う。史実を追求すると時には身も蓋もない現実をまのあたりにすることになる。壇ノ浦での義経の勝因は漕ぎ手に矢を射かけたためではなく、単に兵力で勝っていたからとの見解も知ることができる。こういう、英雄の生身の姿を知りたい方には間違いなく本書はおすすめできる。文章も読みやすく、治承・寿永の乱から承久の乱にいたるまでの重要な出来事はすべておさえているので、この時代の政治史を知るうえでは格好の一冊といえる。

 

なお、この本のあとがきには呉座勇一氏の「反省の弁」が載っている。氏が大河ドラマ降板に至った経緯を考えるといろいろ思うところはあるものの、この文章は本心から出たものと受け止めたい。

【感想】最強の石垣職人vs至高の鉄砲職人の戦いの行方は?今村翔吾『塞王の楯』

 

 

今村翔吾がまたやってくれた。『じんかん』では「悪人」ではない松永久秀の激烈な生涯を描いた作者が今回主人公に据えるのは、「穴太衆」とよばれる石工の青年・匡介。幼いころに信長に故郷の一乗谷を燃やされ、家族をすべて失った匡介は、堅固な石垣をつくることに一生をかけている。誰も落とせない石垣をつくれれば、その先に戦のない世が待っている──との理想に燃える匡介は、師匠の源斎が認めるほどの石積みの天才でもある。『塞王の楯』は、この匡介が石垣作りの技術を生かし、愛する者を守るため、戦国乱世に身を投じていく物語だ。これは熱い。

 

本作において、石工はただの技術者ではない。時には石垣を崩して敵兵を攻撃したり、複雑な通路を作って敵を惑わしたりするなど、戦局を左右する力すらもっている。匡介もまた、大津城城主・京極高次の信任を得て、この城を囲む毛利軍との戦いを全力でサポートすることになる。匡介の「上司」になる京極高次は不思議な魅力を持つ男で、武将としての才能はまるでない。だが人柄がよく、職人の匡介にもあたたかな言葉をかけてくる。自分が無力だと知っているからこそ、才あるものを信任することで力を出させるタイプだ。この人は自分が支えてやらなければ、と思わせる、ある種の「名将」として描かれる京極高次のために、匡介はすべての力を出し尽くす。

 

大津城を攻めてくる西軍のなかには、猛将として知られる立花宗茂がいる。宗茂に篤い信頼を寄せられているのが匡介のライバルとなる天才鉄砲職人・彦九郎だ。彦九郎もまた、匡介同様に太平の世を作る理想をもっている。ただしその方法論は真逆だ。圧倒的な火力を持つ大筒で多くの死者を出せば、それに懲りてもう戦などしなくなる──との計算に基づき、「人殺し」と罵られつつも、彦九郎は最強の火砲をつくることに心血を注いできた。「西国無双」立花宗茂が率いる最強の火力を持つ集団は、当然恐るべき敵になる。本作における大津城の戦いは、「最強の盾」匡介の石垣と、「最強の矛」彦九郎の火砲の戦いでもあるのだ。

 

本作のハイライトとなる大津城の戦いでは、穴太衆の「懸」が発動される。「懸」とは石を積む「積方」に加え、運搬係の「荷方」、山から石を切り出す「山方」まで総動員して石垣を組む号令のことである。立花宗茂の猛攻をふせぐため、穴太衆は突貫作業で石垣をつくらなければならない。匡介率いる穴太衆が組む石垣の防御力と、彦九郎が持ち出した大筒の威力のいずれが上回るのか。激しい攻防戦がくり返され、時には大津城天守にすら危険が及ぶ状況のなか、匡介はある境地にたどりつく。石積みの奥義とは、城を守る最強の盾とは、何なのか?この問いへの答えを匡介が知る場面には、深い納得感があった。ここまで532ページにわたって積みあげられてきた物語は、すべてこの答えを導き出すためのものだった。ここに至るまでは、師匠の源斎も、荷方の玲次も、京極高次も、大津城の民も、誰一人欠けてはならなかった。一乗谷落城以来の匡介の人生経験のすべてが、この場面に集約される。見事な構成だ。『塞王の楯』は、それ自体が緻密に組み上げられた石垣のような作品なのである。

書評も大事だけど、日本人の47.3%が本を読まない時代には「紹介」も大事

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このニュースでけんごさんに興味が出てきたので、TikTokの動画を見てみた。動画はどれも30秒くらいで、視聴者に刺さりそうなフレーズをうまく用い、小説の魅力的なところを簡潔に紹介している。これが書評かといわれればそうではないと思うが、そもそもけんごさんの肩書は「小説紹介クリエイター」なので、書評ができないことは問題にならない。動画を観る人が本を読みたくなればいいわけで、実際にその目的は達成できている。

 

けんごさんは単にTikTokで受けそうな、今流行っている作品だけを紹介しているわけではない。「読む絶望 心がえぐられまくる作品」と題した動画で「まずはこのイラストを見てください。なんと可愛いイラストでしょう。でもこの作品、心が痛くなるほどの社会問題を描いているんです」と紹介されているのは桜庭一樹の名作『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』だ。イラストと内容のギャップを使って視聴者の興味を引き、一昔前の名作に誘導できている。これは「杜撰な紹介」だろうか。確かに、作品内容に深く切り込む「書評」ではないが、古い作品でも手にとらせるだけの力はこの動画にはあると感じる。少なくともTikTok利用者には受け入れられている。

 

豊崎社長がやってきた、文学賞受賞作をメッタ斬りにするような「書評」は、もともと活字好きな人向けのものだと思う。書評を読む人を増やすにはまず読書人口を増やさなければいけないが、けんごさんの動画は活字好きへの入り口にはなり得る。確かにTikTokの動画は一過性の流行を生み出すだけに終わるかもしれないが、動画を観た人の何人かは継続して本を読むようになるかもしれない。長い目でみれば、けんごさんの活動は豊崎社長のように書評を仕事にしている人にもプラスになりえるはずだ。書評を読めるほどの読者を育てるには、まず有能な紹介者が必要なのだ。書評家と紹介者の役割は別であり、ターゲット層もまったく異なるのだから、紹介者に書評ができないことを問題視しなくてもよかったのではないか。

 

そこにどんなに魅力的な小説があっても、まずは手にとってもらえなければどうにもならない。動画やソシャゲなど、活字より魅力的に見える娯楽がたくさんある状況下で、どうやって本の魅力を伝えればいいか。そこを考えつくし、飽きっぽいネット民にも観てもらえるよう、最大限圧縮してつくられているのがけんごさんの動画だ。けんごさんはたくさん本を読んでいるのだから、もっと長く話すことだってできるだろうし、話し足りないこともたくさんあるだろう。でも彼は本を読んでもらうことを最優先し、できるだけ視聴者にストレスのかからない動画をつくることに専念している。そこにはある種の職人魂みたいなものも感じられる。

 

 

ていねいな批評や書評にくらべ、あまりに簡潔な紹介動画が影響力を持てる現状は、プロ書評家からすれば嘆かわしいものかもしれない。だが2019年の文化庁調査によれば、現代日本では1ヶ月に1冊も本を読まない人が47.3%を占める状況にある。書評はもちろん大事だ。だが出版界を活性化するには、まったく本を読まない層にもアプローチできる方法が別途必要になる。けんごさんの紹介動画は、動画全盛時代に最適化されたひとつのノウハウだ。これを否定するよりも、新規読者を開拓するひとつのルートとして受け入れていく方が生産的ではないか。すぐれた作品への導線はたくさんあったほうがいい。