明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

kindle unlimitedのおかげでネットから受けるストレスが激減した

「2ヶ月299円」のセール価格につられてkindle unlimitedをはじめて20日が経った。気づいたらネットから受けるストレスが激減していた。いろいろな電子書籍を読みあさっているうちに、ネット上の不快な情報に接することがほぼなくなったせいだ。以前は暇があるとだらだらとツイッターでの議論を見ていたり、話題になっているTogetterまとめを読んだりしていたが、人が議論している場では汚い言葉が飛びかうことも多く、読んだ後かえってストレスが溜まっていることも多かった。そこで有意義なものを読めるかはギャンブルだし、ネットの議論を追いかける刺激ジャンキーのような時間は減らしたいと前々から思っていたが、とくに努力することもなくこの時間をなくすことができていた。

 

 

これもkindle unlimitedで読んだのだが、やめたい行動はこの本では「過剰行動」と定義されている。ネットで不毛な議論を読んで消耗するのは私にとって過剰行動だ。これをどうすればやめられるか。その方法はこの本の第3章で解説されている。過剰行動を減らすポイントはいくつかあるが、そのひとつが「動機付け条件を取りのぞく」だ。つまり過剰行動のメリットをなくすことだが、この中には別のメリット(チェンジ行動)を用意することもふくまれる。禁煙したい人の場合、飴玉や離煙パイプを使うことがチェンジ行動になる。

 

 

私の場合、kindle unlimitedで本を読みあさることが、知らないうちに行動科学でいう「チェンジ行動」になっていた。kindle unlimitedでは光文社古典新訳文庫がたくさん読めるが、ギリシャ哲学やシェイクスピアの戯曲を読むことは(当然のことだが)ネットの議論を読むよりはるかに実りが多いし、外れを引くこともない。古典を直接読むのがむずかしいなら、漫画化されたものや100分de名著などを読めばハードルはだいぶ低くなる。行動科学ではチェンジ行動は過剰行動と同等のメリットを得られるものをさすが、古典を読むのは漫然とネットを読むよりはるかにメリットが大きいという実感があるので、当然こちらに集中することになる。『まんがで身につく続ける技術』には行動を増やしたりやめたりするのに意志や努力は必要ない、と書かれていたが、行動科学を応用すれば、確かに努力なしに過剰行動を減らせるようだ。

 

ネットのストレスを減らせているせいか、主観的にはkindle unlimitedのおかげでデジタルデトックスができているような気分になっている。しかしネットで電子書籍を読みあさりながらデジタルデトックス、というのも妙な話だ。PCから離れなければデジタルデトックスではない。だが電子書籍であれ、読書時間を増やすことでネットを利用するデメリットを減らせているのは確かだ。電子書籍を読むことでブログ記事のネタができるし、記事を書いているうちにますます余計な情報からは離れることになる。

 

問題があるとすれば、あと1ヶ月ほどで2ヶ月299円のキャンペーンが終わってしまうことだ。このあともkindle unlimitedを使い続けるかはわからない。ギリシャ哲学とシェイクスピアと仏典の面白さはもうわかったので、これらの本を紙の書籍で読むのもいいと思うが、電子書籍ならではのメリットもある気がしている。kindleのアプリにずらりと並んだ本のタイトルを見ているだけで読書欲が高まるし、主観では紙の本より電子書籍のほうがすぐ読みはじめられる。ネットを見るのと同じ感覚で読めるせいかもしれない。ということは、電子書籍を読むことも、本質的にはネットジャンキーと変わらないのだろうか。どうせ読まずにいられないなら、少しでも栄養になるものを読みたいものではある。

異性とは目も合わせないニートになれ!という「ヤバい教え」をなぜ信じるのか?ニー仏『だから仏教は面白い!』(kindle unlimited探訪7冊目)

 

 

「ニー仏」こと魚川祐司さんによれば、仏教、少なくともゴータマ・ブッダが説いた初期仏教は「ヤバい宗教」だったという。ヤバいといっても、危険だとか反社会的とかいう意味ではない。現代日本人の常識からはかけ離れた部分がある、ということだ。なにしろこの本では、冒頭から「異性とは目も合わせないニートになれ!」ブッダは出家者に説いた、とくり返し語られる。人間の自然な欲求に真っ向から逆らう教えだ。出家者は女性と冗談を言って楽しむのもいけないし、女性と会話したことを思い出すのもいけない、という経典もある。あまりにも厳しいので、梵天ブラフマン)がブッダのもとにあらわれ、説法するようにお願いしても、ブッダが断ったというエピソードまである。自分の教えが自然な人情に逆らうものだということを、ゴータマ・ブッダもよく理解していたのだ。

 

なぜ、こんなに厳しい教えに従わなくてはいけないのか。もちろん仏教の究極的な目的は悟りを開くことなのだが、別に悟らなくたって、人はそれなりに生きていける。確かに仏教が説くように、この世は苦(=不満足)で満ち満ちている。どんなに豪華な服を着ても、美しい伴侶を得たとしても、満足感はいずれ逓減する。だから人はまた新しい刺激を求め、飽くなき欲望を追求する。どこまでいっても煩悩が完全に満足することはない。

とはいえ、ニー仏さんが説くように、もし人生が一回きりなら、「快楽と苦痛のバランスシートで、一生のあいだに快楽のほうをプラスにできれ ば、それで人生は勝ち」ではある。「刺激ジャンキー」として生きたとしても、苦痛より快楽の多い人生だったなら、一生の終わりに「まぁいい人生だったな」と思いながら最期を迎えられるかもしれない。輪廻転生を信じない人なら、そんなにいやな思いをせず生きられればいいのだ。

 

だが、それはあくまで人生が一回きりなら、の話だ。ゴータマ・ブッダが生きた時代の人々はそうはいかない。なにしろ古代インドでは輪廻転生があたりまえのこととして受け入れられているのだ。さんざん頑張って一生かけてレベルを上げたのに、突然どこかで電源を落とされ、また生まれ直してレベル1からはじめる人生が延々とくり返される。この「永遠のRPGのレベル上げ」のような、不満足の生が続いていくのがインド文化圏における輪廻転生のイメージだ、とニー仏さんは説く。生まれ変わりが永遠に続くことが苦なのだから、ここから解脱したいと考える人が出てくる。出家して「異性と目も合わせないニート」になる動機がここに生まれることになる。

 

解脱して悟りに至るにはどうすればいいか。「仏教の実践」を読むと、テーラワーダではまず戒を守ることで、身体と言葉に表現される煩悩を抑制できると教えていることがわかる。だがこれだけでは心にあらわれる煩悩までは抑制できない。ここでサマーディー(定)が必要になる。サマーディーとは集中することで、実践法としては瞑想になる。瞑想で集中力を高めていくと知覚が変化し、「如実知見(=ありのままにものごとを見ること)」に近づくことができるというのだが、ここは言葉では説明できない領域になる。瞑想などに縁がない身からするとそういうものか、と思うしかない。

戒を土台として定を修めたあとは「智慧」(慧)が必要になる。業の潜在的エネルギーは戒と定だけでは滅することができないため、この源泉自体を智慧の力でふさいでしまわなくてはいけない。煩悩の流れをせき止めるために気づき、マインドフルネスの実践が大事になるが、ただ気づき続けているだけでは解脱には至らない。7章を読むと、どうやら気づき続ける修行をさんざんやったあとに解脱をもたらす「智慧」が生じてくるようだけれども、それがどういうものかは正直よくわからない。とにかく智慧を得ると「決定的で明白な実存の転換」が起こり、世界の見え方がまったく変わってしまうのだそうだ。そこまで行ったら、もう異性と目を合わせなくてもつらくはない。もうそんなものに執着することはなくなるのだ。

 

このように、輪廻の輪から抜け解脱したい人のために、仏教ではいろいろと守るべき決まりごとを設けている。では、「異性と目も合わせないニート」になる気がない人にとって、仏教の教えは意味がないものだろうか。必ずしもそうではないと思う。この本の6章では、「煩悩とは縁、つまり原因や条件によって生じたものにすぎず、それをあなた自身と思い込んではいけませんよ」とブッダが説いたことを指摘している。欲望とは勝手に心に浮かんでくるものでしかない、とドライに割り切れば、自分の欲の深さにあきれて自己嫌悪におちいることもない。それに、欲望が自分自身ではないと知ることで、それに振りまわされるのをふせぐこともできる。ニー仏さんに言わせれば、煩悩のままにふるまうことは人間の「ロボット化」だ。欲望の奴隷にならず、自分の行為や心理に自覚的になることで、「己こそが己の主人」であるような生き方に近づいていくことができる、とこの本では説かれている。この本でいう「金パン教徒(=金銭欲と性欲のために生きる者)」として生きるのもいい。でも人生はそれだけではない。欲望に振りまわされるのとは別のモードも人間にははあるのだ、という視座を与えてくれるところに、仏教のよさがあるのではないだろうか。

【書評】桑畑がナンパスポット、市場では受刑者の悲鳴……見てきたように秦漢時代の生活を描く『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』

 

 

こんなに秦漢時代の生活がくわしくわかる本はほかにない。当時の人間になりきり、午前五時頃から時間帯ごとに古代中国の民衆の生活を追っていく内容なのだが、扱う対象が幅広く、庶民の服装や食生活などから市場や盛り場の様子、果ては夜の営みにまで及ぶので読んでいて飽きることがない。画像も非常に豊富で、この時代の俑から痰壺、尿瓶、張型など下世話なものもたくさんとりあげているので、ビジュアル的にも庶民の生活がよくわかるようになっている。注記も豊富で、とりあげている話題がどの史料を根拠にしているか巻末にすべて記してあるので、この時代をさらに詳しく知りたい読者にも便利。

 

この本では色恋の話題が多い。古代中国における男女の出会いの場のひとつが桑畑だ。この本の9章で書かれている桑畑での出会いの様子は以下のようなものだ。

 

恋はしばしば道ばたでのナンパではじまる。桑摘みの季節になると、女性たちは桑畑で葉を摘む。それはウメの実が落ちはじめる晩春である。そこに美女がいると、未婚か既婚かを問わず、男性陣はすぐに声をかける。もし佩玉をもらえればOKのサイン。

ある男は妻とともに田畑に出かけ、近くの桑畑で働く美女を口説いている。だが失敗して田畑にもどってみると、妻は怒ってその場を立ち去っていた。なかには数年間の単身赴任を終えて郷里に戻った者が、途中で美女に声をかけたところ、じつは自分の妻だったという、喜劇とも悲劇ともつかぬ説話もある。夫が道ばたで桑摘み中の美女をナンパし、振り返ってみると妻もべつの男性に言い寄られていたとの笑い話もある。(p197-198)

 

男性陣はかなり見境がない感じがするが、OKサインが佩玉というあたりに古代中国らしい風情も感じられる。女性たちが桑畑で働いているのは、穀物以外の収入源として養蚕が大事だったからでもある。女性が麻と絹の生産を担当しているのは「男耕女織・夫耕婦織」を政府がプロパガンダとしていたから、というまじめな解説もあり、農作業の現場から古代中国人の男女観や産業構成を知ることもできる。

 

桑畑では男性は美女にばかり声をかけていたが、美しくて得をするのは女性ばかりではない。男性の場合、美男だと恋愛・結婚だけでなく、就職でも大いに得をする。第6章では役所のようすについて詳しく書いているが、官吏の顔面偏差値は高かったそうだ。この章によると「漢代ではイケメンであることが官吏の採用条件にふくまれることがあった」ので、そうなっているのである。この章ではイケメンの乗る馬車に女性がフルーツを投げ入れる様子まで書かれていて、女性も男性に劣らず美しい異性には積極的だったことがわかる。美しくない男性はどうかというと、「ブサイクが美男子のマネをして街中を闊歩しようものなら、女性陣から唾を吐きかけられる」とある。どうやら古代中国は強烈なルッキズムに支配されている社会だったらしい。

 

第7章の市場の描写も魅力的だ。面白いことに、この時代、いくつかの貨幣が使いわけられている。一番使い勝手がいいのは半両銭や五銖銭などだが、ほかにも麻織物や黄金・穀物などが貨幣として使われていた。市場は多くの人でごった返しており、当然喧騒に包まれているのだが、そのなかに受刑者の悲鳴が混じることもあったらしい。この時代、「棄市」といって罪人が市場で斬首刑になることもあった。イレギュラーな刑罰として「車裂」、つまり車裂きの刑もおこなわれ、運悪く生きのびてしまった受刑者の叫び声が市場に響くこともあった。市場はカオスな空間だったのだ。

 

10章では宴会の様子について書いているが、宴会の途中用を足すこともあるため、話題はトイレにも及ぶ。興味深いのは、この時代のトイレは建物の二階にあり、その下に豚小屋が設置されているものが多いことだ。豚が人間の排泄物を処理してくれるためである。そうして育った豚をのちに人間が食べるので、実に合理的だ。

トイレは歴史を動かす場にもなる。曹操の父・曹嵩や呂布が敵に襲われたときトイレに駆け込んでいるのは、多くのトイレが豚小屋の上にあり、そこから壁づたいに屋敷の外へ逃げやすいからだとこの章では解説されている。曹嵩がどうしてトイレなどに逃げ込んだのか以前から不思議に思っていたが、ここにようやく答えが見つかった。こういう小ネタがたくさん書かれているのが、この本のおもしろさだ。

著者は引き出しが豊富で、この章ではトイレの話からこの時代の痔にまで話が飛んでいる。古代中国での痔の治し方はなんと「他人になめてもらう」である。この治療法についてはさすがに著者も「はたしてだれがおこなってくれるであろうか」と突っ込んでいる。痔もちは穢れているとされたため、祭りで生贄にされることがないメリットもあったというのだが、古代中国の痔の扱いまで書いているのはこの本くらいではないだろうか。

 

 

このように、この本では古代中国人の生活についてかなり細かいところまでとりあげているので、この時代の日常生活について知りたい読者には最適の入門書になる。中国史を学ぶためだけでなく、中華風ファンタジーを書きたい人のネタ本としても絶好の一冊。もちろんただ興味本位で読むだけでも楽しい。古代ローマや中世ヨーロッパでは生活史の本がけっこう出ているが、古代中国史ではこのジャンルで気軽に手にとれるものがあまりないので、その意味でも画期的な一冊といえそうだ。

【書評】荘園を知れば日本中世史が圧倒的にわかる!伊藤俊一『荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで』

 

 

学問とは本来面白いもの、ということがこの本を読むとよくわかる。本書『荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで』は、荘園という一見地味で硬いテーマを扱っているが、その中身はといえば古代から中世末期にいたるまでのダイナミックな社会変動、土地制度にまつわる有名無名の人々の営みである。なにしろこの時代、人口の大部分は農民であり、荘園は農民の生活と労働の場であるから、荘園を知ることは中世社会そのものを知ることにもなる。荘園という覗き窓からみえてくる中世社会は、こちらの想像以上に活力と刺激に満ちている。これが面白くないはずがない。

 

荘園の実態は時代によって異なるが、第二章を読むと、摂関期における荘園は、江戸時代の農村とは異世界といえるほど違っていたことがわかる。天災が頻発し、古代社会の秩序が破壊されるなか、台頭してきたのは富豪層とよばれる有力農民だった。これらの農民は農業経営者としては田堵とよばれ、みずからの資本で経営をおこなう「プロ農民」だった。田堵はその経営力を見込まれ受領から荘園の耕作を請け負っていたが、自立性が強く、税負担の重い土地からは去ってしまうこともある。後世のように、先祖代々の土地を守る農民の姿はここにはない。多くの農民を引き連れ、威勢を誇った田堵も一~三年の短期契約で働いており、その立場は不安定だった。農民は田堵になれなければ田堵の従者になるか、田堵に雇われ耕作することになる。農民間での競争は激しく、農村の雰囲気は殺伐としていたと想像される。著者はここに不安定な競争社会である現代との共通点を見てとり、「昨今の日本がこの時代に似てきたようで心配になる」と不安を漏らしている。

 

本書は教科書の知識もアップデートしてくれる。日本史教科書に出てくる「寄進地系荘園」という言い方は、この本では使われていない。それは、この言葉が摂関期の免田型荘園をさすのか、院政期における領域型荘園をさすのかわからず、領域型荘園の画期性がみえなくなってしまうからだ、と第五章で解説される。摂関期の免田型荘園での寄進は貴族の権威を借りて国司の介入や収公から守るためのものだったが、領域型荘園での寄進は上皇摂関家の権力によって、山野を含む広大な領域を囲い込むためのものである。領域型荘園では、土地を寄進した在地領主は広い土地を管理でき、免田型荘園と違いはじめから不輸・不入の特権も認められたため、長期的展望をもって経営にあたれるメリットがあった。荘園が巨大になり収入が増えることで、巨大な八角九重塔をもつ法勝寺のような寺院の建築も可能になった。荘園は経済的に院政期の文化を支えていたのだ。

 

五章を読みすすめると、鎌倉幕府の成立が荘園に与えた影響がよくわかる。源頼朝は、武士の軍功への恩賞として、荘園や公領の所職(下司職や郡司職・郷司職など)を与えた。所職は実質的な土地支配権であるため、ここに土地を媒介とする主従制、西欧の封建制に似た体制が成立した。所職は1185年6月以降は地頭職の名称に統一され、所職の任免権が今後も頼朝にあることが明示された。鎌倉幕府は地頭職の任免権を握ったため、荘園領主知行国守から解任されることがなくなった。これは著者にいわせれば「在地領主層による巨大な労働組合ができたようなもの」ということになる。地頭職にある武士にとって、鎌倉幕府が権益を守ってくれる、実にありがたい存在だったことがわかる。

 

荘園は貨幣経済が進展する場にもなった。第七章には、宋銭が大量に流入したことにより、荘園にも貨幣経済が浸透し、年貢の代銭納化が進んでいく様子がえがかれている。荘園では年貢を納める手段は自由だったので、運搬の利便性をとるなら年貢は軽量な銭で納めたほうがいいことになる。年貢の代銭納化は年貢を集積し、京都へ運ぶ拠点となる港湾都市の発達をうながす。草戸千軒や尾道、十三湊などはこうした経緯で発達した港町である。

このように貨幣経済が発達するなかで、富を蓄えたのが「悪党」だ。年貢の代銭納化にともない、荘園代官が実入りのよい職になったためこの地位をめぐる紛争が激化し、紛争当事者に雇われるならず者として悪党が求められていた。悪党は異形の風体で人を驚かし、目的のためには武力行使もいとわない、鎌倉幕府の秩序から逸脱する存在だった。鎌倉幕府荘園領主の訴えにこたえ、六波羅探題に命じて悪党を召し取ったが、かえって彼らを敵に回してしまった。結局悪党の主敵は鎌倉幕府になってしまったわけだが、荘園経済が育てた悪党が、荘園経済によって立つ鎌倉幕府を滅ぼす一勢力になってしまうところには、歴史の皮肉めいたものも感じる。

 

このように、本書『荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで』は、荘園という切り口から日本中世史の数多くのトピックを語ってくれるので、硬い本なのに飽きることがない。荘園制度の変遷はそれなりに複雑なので楽に読めるわけではないが、これを一冊読んでおけば格段に日本史の見通しがよくなる。荘園に興味のある人だけでなく、日本史をもっと知りたい、深く理解したい、という人にも、これは文句なしにおすすめできる好著だ。

【感想】ソフォクレス『オイディプス王』(kindle unlimited探訪6冊目)

 

 

本を読むならとにかく古典を読め、という人がいる。なんだか権威主義的であまりお近づきになりたくないタイプだ。とはいうものの、確かにこれは読んでおいたほうがいい、と思える古典はある。現代人でも退屈することなく読め、読了後に深い感慨に浸れ、かつ古典を読み切ったという自己満足まで得られるお得な書物。『オイディプス王』はまさにそんな一冊だ。これほど完璧なストーリーが2500年前に書かれていたことに驚くが、完璧だからこそ淘汰されずに今まで読み継がれているのだ。古典はただ教養をひけらかしたい人が読んでいるわけではない。面白いからこそ読む人がいるのだ。

 

タイトルに【感想】と入れたはいいものの、この本はどう感想を書いたものか。ストーリーは短いし、あらすじ自体はよく知られているものだ。本作の主人公・オイディプスエディプス・コンプレックスの語源になったこともあまりにも有名だし、ある意味この言葉について語るだけでネタバレになってしまう。私自身、阿刀田高の入門書で『オイディプス王』がどんな話かは大体知っている。それでもわざわざ原作を読む理由はなにか。

 

ひとつには、やはり名作に直接触れてみたい、という欲求があるからだ。阿刀田高はすぐれた古典の案内者で、多くの古典の入門書を書いているのだが、それらを読んでも結局は阿刀田高のフィルターを通して古典を読んでいることになる。それも悪くないが、やはり原作を読まなければ古代ギリシャの雰囲気に存分に浸ることはできない。あらすじだけ読んでわかった気になっていいのか、という不安もぬぐい去れない。『オイディプス王』はごく短い話なので、できればこの本を直接読んだほうがいい。

 

この名作を一読して思うのは、人は究極的には人生をコントロールすることなんてできないのではないか、ということだ。父親殺しと近親相姦、オイディプスはこのふたつの大罪を犯した。片方だけでもかなりの重罪だが、オイディプスはこれらの犯罪をしようと思ってしたわけではない。それどころか、悲劇を避けるべく行動しているのである。やがてその手で父を殺すというアポロンの予言を恐れ、オイディプスは故国コリントスを離れている。それでもかれは、残酷な運命から逃れられることができない。最善の行動をとっているつもりで最悪の結果を招いてしまうからこそ、『オイディプス王』は悲劇の金字塔として読まれつづけている。

 

 

私はここで『歎異抄』の親鸞の言葉を思い出す。親鸞は弟子の唯円に「あなたは思い通りに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう」といっている。オイディプスは悪人ではない。それどころか、怪物スフィンクスからテーバイを救った英雄である。そのオイディプスも、そうとは知らずに父を殺してしまう。善悪にかかわらず、状況次第で人は何をしでかすかわからない──という親鸞の諦観が、不思議と遠いギリシャの物語に重なってみえる。

 

巻末の解説を読むと、ソフォクレスが本作において「テュケー」、つまり運や偶然などをテーマとしていたことがわかる。誰も悪くなくても、ただ運命のいたずらで悲劇は起きてしまうのである。この悲劇を回避する方法はあっただろうか。本作に登場する羊飼いは、まだ幼いオイディプスを殺すよう命じられた。この者はやがて親を殺すとお告げがあったからだ。だが幼子を殺すに忍びず、羊飼いはオイディプスを助けた。予言を信じてオイディプスを殺しておけばよかった、といっても詮無きことだ。人としての情がある限り、そこは助けるに決まっている。しかしこの羊飼いの選択が、結局オイディプスに父を殺させた。父殺しの下手人はオイディプスだが、俯瞰的に見ればこの殺人の犯人は運命そのものだ。悲惨な結末を誰のせいにもできないからこそ、本作は古代ギリシャ屈指の悲劇なのである。

歎異抄における「善人」「悪人」とは何か?『NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ』 (kindle unlimited探訪5冊目)

 

 

kindle unlimitedを利用するメリットのひとつが、100分de名著シリーズがいろいろ読めることだ。いきなり古典に挑戦するハードルが高すぎるなら、まずこれから入ってみるのがいい。各界の著名人のわかりやすい解説が、古典を身近なものにしてくれる。シリーズ一冊目として、歎異抄を選んでみた。実家が曹洞宗の檀家なので、自力の禅宗と真逆?の浄土真宗についても知っておいたほうがいいと思ったからだ。

 

歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の一節はあまりにも有名だ。「悪人正機説」として知られるこの一節は、何を言おうとしているのか。釈徹宗氏の解説を読んでみると、歎異抄における「善人」「悪人」の定義が現代人の考えるものとは異なっていることに気づく。それぞれの定義は以下のようなものだ。

 

・善人……自力で修業して悟りに至れる人

・悪人……煩悩まみれで自力で悟りを開けない人

 

阿弥陀仏はここでいう「悪人」を憐れみ、救おうとしている仏だ。煩悩だらけで悟りなんて開けない人をこそ救済の対象にしているのだから、まず「悪人」こそが救われなくてはいけないことになる。そのうえさらに、阿弥陀仏は本来救うべき対象でない「善人」までも救ってくれる、というのである。歎異抄は別にむずかしい話などしていない。自力で泳げず溺れている者は他力でしか救えない。そのような人こそが「正機(=仏の救いを受ける本当の対象)」なのだ。

 

「悪人」こそが救われるという浄土仏教の教えは、一般的な社会通念とは異なる。釈徹宗氏は、ここにこそ宗教の本領があると主張する。通常の社会通念からこぼれてしまう者を救ってこその宗教だ。社会と同じ価値基準しか持たないなら、「悪人」は救えない。「悪人」をまず救う浄土仏教の教えは、「選択一神教」といわれることがある。この本では「弱者のための宗教は総じて一神教傾向が強くなる」と書かれているが、弱者や愚者のための教えである浄土仏教もまた一神教に近い性質をもつことになる。己の愚かさを自覚すればこそ、仏の前に我と我が身を投げ出すことができるのだろう。

 

そして親鸞こそは、愚者としての自分を強く意識していた人だった。この本では、歎異抄第九条の中で、唯円親鸞に「念仏を唱えていても喜びの気持ちがわき起こってこないがどうしたらいいか」と相談する場面を紹介している。『無量寿経』によれば念仏者の心は喜びに充ち溢れるはずなのに、そうならないのはどうしてなのか、というわけである。親鸞はこの問いにこう答えた。

 

すると親鸞は、なんと「わしもそうなんだ」と言い放つのです。若い唯円からしてみれば、親鸞にこの問いを口にすること自体、相当な勇気が必要だったと思います。それにすぐさま同意してみせた親鸞という人物の特性を感じる場面です。そして親鸞は、本来喜びが湧き上がるはずなのに、喜べないからこそ、私たちは救われるのだ──と説くのです。

 

浄土に早く往生したいという心が起こらず、少しでも調子が悪いと死ぬのではないかと心細い、と親鸞は正直に心中を吐露する。こうした心の動きは、すべて煩悩のなせる業である。だが、まさにそのような煩悩を断ち切れない者をこそ、阿弥陀仏は救ってくれるのだ、と親鸞は説いている。煩悩が尽きることなく湧き上がってくる親鸞だからこそ、同じく煩悩が尽きない者の悩みに寄りそうことができる。悟っていないことが親鸞の強みであり、人間的魅力でもあったのだ。

【書評】山本博文『殉教~日本人は何を信仰したか~』(kindle unlimited探訪4冊目)

 

 

これはキリシタンの殉教の様子をくわしく記録した貴重な一冊だ。一読して驚くのは、キリシタンたちの宗教的情熱の強さだ。彼らは微塵も死を恐れない。捕まれば火刑になるとわかっているのにみずから名乗り出て殉教したがり、今まさに火刑のおこなわれている現場で殉教の様子に感激し、一緒に処刑されたがる者まで出てくる。信仰心の強い者だけが記録に残っているのかもしれないが、それにしたってこうして一冊の本にまとめられる程度には、殉教したキリシタンの例は多いのだ。何が彼ら彼女らをここまで強い信仰心に駆り立てているのか、という疑問を持ちながら、読者はこの本を読みすすめることになるだろう。

 

キリシタンたちの信仰心の強さは、武士道にも通じるものがあるように思える。実際、この本では第3章で、武士のメンタリティが信仰心と関係していたことにふれている。日本の武士は死に臨んで取り乱してはいけないことになっているから、キリシタンの武士もまた、殉教の場にあって命を惜しんではいけないことになる。教えを捨てれば、節を曲げる卑怯者ということになってしまう。

たとえば榊原加兵衛は家康から追放処分を受けたため、身内に説得されてキリスト教の信仰を捨てているが、このことを聞いた家康は、なんと「臆病で卑怯な者」と罵った。俸禄のために信念を曲げる者は、武士の風上にも置けない卑怯者だと考えられていたのである。キリスト教を信じた家康当人ですら、武士ならば最後まで信仰を貫くべきだと考えていたようだ。

 

だが、庶民の信仰心の強さ、殉死に臨んで泰然としている精神力は武士にもひけを取らない。第5章では秀忠の時代、キリシタンの大弾圧がはじまった時期の殉教について記述しているが、1619年の京都におけるキリシタンの殉教はこのようなものだ。

 

大人の眼にも顔にも驚くばかりの光が輝き、死も苦痛も感じていないように思われた。異教徒までが殉教者の不動の比類ない忍耐を認め、少しでも身体を傾けて炎を避けようともしなければ、四肢を縮ませて苦痛を表しもしないのを認めた。

 

処刑の様子を見ていた人々は、信仰の差を超え、キリシタンの勇気と忍耐力を褒めたたえた。これら52人の殉教者たちは、きわめて強烈な印象を京都の民衆たちに残した。

 

この本で紹介されるキリシタンの殉教は、すべてこのようなものだ。処刑を前にして泣き叫ぶ者は一人もおらず、誰もがまったく死を恐れることがない。炎に焼かれながら説教をする者すらいる。私が為政者なら恐怖を感じるところだ。武士ならともかく、なぜ名もなき庶民までもがここまで信仰を貫けるのだろうか。読みすすめていくと、どうやら当時の日本人はある種の節義のようなものを持っていたことがわかってくる。

 

翌日、多くの民衆の前で、彼らを訴えた者に褒賞が渡された。それは、「死んだキリシタンの中のりっぱな屋敷と1500エスクードの値に相当する30枚の金貨」だった。

しかしそれを見ていた者は、決して彼らをうらやましがることはなく、逆に「そのような褒章は破滅のもとになり、いつまでもそれを有難がってはおれなくなればよい」などという罵声が、キリシタンではない人々の間からもおきたという。

こうした裏切りに対しては、信仰の違いとは無関係に非難されるのが日本の社会の特徴である。

 

キリシタンではない者も、金のためにキリシタンを売った者を強く軽蔑していた。この態度は、俸禄のために信仰を捨てた榊原加兵衛を罵った家康にも通じるものがある。こうした節義を、殉死したキリシタンはとりわけ強く持っていたのだろう。個人的には遠藤周作『沈黙』のキチジローのように信仰を捨てる「弱いキリシタン」の話も読んでみたかったのだが、そのような人物は殉教などしないのでこの本の主人公たりえない。殉教できなかった人々は、恥や罪悪感を感じただろうか。感じたとして、その心を救える教えがこの時代にあっただろうか。そんなことを考えてしまうほど、この本に登場する「強いキリシタン」たちの姿は、読むものの倫理観を揺さぶってくる。