字が大きい。行間もスカスカだ。この手の本は読むと後悔することが多い。親切なようでいて、結局読者を舐めているからだ。まともに本を読めないレベルの人になら浅いこと言っても大丈夫だろう、という姿勢で書かれた本が、良いものになるはずがない。
ではこの『自分とか、ないから。』が読者を舐めているかというと、全然そんなことはない。これは無我だとか空だとか道だとか、いわば東洋哲学の核心を、これ以上できないくらいわかりやすく説いている、実はかなりガチ目な本だ。字が大きいのもひらがなが多いのも、いらすとやの絵が妙にたくさん入っているのも、著者の親切心によるものだ。著者のしんめいPさんは東大を出ているし、京都大学名誉教授の鎌田東二先生の監修までついている。頭のいい人たちが、そのいい頭を使って可能なかぎりわかりやすく東洋哲学を語ってくれているのだから、読む側はこのわかりやすさを黙って受け取ればいい、はずだ。
だが面倒くさいことに、読者にもプライドがある。あまりにもわかりやすい本を読むと、どこか「負けて」いる気がするのだ。イージーモードでゲームを遊ぶのは、自分の腕の悪さを認めることになる。なぜ哲学書がイージーではいけないのか。それは結局、「知の権威性」を奪ってしまうからだ。哲学書はただ内容を知りたくて読むものではない。読むことで自分が賢い人間だと思いたい、難しいことに取り組んでいる自分には価値があると感じたい、といった、いやらしいエゴも満たしたいのだ。わかりやすい哲学書に、そんな効果は期待できない。
とはいえ、この本に「読んでも賢いふりができない」なんて文句を言うのはお門違いだ。哲学書を読んで自分を賢く見せたい、難しいことを知ってると思われたい、というのは、「自分の価値を上げたい」という欲求の表れだ。だが、『自分とか、ないから』は、タイトル通りその「自分」ってのがそもそもフィクションにすぎないのだ、と主張する本だ。すべての苦しみは、結局「自分が存在している」という勘違いから生まれる、とブッダは説いた。自分がないのなら、価値など上げる必要がない。劣等感も優越感も生まれようがないのだ。だから自分がない、つまり「無我」の境地に至れば、無上の幸福を得ることになる。もう自分の価値なんてこだわる必要もなく、ただありのままでいればいいのだから。
とはいえ、その「無我」がむずかしい。それって結局どういうことか。わかりやすく言語化してくれている箇所を紹介しよう。
昨日、コンビニでかったチキンをたべた。ファミチキである。「ファミチキ」なるウキウキしたなまえに、つい騙されるが、要は「鳥のからだ」である。
ファミチキを食う、ということは、「鳥のからだ」を、吸収しているということだ。今のあなたの筋肉は、むかしたべた「鳥のからだ」だ。
「自分」のからだは、食べ物、つまり「自分以外」のものからできているのだ。
もっといえば、「鳥」も、「鳥」以外のものでできている。虫とか食ってる。
「虫」も、「虫」以外のものでできてる。草とか食ってる。
「草」も、「草」以外のものでできてる。水とか太陽の光とか。
この世界は、全部つながりすぎてる。ちゃんと観察すると、「これが自分」といえるものが何もないことに気づくのだ。
「無我」である。(p37-38)
我々が「自分」と思っているものは、無限に入れかわり続ける森羅万象の一部でしかない。それを悟れば「自分」へのこだわりがなくなり、楽になれる。どうやらそんな話のようだ。
しかし、それでも「無我」はむずかしい。理屈はまぁわかるけど、それだけで「自分」へのこだわりが消える気がしない。そんな読者のために、著者は仏教史上最強の論破王・龍樹の思想を紹介してくれる。龍樹なら、「頭が悪いから、哲学書を読んで頭をよく見せたい」という人をどう論破するか。彼に言わせれば、それは「戯論(=クソしょうもない考え)」になる。龍樹の「空」の哲学では、自分の「変わらない本質」は存在しない。頭が悪いといったって、本すら読めない人にくらべれば頭は「良い」。そしてプロの哲学者にくらべれば「悪い」。すべては他者との関係性によるのだから、「自分は頭が悪い」という前提自体が虚妄なのだ。
ぼくたちが、悩むときにやってしまいがちなこと。
「自分は弱い」と、前提をおいて、だから「恋人ができない」と、結論づける。
こんなかんじで、論理をくみたてて、なやむ。
龍樹、こういうのぜんぶ論破してくるよ。気をつけて。
まず、自分が「弱い」という前提がおかしい。「強い」というペアの相手がいないやん。
相手がいないのに「彼氏です」って自称するのと同じくらい、おかしい。
「自分は弱い」という前提が成立しないので、「彼氏ができない」という結論も、成立しない。
「自分は弱い」だから「恋人ができない」こういう悩みは、ぜんぶ成り立たないのだ。(p131-132)
言い方を変えれば、「頭が良いだの悪いだの、結局言葉にだまされているだけだ」と言っているのが龍樹だ。良いも悪いも、強いも弱いも、状況次第でどんどん変わっていく。それなのに、「頭が悪い」と言うことで、あたかもその状態が固定しているかのように思えてくるから、悩みが生まれる。すべては移ろいゆくもの(諸行無常)なのに、その実態を見ていないから苦しくなってしまうのだ。
と、ここまで書いてもまだ「理屈はそうだけどね……」と言いたくなってくる。龍樹はブッダより理屈っぽいので、余計にそう思う。そもそも東洋哲学、とくに仏教は、頭だけで理解できても意味がない。「自分はない」ことを体感しなくてはいけないのだ。だから僧侶は瞑想をしたり、座禅を組んだり、千日近く比叡山を歩き回ったりする。そんなハードな修行を普通の人はやれないのだから、在家の人には無我の境地なんてわからないんじゃないか、となりかねない。
だが、東洋哲学には切り札がある。密教だ。密教の顕著な特徴は、欲を肯定してくれることだ。承認欲求にとらわれていた著者にとり、役立ったのは密教哲学だったという。承認欲求を捨てられないのに、それを捨てるための東洋哲学の本を書くのは矛盾している。だが密教では、ここは矛盾しない。密教では、小欲を大欲に昇華すればいいからだ。承認欲求に導かれて著作に没頭するうち、いつの間にか著者の小欲は「自分が学んだことを全部みんなにあげたい」という大欲になった。これを突き詰めていけば、結局自他の区別はなくなる。それこそ無我だ。欲のスケールを大きくしていくことで「自分」が消えていく体験をした著者は、3カ月かけてこの本を完成させた。
入口が欲であれ、東洋哲学を極めていくと、一時であれ「自分」は消えるようだ。いや、消えるというより、もともとなかったことに気づくようだ。その境地がどんなものか、小欲しか持ったことのない身には想像することしかできない。それは言葉にできない世界なのだが、それでも『自分とか、ないから』は、「自分」がないことを手を変え品を変えつつ、言語化できるところまではしてくれている。理屈を知った上で小欲を抱えつつ生きていくのもいいし、その先の世界を見たい人には、巻末の参考文献が助けになる。これにのめり込めれば小さな「自分」が消えるかも、と思えるくらいには魅力的な本がそろっている。東洋哲学という沼に自我を溶け込ませる方向性でも、楽になることはできるのだろうか。