中世ヨーロッパ生活史の本は多いが、この本はイングランドに的を絞っている。なので中世イングランドのディテールを知りたい人にはとてもおすすめだ。まず第二章「社会構造と住宅事情」を読めば、階層ごとの農民の暮らしを知ることができる。農奴は誰かと会うたびに帽子を脱ぎ、視線を下げひざを少し折って挨拶しなくてはいけない。社会の最下層であることの悲哀が伝わってくる。農奴の上には隷農がいて、荘園にしばりつけられているが、自分の畑で採れたキャベツや卵を売り小銭稼ぎはできる。隷農のうち豊かなものは余った土地を買い集め、ヨーマン(独立自営農民)になる。ヨーマンがさらに豊かになるとジェントリになることもある。こうして、世界史で習う単語が頭の中でつながっていく面白さも味わえる。
この本の特徴のひとつは、女性の暮らしについての言及が多いことだ。第七章「仕事と娯楽」では女性の労働事情についてくわしく解説されている。中世イングランドでは女性は聖職者と弁護士、内科医以外の職業なら何にでもなれた。女性の雇用は多かったが、それは賃金が男性よりも安いからだった。鍛冶屋や石工のような仕事をする女性もいたが、女性が多い職業はハクスター(食品・飲み物行商人)やタプスター(エール商人)だった。このほか屋根ふき職人や木こり・物乞いなど、あるゆる職種で女性が働いていた。他の時代と同様に売春をする人もいるが、奢侈禁止令によって娼婦はエプロンをつけてはならくなる(主婦と混同されないため)など、厳しい差別も存在した。
他の中世生活史本にはなさそうなネタもある。負傷兵のその後の人生だ。片足を失った場合、靴屋や陶工・写字生など、座ったままできる仕事になら就ける。失ったのが片腕なら、居酒屋や料理屋での給仕・伝令などの選択肢が残されている。物乞いも選択肢のひとつだが、物乞いはそれにふさわしい状態でなければなれない。手足を失ったり、目が見えなくなったりするなどのわかりやすい障害が必要になる。そうでなければ、修道院や教会から施しを受けるくらいしか道がない。社会福祉事業の存在しないこの時代、弱者が生きのびる方法は限られていた。
第十章「法と秩序」には中世イングランドの治安がよくわかる事例が出てくる。この時代、投獄されてしまうと、その人の財産は保護されなかった。無実が判明し釈放されても、財産が没収されていたり、家が勝手に貸し出されていたりする。これらの行為はすべて合法だった。投獄中に土地が奪われてしまうことすらあった。領主たちが隣人の土地を奪い取る手法はこうだ。
それは、その隣人を捏造した罪で逮捕、投獄させ、隣人不在のあいだに、手に入れたい土地が自分のものになるよう境界の塀を移動させるというものだ。そうすれば、隣人が無実だとわかって釈放されたところで、土地が本当は自分のものだと証明するには高い裁判費用がかかる。それも腕の立つ弁護士を雇うことができればの話だ。(p239)
これはさすがに問題だということで、リチャード3世は死罪に相当しない罪で告発された者は保釈される権利を持つと定めた。これにより、本人不在のあいだに財産が奪われることがなくなった。シェイクスピア作品に悪役として登場し、評判がいいとはいえないリチャード3世だが、このような法を定めたことは、著者によれば「法と秩序に対する進歩的、自由主義的な姿勢の表れ」だという。