明晰夢工房

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誰の心にも、李徴が住んでいる

創作は、時に人を壊す

素人ながら創作などに手を染めていれば同好の士との交流も生まれ、周囲にはそういう人達が集まってくる。すると、創作を続ける中で人格が壊れてくる人を目にする機会も多くなってくる。人気作家への嫉妬心に苦しむ人や、自分の才能に絶望してしまう人、あるいは投稿サイトのシステムの不備に憤懣をぶつける人、などなど。カクヨムのエッセイは一時期運営への不満が大量にランキング入りしていたこともある。

 

そういう人達を見ているのはとても辛い。何が辛いと言って、彼らの心中が自分にもよく理解できてしまう、ということである。周囲と比較して才能や作品の出来に悩んだり、なかなか浮かび上がれない苦しみは大なり小なり創作をする人の心中にはあるだろう。創作で壊れた彼等は明日の自分の姿かも知れないのだ。

壊れた人も、一度は舞台に立った

だから、創作を始める以前のように、壊れた人のことをただ哂ってはいられなくなった。彼等の現状を肯定することはできないとしても、それでも彼等は一度は戦い、夢破れたからこそあのようになったのだ、と考えるようになった。舞台に立たず、ただ観客席から人の作品の批評だけしていれば壊れることはない。評価の渦に投げ込まれたくなければずっとステージの袖で息を潜めていればいい。

 

しかし、本当は書きたいことがあり、人前に出したいという思いがあるのに評価されないことを恐れて胸中に作品をとどめておくと、今度は自分自身を裏切っている後ろめたさが自意識を侵略してくる。評価されたいが人前に自作を晒すのは怖いという「臆病な自尊心」はやがて心身を蝕み、人を人ならざる自意識の化け物にしてしまう。そう、詩人友との交わりを避けて遂には虎の姿と成り果てた李徴のように。

togetter.com

以前、こういうまとめを作った。このまとめの中では李徴が虎になってしまった理由について色々と考察されている。読み手に多様な解釈の余地を残すのは名作の名作たる所以だ。だが僕自身は、李徴はやはり「臆病な自尊心」ゆえに虎になってしまったのだろう、と思っている。

中島敦 山月記

 勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦してみがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとしてかわらに伍することも出来なかった。

 この一節は、全ての創作を志す者の自意識を鋭く撃つ。誰の心の中にも、一人の李徴が住んでいる。刻苦して己を磨いたところで何者にもなれないかもしれない、現にそのような人達の怨嗟の声を、僕自身もたくさん聞いている。しかしそれでも彼等は李徴よりは先に進んでいたのだ。恥をかくことは恐れなかった。そのこと自体は評価しなくてはならないだろう。

 

しかしプライドを捨てて自作を人前に晒し、努力し続けたとしても、やはり人は壊れることがある。李徴の性格なら詩友と交わり、切磋琢磨することを怠らなかったとしても、今度は他者との比較に苦しんでいたかもしれない。今投稿サイトで伸び悩んでいる多くのウェブ作家がそうであるように。

これは人の業

 結局、創作欲を持った時点で、どう転んでも人は苦しんでしまう可能性はある。それならば思い切って挑戦してみればいいし、そうするしかない。どうせ苦しいのなら、見る阿呆より踊る阿呆を選んだほうがいい。進んでリスクを取らない人は誰も評価してくれない。書きたいものがある人は、まず一度はステージに上がってみよう。降りたければいつでも降りることはできる。