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村上春樹『職業としての小説家』を読んで考えた、創作で病む人・病まない人の違い

 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

村上春樹の文章には、ある際立った特徴がある。それはとにかく読みやすいということだ。これは小説でもエッセイでも変わらない。村上春樹の書くものはかなり好き嫌いが別れることが多いが、彼の作品に文句を言う人もその時点ですでに読んでしまっている。この『職業としての小説家』でもリーダビリティの高さはやはり変わらず、読者は気がつけばするすると最後の一ページまで導かれている。読書をしているというより、心地よい音楽に身をゆだねているような感覚だ。もちろん文章が心地よいだけでなく、内容も相当に濃い。作家・村上春樹が「書く」という行為についてどう考えているか、作家としての「村上春樹」を作り上げるまでどのように格闘してきたか、ということが余すところなく語られているので、およそものを書く人、何かを創ろうという人にとっては一度は手に取る価値のある一冊ではないかと思う。

 

私は村上春樹の作品は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『国境の南、太陽の西 』くらいしか読んだことがないので、彼の作品についてはあまり語る資格がない。ただ本書を読んでいて、村上春樹という人の創作姿勢にはとても好感を持った。それは、村上春樹が文壇政治のようなものからは距離を置いていて、文学賞も特に欲しがらず、かなり権威に対し恬淡としているように思えるからだ。そういった外付けの権威を求めることよりも、読者に対して真摯に向き合うことが大事、ということを、村上春樹は一貫して語っている。特に大事なことは自分がまず楽しむことだ、と彼はいう。

 

全員を喜ばせようとしたって、そんなことは現実的に不可能ですし、こっちが空回りして消耗するだけです。それなら開き直って、自分が一番楽しめることを、自分が「こうしたい」と思うことを、自分がやりたいようにやっていればいいわけです。そうすればもし評判が悪くても、「まあ、いいじゃん。少なくとも自分は楽しめたんだからさ」と思えます。それなりに納得できます。

 

これはひとつの徹底した態度であると思う。しかし創作者の立場に立ってみるとわかるが、普通はなかなかこのように覚悟を決められない。やはりせっかく頑張って書いたのだから、その努力に見合うだけの称賛がほしい、と思うほうが普通なのだ。プロアマを問わず、多くの作家は常に不安を抱えている。実は自分の書くものはつまらないのではないか、自分には大した才能なんてないんじゃないか──といった不安を解消できるだけの評価を求めているのだ。そこまで不安が強くない人でも、誰だって自分は価値ある人間だと感じていたい。自分の価値を保証するために、文学賞というものは大きな支えになる。しかし村上春樹はそういうものは別に求めていないらしい。

  

 

ではなぜ、村上春樹がそうした権威を欲しがらないでいられるのか。これは、彼の「精神の自給率」がとても高いからではないかと思う。「精神の自給率」という言葉は小池龍之介が『"ありのまま”の自分に気づく』のなかで使っている言葉だが、これは「自分のことをこれでよし、大丈夫だと思えているパーセンテージ」のことだ。これが足りなければ、足りないぶんを外からの評価で補わなければいけなくなる。つまり、精神の自給率が低い人ほど承認欲求が強い。作家なら文学賞や世間からの評判など、外部からの評価が欲しくなるということだ。自分で自分を評価できないなら周りに評価してもらうしかない。

 

 作家志望者が「ワナビ」と呼ばれることがある。私はこの言葉があまり好きではない。この言葉は作家志望者に対する揶揄や見下しのニュアンスを含んでいるように感じるからだ。しかし、「ワナビ」の側にも揶揄されてしまう原因がないわけではない。作家として世に出たい、このまま何者にもなれない自分として生きていたくない──という強烈な飢餓感や焦燥感は、時に痛々しい言動となって噴出することがあるからだ。しかし本書を読む限り、村上春樹の若い頃にはこうした「ワナビっぽさ」が、ほとんど感じられない。村上春樹はある日突然「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」という心に浮かんだメッセージに従い、そのまま作家になった人だ。彼の言うことを真に受けるなら、村上春樹は作家になるべくしてなった人であって、作家になることで人から仰ぎ見られたいとか、目立ちたいといった欲求で自分を駆動させてきたわけではない。精神の自給率が高ければ、評価されるためではなくあくまで内的欲求に従って小説を書くことになる。

 

なぜ、村上春樹はこのように精神の自給率を高く保っていられるのか。村上春樹が若い頃ジャズ喫茶を経営していたことはよく知られているが、憶測ではこの経験が、彼の自我に大きな影響を与えているように思える。本書で村上春樹は過20代の生活が苦しかったころを振り返りつつ、このように書いている。

 

でもそういう苦しい歳月を無我夢中でくぐり抜け、大怪我することもなくなんとか無事に生き延び、すこしばかり開けた平らな場所に出ることができました。一息ついてあたりをあたりをぐるりと見回してみると、そこには以前は目にしたことのなかった新しい風景が広がり、その風景の中に新しい自分が立っていた──ごく簡単に言えばそういうことになります。気がつくと、僕は前よりいくぶんタフになり、前よりはいくぶん(ほんの少しだけですが)知恵がついているようでした。

 

ここには、小さいながらも一国一城の主として世知辛い世間を生き抜いてきた、というささやかな自負が感じられる。村上春樹は人生できるだけ苦労をすればいいという話がしたいわけではない、と断っているけれども、こうして苦労しながらもどうにかジャズ喫茶の経営を軌道に乗せてきたという経験が、自我を支える確かな芯として存在しているように思える。地道に日々培ってきた成功体験が自分だってそう捨てたものではないという自信をつくり、内側から自分を支えてくれる。こういう人は、創作をしていてもあまり病まない。自分に自信があるので精神の自給率が高く、足りない部分を創作で評価されることで補おうとしないからだ。だから、自分が楽しめる小説を書けばいいのだ、と言える。

 

しかし、創作を志す人、作家志望者の中には、今の自分に不満があるから創作で何者かになりたいと思っている人もいる。つまり、精神の自給率の低さを創作の評価で埋め合わせるということである。それが悪いことだというわけではない。ただその場合、創作で評価されなければ自分を支えるものが何もなくなってしまうため、常に評価を気にしていなければいけなくなってしまう。これでは自分が楽しめればそれでいい、というわけにはいかない。外需頼みの経済が不安定なのと同じように、他人からの評価で自分を支えるのは危うい。ましてや創作物の評価は水物なので、そこにアイデンティティを置くと心はひどく壊れやすくなる。

 

こう書くと、創作以外の分野で自信を培っていないといけないのかという話になりそうだが、必ずしもそうではない。創作物の評価が高い=偉いという価値観を相対化できればいいのだから、創作以外の居場所を持つ、ということも大事かもしれない。

togetter.com

実際、世間の人を見てみると、小説を読んでいる人なんてそんなにいない。ノーベル賞を獲ったカズオ・イシグロですら、名前を聞いたことがあるという程度の人のほうが多いのだ。創作物の評価は今自分が所属している(世間からすれば)かなり狭いコミュニティ内での問題であって、一歩外に出ればそれは全く関係なくなるし、いろいろな居場所を渡り歩いているうちに創作よりも楽しいことが見つかるかもしれない。今いる場所が全てだと思う必要はどこにもない。創作に打ち込むことと、それ以外の選択肢を捨ててしまうことは違う。

 

人間、一つのことに集中するとどうしても視野が狭くなりやすい。だからこそ結果を出せるという一面もあるのだが、今いる場所が生きづらいならその中で頑張るだけでなく、もっと生きやすい場所を探すという選択肢も考慮に入れておいたほうがいいのではないだろうか。