明晰夢工房

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「才能が欲しい」という言葉の裏にあるもの

お前にゴッホ並みの画才を授けてやろう、と夢のなかで女神さまにでも言われたなら、喜ぶ人は多いだろう。しかし、お前にゴッホのような人生を送らせてやろう、と言われたなら、これはちょっと喜べない。「ゴッホは生涯一枚しか絵を売れなかった」は実は間違いだそうだが、それでも才能にふさわしい評価を得られない人生だったことに変わりはない。創作を志す人は誰だって才能を欲しがるが、才能さえあればいいわけでもない。実のところ、皆が欲しがっているのは才能によって得られる賞賛だ。才能があってもそれを埋もれさせたままで終わる人生は、だれも望まない。

 

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生成AIで「才能の民主化」ができるという話がある。ここでいう「才能」とは、普通の意味とは異なるようだ。上記のまとめに載っているパブリックコメントを書いた人は生まれつき手が震え、絵を描く「遺伝的才能」がないのだと主張している。そこだけを読めば、先天的なハンディを持たず絵を描くことができる多くの人は「遺伝的才能」に恵まれているという話だと取れる。「民主化」とはそうした「遺伝的才能」を持たない人にも絵を生み出す道を開くという意味であり、生成AIを使えばそれは確かに可能にはなる。

 

生成AIを用いて自分好みの絵を生成し、それで満足できるのなら、ここで話は完結する。「才能」を純粋に「絵を生み出す能力」という意味で使っているのなら、生成AIでそれを手にすることはできる。だが、ゴッホの例で説明したとおり、「才能」という言葉は単なる能力という意味を超えて用いられることがしばしばある。「才能の民主化」を望む人が求めているのは、純粋な描画能力だろうか。それとも、人気絵師の持つ名声や経済力だろうか。まとめ中のパブリックコメントには、「特権階級」という言葉が二度出てきている。支障なく絵を描けるだけの人を「特権階級」などと呼ぶだろうか。これは、人気や名声を持つごく一部の絵師にふさわしい言葉ではないのか。

 

「才能の民主化」を求めている人が何を欲しがっているのか、本当のところはよくわからない。ただ多くの場合、「才能が欲しい」は、才能に付随する承認まで含めての欲求になる。私はときどき、「創作できる人は輝いている。私にはその輝きがない」といった嘆きの言葉を聞くことがある。その輝きとは、突き詰めれば脚光を浴びる、ということだ。創作していても輝けない人はいくらでもいるのに、スポットライトの眩しさに目がくらんでいる人には、そちら側は見えていない。生成AIで「才能が民主化」されれば、同等の「才能」の持ち主が大量に出現する。しかもAIの描いた絵という時点で評価しない人も多いから、よけいにスポットライトは当たりにくくなる。となると、生成AIを高度に使いこなせる一部の人だけが評価されることになる。才能は「民主化」できても、賞賛までは「民主化」できない。

 

創作活動がしたいという欲求は、たいていは創作物で評価されたい、という欲求を含んでいる。後者を切り捨てられないからこそ、多くの人が創作で苦しむ。AIを用いれば創作のリングにすら上がれない、という苦しみは解消できるかもしれないが、リングに上がった先の苦しみもある。ほとんどの人は望むほどの評価を得られないし、そうした苦しみが「同人小説で感想をもらえないので筆を折りたい」といった形でネット上に吐露されていたりする。この苦しさから自由でいられるのは、創作自体を楽しめる人だ。自分が好きなものを創っていれば心が満たされるというタイプは、評価を必要としない。禅僧・小池龍之介が「精神の自給率が高い」と表現する人々だ。実のところ、創作能力などよりもこのようなメンタルを持てることこそが、もっとも得難い「才能」なのかもしれない。創作は長く続けなければ実を結ばないし、楽しめる人ほど長続きしやすいからだ。こういう、実はもっとも大切な「才能」をAIで民主化できないところに、世の理不尽さと人間の奥深さとがある。