ゲームの攻略本に差し込まれたライターの思い
80年台の掉尾を飾るアクションRPGに「サーク」という作品がある。
ファルコムの「イース」としばしば比較される作品だが、快適な操作性やゲームへの没入感を増す見事なBGM、そして作品の核を為す骨太なストーリーなど、隙なく作り込まれた名作であったと思う。
人気作であったためシリーズは3作目まで制作され、外伝まで発売されている。
僕自身かなりのめり込んだ作品だったし、今でも幾つかのBGMは口ずさむことができる。
だが、実はこの作品が深く記憶に残っているのは、このゲームの攻略本のおかげであったりする。
サークは別に難しいゲームというわけではない。
後半では何故かシューティングになる箇所があったりするのだが、アクションが苦手な人でもクリアできないような難易度でもないし、攻略本が必要なほど難解な謎解きなどはどこにもない。
にもかかわらず、僕がこのゲームの攻略本のことを覚えているのは、中に書かれていたコラムが印象に残ったからだ。
当時の記憶はかなり曖昧だが、この本の中にはこういうコラムが書かれていた。
「僕たちは、たとえゲームの中のキャラクターであっても、無念の死を迎えれば痛みを感じる。架空の世界の人物であっても、現実の人間と同じようにその死を悼むことができるのだ。その感覚を、どうかこれからも大切にして欲しい」
本当にこんな文章だったか自信がないが、意味内容としてはだいたいこのようなことが書かれていたと思う。
僕の知る限り、ゲームの攻略本でこんなことが書かれるのはかなり珍しい。
攻略本とは、その名の通りゲームプレイをサポートするためのものでしかない。
ライターの個人的感慨など誰も求めてはいないのだ。
にもかかわらず、なぜあのようなコラムが書かれたのだろうか?
そのことを僕はずっと不思議に思っていたのだが、サークが発売されたのがどういう時期だったのかを考えてみると、その理由が見えてきたように思う。
サークが最初に発売されたのがPC-8801版で、これが1989年だ。
この年には、実は日本を揺るがす大事件が起きている。
そう、あの宮崎勤被告による東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件だ。
攻略本の発売がゲームの発売より後であることは間違いないので、あのコラムはこの事件の影響を受けて書かれている可能性がある。
ゲームファンが攻撃された世界もあったのかもしれない
この事件は、アニメや漫画のファンからは「オタク迫害のスタート」として知られている。
僕の身の回りでも、少女漫画やアイドルを愛好していた生徒達は、学級日誌で危険人物と言われたり、陰口を叩かれたりするということが起こった。
深刻ないじめこそ発生しなかったものの、それまで特になんとも思われていなかった人達が、あの事件をきっかけに白眼視されるようになってしまったのだ。
一方、ゲームファンはどうだったのか?
少なくとも僕の周りでは、ゲームファンが攻撃されたという記憶はない。
ゲームは皆遊んでいたからだ。
僕自身はと言えば、ゲームは好きだったがアニメや漫画は当時は興味がなかったこともあり、オタクの迫害は完全に「対岸の火事」だと思っていた。
僕自身、ゲーム趣味を持っていることで悪く言われることなどなかったし、そのことで被害を被るような経験は全くしていない。
しかし、それはあくまで自分の話だ。
世間的には、オタクっぽい趣味といえばアニメ漫画ゲームだ。
アイドルやサバイバルゲームなんかをここに入れる人もいるかもしれない。
とにかく、ゲームだってオタク趣味のひとつと見なす人はたくさんいる。
今でも「ゲームは簡単にリセットできるから人の命を軽く見るようになる」といったことを言う人がいるが、当時もそういった偏見の目をゲームに向けてくる人はいたかもしれないのだ。
「暴力ゲーム」という言葉があるが、それこそ「暴力」という観点から見ると、大抵のRPGはモンスターを経験値の餌にする「暴力ゲーム」なのだということになってしまう。
相手は悪であるとはいえ、自分の都合のために命を奪っていることに変わりはないのだ。
僕が子供の頃には北斗の拳が暴力マンガとして槍玉に挙げられていたが、サークに対してもそんなことを言う人が、どこかにいたのかもしれない。
とにかくあの時代は、オタク趣味とみなされたものはいつ矛先を向けられるかわからない時代だったのだ。
コラムが伝えたかったことは何だったのか
そう考えていくと、あのコラムが書かれた理由というのも見えてくる。
あれは、おそらくはゲーム愛好家であろう著者からの、同胞に向けたメッセージだったのではないか。
深読みすれば、「貴方達はあの事件の犯人とは違い、きちんと人の命の重みを理解できる人達だと私は信じている」という祈りにも似た思いが、あの文章には込められていたのかもしれない。
1989年当時の僕は、「オタク」として攻撃される立場にはなかった。
だからあのコラムの持っていた重みにも、今ひとつ気付くことができなかったのだと思う。
もし迫害の渦中にあるゲームファンがあの文章を読んだなら、また違ったメッセージを受け取っていたのだろうか。
あの文章には、この種の文章にありがちな上から目線での断罪や皮肉などは一切感じることはなかった。
おそらくはライターも大のゲームファンだったのだろう。
ともすればオタク趣味と一括りにされ、偏見の目を向けられがちなゲームファンに対し、攻略本のわずかなスペースを割いてでも届けたいメッセージが、そこにはあった。
1989年とは、そういう時代だったのだ。
あれから時は過ぎ、もうすぐ元号まで変わろうとしているこの2017年において、アニメもゲームもマニアックな趣味ではなく、ごく普通の趣味として定着しつつある。
これはとても良いことだと思う。
ただその一方で、これらの趣味が白眼視されていた時代のことも忘れられていくのだろうな、と思うと、そこに一抹の淋しさも感じる。
時の流れには抗しようがないが、こうしてウェブの片隅に拙文を残しておくことで、ささやかながらあの時代の空気感を記録しておくこととしたい。