明晰夢工房

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コンテンツはいつ「終わる」のか。

何をもって「〇〇は終わった」と判断するのか

togetter.com

人のコンテンツにオワコンだ何だといいたがる人は単にそう思わせたいだけ、と言うのはこのまとめに書いてあるとおりで、実際には終わったと言われつつ何だかんだと続いていく人もコンテンツもたくさんあるというのは全くその通りではある、のですが。

 

では、本当に「○○は終わった」と言っていい状況があるとすれば、それはどういうものか?

 

ひとつの答えとして、「公式からの供給が絶えた時」ということは言えます。

アニメなら劇場版が制作され、漫画やラノベなら全巻完結してそれ以降一切外伝も何も発表されなくなったとしたら、それでひとまず「終わった」とは言える。

 

逆に言えば、新刊なりシリーズの新作なりが発売されている限り、どれだけ終わったと言われようがそのコンテンツは終わってないわけです。

それだけ費用をかけられる程度には、そのコンテンツには需要があるということだから。

 

しかし、事はそう単純ではありません。

新作が発表されなくなっても、そのコンテンツのファンがその瞬間から消滅するわけではないからです。

公式からの供給が途絶えても二次創作はしばらく作られ続けるかもしれないし、複雑な世界観を持つ作品なら作品の背景も考察され続けるでしょう。

新作が作られなくなっても、そのコンテンツを愛する人が一定数存在する限り、やはりそのコンテンツは生きているといえるのかもしれません。

 

他にもわかりやすい節目としては、「作者が亡くなった時」というのがあります。

どんなに精力的に活動を続けていても、本人が存在しないのならもう作品は生み出されません。

そこで区切りをつけるという考え方もあるでしょう。 

廃都の女王―グイン・サーガ〈137〉 (ハヤカワ文庫JA)

廃都の女王―グイン・サーガ〈137〉 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

しかし、これにも疑問はあります。

栗本薫は2009年に亡くなっていますが、グインサーガの続きはいまだに書かれ続けています。

栗本薫が書いていないグインは認めないという人もいますが、とにかく栗本薫が生み出したグインサーガというシリーズはまだ生きているのです。

グインサーガはまだ終わらないというか、終わらせたくないという強烈な意思を感じますね。

たとえ作者が変わっても読み続けたいというファンが一定数いるほど愛されるコンテンツは幸せでしょう。

そういうファンがいる限り、コンテンツの供給が続くということもあるわけです。

 

ということは、新作が出ることもなく、もう世間が話題にもしなくなったコンテンツはやはり「終わって」いると言えるのか?

このことを考える時、僕がいつも思い出すことがあります。

 

 痛車の中で生き続けるコンテンツ

1年ほど前に、もう何年も前に放映終了したアニメのキャラの痛車を見たんです。

いや、痛車と言うにはあまりにも装飾が簡素というか稚拙というか、そんな感じの車でしたが、とにかくキャラ愛だけは伝わってきました。

彼(?)はこの片田舎で、そういうものに偏見を持つ人だって少なくないだろうに、それでも彼は何年も自分自身を全力で突き出してきたのです。

 

そのアニメのことを語っている人は、今ではほとんど見かけません。

世間一般の視点からは「終わって」いると判断しても良さそうなものですが、そう決めつけるのは今でもこの作品を愛し続けているであろう彼に対してあまりに失礼というものでしょう。

 

作品の価値というのは、それを愛している当人との関係性と切り離して語ることはできません。

これは作品だけでなく、人間でも同じことです。

たとえ生命体として生きてはいなくても、誰かの心のなかで確かな存在感を持っているのであれば、その人は「生きている」と言えるでしょう。

 

ここから先はDr.ヒルルクに語ってもらいましょうか。

やめておけ お前らにゃおれは殺せねェよ 人はいつ死ぬと思う……?
心臓を銃で撃ち抜かれた時……違う
不治の病に侵された時……違う
猛毒のキノコのスープを飲んだ時……違う!!
……人に忘れられた時さ……!!

逆に言えば、記憶している人がいる限りは人だってコンテンツだって生きている。

少なくともその人の中においては。

当人にとって大きな価値を持っているものを、外から「終わっている」などと決めつけるのは、ひどく暴力的なことなのかもしれません。

 

また、ある人の強い思い入れが、一度は「終わった」とされるものを復活させることもあります。

コロッケのものまね芸が美川憲一の人気を再燃させたように。

それに愛を注ぎ続ける人がいる限り、コンテンツはいつだってよみがえる可能性をはらんでいるのかもしれません。

その意味でも、「〇〇は終わった」なんて、簡単に言えるようなものではないのでしょう。

歴史というコンテンツの異常な強さ

しかしこう考えていくと、歴史というコンテンツの強さは飛び抜けています。

数百年も前の出来事や人物でも、いやむしろ時間が経っているからこそ脚色され、美化されつつ語られ続けるのだから。

 

それはおそらく「現実に起きたことだから」という強みがあるからなんでしょうが、真田信繁にせよ伊達政宗にせよ、空想上のどんなキャラクターよりも長く愛好され、多くの作品に登場しているわけです。

真田丸の放映は終了しても、真田一族は今後も繰り返し 小説なり漫画なりに登場し続けるでしょう。

 

これだけ強いコンテンツ力を持っているから、中国の士大夫なんかも歴史に名を残すことを行動規範としていたのかもしれませんね。

一度英雄や名臣として史書に記録されれば何百年も讃えられるわけだから。

 

その意味では、「〇〇は終わった」と言われたくない人は、歴史を趣味にするというのもアリなのかもしれません。

過去は絶対に逃げないし、常に探求され続けるから。

 

始まってすらいなくても、自分を見捨ててはいけない

長々と書きましたが、オワコン呼ばわりされるコンテンツなんてまだマシな方なんです。

世の中には、そもそも始まってすらいないコンテンツがいくらでもあるんだから。

 

素人の創作物なんて大体がそんなものです。

忘れ去られる以前に、そもそも読まれもしない、認知すらされていない作品がいくらでも転がっている。

読者のいないブログなんていうのもそうかもしれません。

 

でも、じゃあそういうコンテンツには価値がないのか?

陽が当たっていない、という意味においてはそうかもしれません。

しかし、繰り返しますが、コンテンツの価値とは、それを評価する人との関係性において決まるものです。

たとえ自作の読者が自分一人しかいなくても、自分でこれは価値がある、と思えるのなら、それは無価値ではありません。

自分で生み出したものの価値を自分自身ですら信じられないのなら、それこそ始まる前に終わってしまいます。

 

はっきりいって、すでに名声を確立している人や、褒められ慣れている人が創作なりブログなりを続けるのは簡単なんです。

褒めてくれる人がたくさんいるんだから、モチベーションが上がって当たり前。

むしろ、誰も褒めてくれなくても書き続けられる人のほうが凄い。

それは他者からの評価とは別に、自分のやりたいことを貫いているということだから。

自分自身への強い信頼がないと、そんなことは不可能です。

 

自分で生み出したものの価値と、生み出した自分自身をまずは信じる。

そこからしか始められないし、それが全てであるとも思います。