世の中には、聞くとどうにも心の奥がざわつく言葉がある。
「やらせ」なんてのもその一つだ。
結局、世の中は全部やらせじゃないのか?なんて思ってしまうからだ。
この世界には多くの「感動実話」が流通している。
それらの多くが、嘘ではないにしても事実を脚色されたり、ある部分をカットすることによって商品として成り立っている。
知ったら泣けなくなるような事実は表に出ることはない。
そして、そのような作り手の事情を、消費する側でもある程度は了解している。
ノンフィクションとして流通している作品も、事実をすべて伝えているわけではないことくらいは皆知っている。
事実は、読者が飲み込みやすいように必ず編集される。作為の手が入らないノンフィクションなんて存在しない。
そのようなお約束の上に、事実ベースの作品というのは成り立っている。
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しかし、いくら編集する必要があるとしても、作品として致命的に重要な部分をカットすることはその作品の価値を大きく削ぐことになる。
『ど根性ガエルの娘』は、「父親のプライドを保つために娘が犠牲になる」という構造的問題が大月さんの家庭にあったことをずっと描いてきたが、過去の掲載誌ではこの問題を「過去の出来事」として描くよう大月さんに求めている。
対談の途中でも父親が激怒して退席してしまったのもなかったことにし、あくまで今は家族とは良好な関係を築いているかのように現実を編集しようとしているのだ。
しかし、15話でのカレーのエピソードでも明らかなように、この家族の体質自体は根本的には変わっていなかった。
大月さんにとっては、常に父の顔色をうかがわなくてはいけないという問題は現在進行形で起きていることなのに、それをすでに終わってしまったこととして描くのは重大な嘘だ。
その事実を伏せ、この漫画を「家族の再生ストーリー」としてしまうことは、大月さんにはどうしても納得の行かないことだったのではないかと思う。
大月さんの家族が「再生」するかどうかは全てこれからの問題であって、現時点でこの話を「感動実話」として締めくくるわけにはいかない。
この話の15話の凄いところは、過去に散々自分を苦しめた父親であっても、それでもどうしようもなく愛されることを望んでしまうという大月さんの心の動きを余すことなく描いているところだ。
機能不全家族の問題というのはまさにここにある。
子供が酷い目に合わせる親の顔色をうかがい、親の価値観に合わせてしまうために、家族の構造的問題がそのまま維持されてしまう。
そのことまできちんと描き尽くしているために、この『ど根性ガエルの娘』は、他の「感動実話」の類にはない異様なまでの迫力を出すことに成功している。
しかし世の多くのノンフィクションは、こうした舞台裏の事情は描かない。
「感動実話」には表に出ない部分がたくさんあるんだろうな、とはいってもこうも赤裸々に舞台裏を見せられてしまうと、世に出回っている感動ストーリーはどれだけの闇の部分を隠しているのだろうか?と考えてしまう。
『南極物語』という映画がある。
これは、日本の南極探検隊がアクシデントのため連れて行ったカラフト犬とはぐれてしまい、一年後再び南極に戻ってきた探検隊が生き残った二匹、タロとジロと再開を果たすという物語である。
この話は事実だし、見渡す限りの雪原をタロとジロが駆け寄ってくるラストシーンは確かにとても感動的だ。ヴァンゲリスの音楽もこの再会シーンを盛り上げる。
傑作と言って良い映画だと思う。
しかしSF作家の星新一は、この映画を評してこう言った。
「犬に食べられたペンギンの立場はどうなる」
犬だって生き物なのだから、何か食べなければ生きていけない。
幸い、南極には飛ぶことができず、容易に捕獲できるペンギンが大量に棲息していた。
タロとジロはペンギンを食べることで生き延びたのだ。
その部分を一切描かないことで、この映画は「感動実話」の顔をすることに成功している。
このことに憤慨した星新一はペンギンの立場に同情し、『探検隊』というショートショートまで書いている。
確かにペンギンの立場からすれば、タロとジロは突如現れたエイリアンのような存在だっただろう。
ペンギンから見れば、これは平和な雪原に獰猛な捕食者が出現した、というストーリーになるのだ。
そのペンギンの立場に同情する者だっていて良いはずだ、と星新一は言ったのだ。
大月さんが『ど根性ガエルの娘』の15話でやったこともまた、この「ペンギンの立場」を描くということだ。
自分自身が現在進行形で感情を押し殺さなければいけない立場にいるのに、その現実をカットして「感動の家族再生ストーリー」などにされてしまってはたまらないだろう。
徹頭徹尾抑圧されてきた自分自身の立場から描くのでなければ、この作品は意味を為さなくなってしまう。
父親との和やかな対談をでっち上げて終わりでは、この家庭の問題点は温存されたままになってしまうからだ。
僕は今でこそ小説をよく読むようになったが、少し前までは「しょせん全て作り物にすぎない物語を読んでも仕方がないのではないか」と思っていたこともある。
しかし、今回この『ど根性ガエルの娘』を読んだことで、フィクションの価値に改めて気づいた。
フィクションは全部嘘なので、「これは本当は嘘なのではないか」と疑う必要が無いのだ。
嘘だからこそ、隠されている真実などないと安心して読めるし、必ずきりのいいところでストーリーは終わる。
心地良い満足感とともに本を閉じることができるのだ。
しかし、人生というノンフィクションは人生が終わるまで完結することがない。
ハッピーエンドの場面で物語を締めくくっても、その後も人生は続いていく。
『シンドラーのリスト』だって、彼が事業に失敗して自殺したことはナレーションで伝えるだけだ。
ノンフィクションという形で提示されるのは、読んでいて面白い部分だけなのだ。
読者に伝わる事実の陰に、膨大な伝えられない事実がある。
『ど根性ガエルの娘』は、そういう読者が薄々知ってはいても目をそらしがちな現実を我々の目の前に突きつけてきた。
今後ノンフィクションを読む時は、いつもこの作品のことが頭をかすめることになるだろう。
これは、それくらいの存在感を持っている作品だ。