明晰夢工房

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「真田丸ロス」に思う。

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真田丸ロス」というものがあると聞くけれど、本当にそういう状態に陥ってる人がいるんだろうか?

ふとそんなことを思い、ツイッターで「真田丸ロス」で検索してみた。

すると、ハンドルネームが「○○@真田丸ロス」になっている人達がたくさん出てきた。

 

おー、やっぱりいるんだなあ。

自分はそこまでハマらなかったけど、あれだけ盛り上がったんだから無理もないか。

ところで、真田丸ロスって具体的にどういう状態になるんだろう?

岩波新書が赤備えに見えたり、財布の五円玉が六文銭に見えたりするんだろうか?

そこまで行かなくても、もう真田丸が放映されないことで落ち込んでいる人は結構たくさんいるのかもしれない。

 

ペットロスとはご存じの通り、ペットが死んでしまうことで起きる喪失感だ。

しかしコンテンツはペットと違って死んだりはしない。

真田丸を観たければ、録画した映像なりブルーレイなりを何度でも観ればいい。

そのたびに「黄泉の国から戦士たちが帰ってきた!」という気分になれるんじゃないか?

 

……いや、これはそういう問題じゃないのだ。

確かにコンテンツは同じものを何度でも味わうことができる。

草刈パパの儂は決めたぞ!だって黙れ小童!だって好きなだけ繰り返し楽しむことができる。

だが今それをしたところで、それを一緒に笑ってくれる仲間はもういない。

コンテンツそのものは失われなくても、そのコンテンツが栄えていた頃の時代の空気は永遠に失われるのだ。

 

コンテンツの価値とは、「その盛り上がりを同時代に体験できた」ということまで含むものだと思う。

待っていれば安くなることがわかっていても、定価で小説や漫画を買う価値もそこにあるのだ。

古本で100円で買える漫画がいくら面白くても、それが流行っていた頃の盛り上がりまで追体験できるわけではない。

過去の作品は同時代性を含んでいないから安いのだ。

あまりアニメを観ない僕が珍しくハマった作品に『戦姫絶唱シンフォギア』がある。

実はこの作品には放映当初から嵌っていたわけではない。

一期の評価はニコ動ではあまり芳しくなかった記憶がある。

作画も割と微妙だったし、必殺技のカットインもかっこいいのか笑うところなのか戸惑った感じもある。

メインキャラの一人が目から血を流しているシーンまであったし、これは一体何なの?と思った人も多かったかもしれない。

 

そんなわけで僕は割と早く脱落してしまったのだが、ある時ふと思い立ってこのアニメを最終話まで観てみることにした。

するとこれが実によく出来た、熱い作品であることがよく解った。

作中に歌が出てくるアニメは結構多いが、それをここまで上手く演出として組み入れている作品はなかなかないのではないかと思う。

 

 それは良かったのだが、実はこのアニメを最後まで視聴する気になったのは、後でこの作品の評価を知ったからだ。

世間の評価が確定した後に、後追いで観たということだ。

それだって悪くはないが、その感動は当時リアルタイムで追いかけていた人達には遥かに及ばないだろう。

まだこのアニメが海のものとも山のものともわからないうちから追いかけていた人達が、最後にメインキャラ全員で「逆光のフリューゲル」を歌っているのを聞いた時の気持はどんなものだっただろう?と思うと、このアニメを早々に切ってしまった自分の不明を恥じるばかりだ。

 

どんなコンテンツであれ、良い作品の価値は時が経とうと色褪せるものではないと思う。

だが、時が経つことで「あの盛り上がりを同時期に体験できた」という付加価値はなくなってしまうのだ。

後追いではその部分は決して味わうことができない。

 

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

 

 

僕が真田丸で良かったと思っているのは、作品自体の面白さもあるが、時代考証の方達がドラマの解説をツイートしていて、そこから戦国時代に関する知見をたくさん得られたことだ。

真田氏や武田氏関連の本も色々と買ったし、それらの本は今でも時々読み返している。

こちらはドラマではないので、あとから読んでも虚しくはならない。

歴史を趣味にしたりしているのは、これが流行り廃りとは関係がない趣味だからかもしれない。

 

いずれにせよ、放映が終わったらロス状態に陥るほどに愛されたコンテンツは幸せだろう。

だが、もっと幸せだったのは、同時代にそのコンテンツで盛り上がることのできた自分自身だ。

後追いで良いとされているコンテンツを追いかけても、ロスに陥ることはできない。

これをリアルタイムで味わえた人が羨ましい、という静かな侘しさがそこにはあるだけだ。

 

大きな幸せを失うと、反動で大きな喪失感がやってくる。

それ自体はもう、どうしようもない。

だが逆に言えば、後でロスに陥るほどに価値の高い体験を、その人はすることができたのだ。

それは得難いことだし、そこまで何かにのめり込むほどの感受性を自分が持ち合わせていた、ということでもある。

 

もし今何らかのコンテンツが提供されなくなってしまって喪失感に浸っているのなら、そこまで何かを愛することのできた自分を評価してみてもいいのではないだろうか。

それを愛することができる限り、自分がそのコンテンツを生かし続けている、と考えることもできるのだから。

saavedra.hatenablog.com