明晰夢工房

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【感想】自己皇帝感あふれるビザンツ皇女アンナ・コムネナが主人公のフルカラー4コマ『アンナ・コムネナ』

 

 

開幕一秒で弟に「お前を消せばいいわけね」と言い放つヒロインもめずらしい。本作の主人公アンナ・コムネナは父アレクシオスが皇帝なので、自分もビザンツ皇帝をめざしていたが、弟ヨハネスが生まれた時点で彼が皇帝になることが決まってしまった。ヨハネスが傲慢で仲が悪いせいもあり、皇帝になるならお前を消せばいいんだ、なんて言ってしまうのである。どうしても帝位をあきらめきれないアンナは、皇帝になる方法を書物の中に探し求め、本の虫になる。のちに歴史家となるアンナ・コムネナの教養の基礎がここでできあがる。

 

このアンナの最大の理解者が夫のニケフォロスだ。この少年はまだ16歳なのにずいぶん人間ができていて、アンナの文学趣味にも理解を示し、その才能を伸ばすべく協力したりもする。ビザンツの貴族に「我が強い皇女様の手綱をしっかり握らないと」と言われたら「アンナは馬でも獣でもありません」と言い返す一幕もあり、気骨のある一面をみせたりもする。ニケフォロスはふだんは物静かなので、気が強く決して自分を曲げないアンナとは好対照をなしている。史上最高の文人皇帝になる!と意気ごむ自己肯定感、いや自己皇帝感のかたまりのアンナと、彼女を支え続けるニケフォロスの夫婦ラブコメが『アンナ・コムネナ』のベースになっている。

 

(オーラがモザイクになってるのがビザンツ風)

 

アンナ夫婦のやり取りはほほえましいものだが、物語の舞台は陰謀渦巻くビザンツ宮廷だから、ただのほのぼのラブコメで終わるはずもない。この漫画にはビザンツ帝国の政治闘争もしっかり描き込まれている。たとえばニケフォロスの祖父・老ブリュエンニオスはかつて帝位を狙って失敗したため、ビザンツ名物・目潰しの刑で視力を失っていたことにもふれられている。目をつぶすのは五体満足な者しかローマ皇帝になれないからという解説もあり、時代背景も自然と頭に入ってくる。

 

アンナが本格的に宮廷政治の厳しさを知るのは、13歳のときである。かつて国政を切りまわしていた義母のアンナ・ダラセナ引退の真相をさぐるため、修道院におもむいて義母から事の真相を聞くうちに、アンナはこの国で女として生きることの厳しさを思い知らされる。アンナ・ダラセナは言う。アンナの父アレクシオスのように、勇猛な軍人なら敵を許すことは寛大さと讃えられる。だが、女だと寛容さは弱さだとみなされる。政敵を残酷に処刑することが「女の戦い方」なのだ──と。

 

さらにもう一人、「女の戦い方」を教えてくれる人物がいる。元ビザンツ皇后・アラニアのマリアだ。マリアはかつてアンナの婚約者だったコンスタノティノスの母親で、輝くばかりの美貌をうたわれた人物だ。アンナには優しかったマリアにも、父アレクシオスの暗殺未遂事件の真相をさぐるうち、実はアンナの知らない一面があることが明らかになる。美しくとも一人の人間として扱われないのなら、美貌を武器に男たちを操り、権力闘争を勝ち抜くと決めたマリアの生き方は、アンナに衝撃を与える。

 

ところが、アンナはこの二人の「女の戦い方」をよしとしない。アンナには「アンナは女である前にアンナです」と言いきる強さがある。アンナは男のように戦場には立てないが、かといって残酷さや権謀術数を用いるやり方も受け入れられない。女らしい戦い方も男らしい戦い方もしない、私は私らしく平和に戦います──とアンナはマリアに言い放つ。マリアの芯の強さが輝くこのシーンは、本作のハイライトだ。この自己皇帝感の塊の少女が今後どう成長するのかが楽しみになる。

 

この漫画には、巻末に主要参考文献として井上浩一や根津由喜夫・和田廣などの名だたるビザンツ史家の著作がたくさん載せられているので、より深くビザンツ史を知りたい人にも便利。この作品をきっかけに、魅力あふれるビザンツ帝国史の世界に踏み出すのもいいかもしれない。考えてみたらこれらの歴史家も、歴史家アンナ・コムネナの恩恵を大いに受けているのである。本来皇帝になりたかったはずのアンナがどのようにして歴史家になっていくのか、ここを知るためにも『アンナ・コムネナ』は先が楽しみな作品といえる。