明晰夢工房

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佐藤賢一『小説フランス革命』が描き出す「男らしさ」コンプレックス

日本人の多くはフランス革命を知らない。それは結局のところ、フランス革命を扱った小説が少ないからだ──と誰かが語っていたことを覚えている。多くの人は歴史書を読んで日本史を学ぶのではなく、大河ドラマ司馬遼太郎から学ぶ。ならフランス革命も誰かが小説にしてくれないと学ぶ機会がない。

  

『小説フランス革命 第一部』完結BOX

『小説フランス革命 第一部』完結BOX

 

 

というわけで、西洋歴史小説の第一人者である佐藤賢一氏のご登場を願うことになる。佐藤氏は池上彰氏との対談で、40代が一番フランス革命の小説を書くのにふさわしい時期だ、と語っている。作家として脂が乗っていて、まだ体力もある時期に書いておかなければいけないというわけだ。この『小説フランス革命』はハードカバーで全12巻、文庫版なら全18巻という長大なシリーズなので、気力体力が最も充実している時期をこの作品に注ぎ込んだのだと思う。

 

この作品をいざ手にとってみると、やはり佐藤節がよく効いている。地の文に突然台詞が交じる独特の文体、アクの強いキャラクター達、それでいてメリハリが効いていてのめりこみやすい物語構成。かつてフランス史を専攻していた佐藤氏の手になるだけに時代考証もまた万全で、およそフランス革命を物語として読むには最適のシリーズといえるのではないかと思う。

 

ただし、佐藤氏の作品にはある共通する癖があるため、必ずしも万人にとって快適な読書体験をもたらさないかもしれない。その癖とは、登場人物の抱えるコンプレックスである。佐藤健一作品では明朗快活な人物が主人公を張ることは少ない。『双頭の鷲』のデュ・ゲクランは一見百戦百勝の豪傑とみえるが、その実容姿に劣等感を抱えており、43歳にして女を知らない、という設定になっている。『カエサルを撃て』のカエサル塩野七生が描くのとは正反対の卑小な中年男の姿にされるし、『オクシタニア』のエドモンもまた恋人の過去の男性遍歴を気にするという一面を持っていた。颯爽とした英雄像を物語に求める向きには、佐藤作品は合わないかもしれない。

 

しかし、ある年齢をすぎると、史上の有名人のこういう情けなくも人間的な面こそが、作品に奥行きを与えるのだということがわかってくる。佐藤氏は英雄を英雄らしく書くのではなく、どこまでも人間らしく書く作家なのだ。そんな佐藤氏の手になる『小説フランス革命』であるから、主役を張る人物たちもどこかしら心に闇を抱えている。2巻までの主人公はミラボーだが、このミラボーは子供の頃に疱瘡を患ったため父親に忌まれていたとされる。そのためか若いころは放蕩生活に明け暮れており、貴族ではあってもどこか無頼の雰囲気がある。バイイのようなお行儀のいい論客とは違い抜群の行動力を誇り、歯に衣着せず言いにくいこともいう「革命のライオン」。この人物がいたからこそ、初期の革命は前進した。

 

そして、2巻の『バスティーユの陥落』では、このミラボーがある策を弄する。パリで弁護士を開業していたカミーユ・デムーランを説得し、パリの民衆を率いて武力蜂起させてしまうのだ。このときミラボーは、ここで行動を起こさなければ君は恋人のリュシルに見捨てられる、いずれこの私になびくかもしれないぞ、と煽りまくっている。

 

「言葉なら、ぱんぱんに詰まっているんだろう、頭のなかに」

「…………」

「その言葉に血肉を与えてこいというのだ。ああ、暴動を起こしてこい。いや、なんなら革命を起こしてくれても構わない」

「しかし……」

「英雄になりたくはないのか」

 英雄になれば、リュシルと結婚できるんだぞ。父親にうんといわせる、なによりの武器になるんだぞ。そこでミラボーは、わざと下卑ていやらしい笑みを浮かべた。君からは背中になってみえないだろうが、わかってるか、建物の硝子越しにリュシル嬢がみている。

「感じさせてやれ。みているだけで女が身悶えてしまうくらいの、お前のことが欲しくて堪らなくなるくらいの、それは激しい演説を打ってこい」

「リュ、リュ、リュシルは、そんな女じゃあ……」

「わからない男だなあ、君も。そうすると、なにか。君の語る理想で女は興奮するのか。政情分析が素晴らしいからと、君に抱いてほしいと思うのか。ただじっとして、オルレアン公が起つのを待っていれば、女のほうから父親なんか捨てるといって、君と駆け落ちしてくれるのか」

 

このあたり、実に佐藤賢一らしい描写である。パレ・ロワイヤルではひとかどの論客として知られているものの、根が臆病なデムーランは、騒然とする世情を前に何も行動できない自分に忸怩たる思いを抱えていた。海千山千のミラボーは青白きインテリであるデムーランのこのコンプレックスを正確に突いた。結果、デムーランは立ち上がり、パリの民衆を率いてドイツ傭兵と戦闘すら交えてしまう。小心なインテリが英雄になった瞬間だ。リュシルの前で胸を張れる男でありたい、という必死の思いが、デムーランを決起させたのだ。

 

ここには、男の抱えるある種の哀しさと滑稽さが表現されている。英雄でありたい、皆から瞠目される「男」になりたい──デムーランのような言論人でも、いや切った張ったから縁遠いインテリだからこそ、そんな願望を強く持つものなのかもしれない。そんな男の性を、佐藤氏はミラボーの口を借りてこう言い表している。

 

「でも、本当なんですか、伯爵」

 なんの話だと怪訝な顔で確かめると、ロベスピエールは背後の建物を示した。ですから、こういう激越な行動に出られると、女性は喜ぶという先の御説のことですよ。

「リュシルは心配そうな顔ですよ。ああ、みてください、おろおろしているくらいだ。それなのに喜ぶというのは……」

「嘘に決まっているだろう」

「そ、そうなんですか」

「当たり前だ。それは女の問題ではなく、むしろ男の問題なのだ。強くあらねばならない、荒々しく振る舞わねばならない、雄々しく行動しなければならないと、そういう強迫観念から男は逃れられないものなのだ」

 

作家としての一面を持ち、人間洞察にも優れていたであろうミラボーならこうも言うだろうか、と思わせる台詞だが、これは佐藤氏自身の言葉でもあるだろう。結局「行動する人」たり得ない作家という職業の抱える鬱屈までもそこに読み取るなら、うがち過ぎというものだろうか。いずれにせよ、それを強迫観念と知りつつ縛られてしまう、これが男らしさのやっかいなところなのだ。男らしさにこだわりすぎることが「男という病」なのだと言われたりするが、このような綺麗事でない人間の一面にも光を当てるのが佐藤文学の特徴だ。

 

とはいうものの、デムーランのような人物が立ち上がったからこそフランス史の新たな局面が切り開かれたというのもまた事実だ。近年、「男らしさ」へのこだわりは心身に負担をかけ、暴力やアルコール中毒をもたらすなど、とかくその弊害を指摘されがちだ。であれば後世の人間としては、このような小説の中でその発露を愉しむくらいにしておくのが一番、ということになるだろうか。