明晰夢工房

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アマプラで『少女終末旅行』を観ていたらすっかり絶望と仲良くなった

少女終末旅行』は癖になる

  

「星空」「戦争」

「星空」「戦争」

  • 発売日: 2017/10/13
  • メディア: Prime Video
 

 

このアニメ、最初は「きれいなfallout?」と思っていた。ユーリとチトが食料をみつけたり魚を食べていたりするたびに、いかんRAD値上がるぞ、なんて考えていた。falloutはポストアポカリプスで少女終末旅行ディストピア(らしい)ので全然違うのだが、本来まったく別物の作品を重ね合わせてしまっていた。

少女終末旅行』の世界も荒廃はしているが、falloutの世界ほど何もかも徹底的に破壊しつくされているわけではない。上層部に向かう途中では、建築物が整然と立ち並んでいる場所もある。ユーリとチト以外の人間も少しはいるし、かれらは敵対的でもない。この世界には多少の食料もあれば、人との交流もある。観ていて心がすさむほどではない。でもお世辞にもこの世界は美しいとはいえない。

 

少女終末旅行』は不思議な雰囲気のアニメだ。この世界には都市は残っているが、自然らしきものはなく、風景はどこまでもモノクロームで徹底的に彩りを欠いている。ユーリとチトは上層を目指して旅をしているが、食糧だってそんなに余裕があるわけではないのに、ふたりの会話は妙にのんびりとしている。ユーリはもともと能天気な性格だが、まじめなチトもそれほど先行きを心配しているようには見えない。

このアニメに、それほど大きな物語の起伏はない。たまにちょっとした危機が訪れるが、そこまで深刻な雰囲気になるイベントが起きるわけでもない。ユーリはときどき味のある台詞をしゃべるが、すごく深いことを言ってるわけでもない。ユーリとチト以外の登場人物も二人しかいないし、観る人によっては退屈するアニメだと思う。でもこの『少女終末旅行』全体を貫く雰囲気は、とてもよい。最初はなんか地味なアニメだな、と思っていたのに、見続けるうちにすっかりはまってしまった。このアニメは、何がそんなに「いい」のか。それを、これからできる限り言葉にしてみたい。

  

モノクロームの世界に、時おりもたらされる潤い

少女終末旅行』の何がいいのか。この謎を解くカギが、6話に隠されていた。このアニメの6話では、二人の乗っていたケッテンクラートを修理してくれるイシイという人物が現れる。イシイは飛行機をつくり、都市の外へ飛び立とうとするが、見事に失敗してしまう。

ばらばらになった機体の破片の中から、パラシュートで落下するイシイを二人は望遠鏡で見る。このとき、なぜかイシイは笑っていた。その理由をユーリは「絶望と仲良くなったから」と推測している。イシイの夢は壊れたが、彼女の笑顔にはやれるところまではやった、という満足感が滲んでいる。これでもう、どこにも飛んでいくことはできない。ならここで生きていくしかない、という前向きな諦観がそこにはある。

 

地味なのにこのアニメが味わい深いのは、物語の進行とともに視聴者が「絶望と仲良くなる」せいだ。絶望と仲良くなる、というとネガティブに聞こえるが、これは「幸せの基準値を下げる」ということだ。『少女終末旅行』を観続けるうち、視聴者はこのひたすらモノクロームで、物資や娯楽に乏しい世界に慣れていく。人は順応性に富む生き物だ。物語を追ううちに、いつのまにかユーリやチトと同じ目線で終末世界を味わえるようになる。世界が陰鬱なのは当たり前、と思うようになるのだ。

いや、ユーリやチトはこの世界を陰鬱とすら思っていないだろう。二人にとって、このモノクロームの世界こそが日常であって、それを不幸だなんて考えもしない。世界はただこのようにあるだけであって、二人はそこになんの感慨もさしはさまない。

 

だからこそ、たまに訪れる感動が、とりわけ大きなものになる。たとえば5話のラストの雨音の演出だ。二人の台詞を聞く限り、この世界には音楽というものはないらしい。だから、二人はただの雨音の中に想像の「音楽」を聴く。5話のラストは雨音が『雨だれの歌』になり、特殊エンドになる演出になっているが、ユーリとチトには本当に雨音がこのように聴こえていたのだろう。無機質で退屈極まりない世界だからこそ、ヘルメットや空き缶に叩きつけるただの雨音が、二人と視聴者の心を潤してくれる。

 

8話のユーリが月光を浴びながらはしゃぐシーンもいい。基本人工物ばかりのこの世界で、降りそそぐ月光は数少ない自然の恩恵だ。棒をふりまわして騒ぐユーリをいつも通りチトはたしなめるが、ビールを飲むと今度はチトのほうが激しく酔っぱらっている。月光というささやかな非日常を体験して、実はチトのほうがテンションが上がっていたのだろう。チトはいつも自由奔放なユーリの抑え役をやっているから、酔っぱらわないと心のままにふるまえない。そもそも、飲めるかどうかもわからない飲み物に手を出す時点で、チトはいつもと少し違っている。チトにそうさせているのは、ユーリの言う「月の魔力」だ。彩りのない終末世界では、月光程度のものが貴重な非日常体験になる。

 

幸せとは「移動平均乖離率」の大きさ

このアニメを観ていると、幸せとは何かを考えさせられる。普通に考えれば、娯楽も何もない殺風景な世界をひたすら旅しなくてはいけないユーリとチトの境遇は不幸だろう。だが、乏しい食料の残りを心配しながらも、ケッテンクラートを駆って終末世界をゆく二人は、それほど不幸には見えない。それは、ここまで書いてきたとおり、二人が絶望と仲良くなっているからだ。

言い換えれば、二人の幸せの平均値はとても低いところにある。だから、雨だれの音を聴いたり、お菓子を焼いたり、月光を浴びたりする程度のことが楽しく感じられる。視聴者からすればごく些細なことが、大きく二人の幸せに寄与する。ちょっとした非日常体験をするだけで、モノクロの世界に色がつくのだ。

 

株やFXをやっている人なら、「移動平均乖離率」という言葉を聞いたことがあると思う。普段の株価の平均値から株価が大きくプラスかマイナスに振れれば、乖離率は大きくなる。幸せとは、乖離率が大きくプラスに振れた状態のことだ。ある企業の株価が平均して100円なら、株価が120円になっただけでも乖離率は大きく上がる。平均株価が3000円の企業からすれば20円程度の変動は誤差にすぎないが、もともと平均株価が低い企業にとっては20円の差は大きい。現代人の感覚が平均株価が3000円の企業なら、ユーリとチトは平均株価が100円くらいの企業だ。もともとの幸せの平均値が低いから、ささいな体験で幸せが大きくプラス方向に乖離する。ユーリやチトよりはるかに恵まれた環境を生きていて、多くのモノを所有している現代人は、それが普通の状態だからふだんはあまり幸福感を感じていない。プラスの非日常体験が幸福であるとするなら、もともと恵まれない世界を生きているユーリとチトは、ちょっとしたことでも幸せを感じられる状態で生きていることになる。

 

モノが足りない状態で生きれば幸せになりやすいのだ、なんて話をしたいわけではない。ふつうは物資不足は人の心を荒廃させ、争いを生む。ユーリとチトは生きていけるだけの食料は手に入れていて、少ない物資を奪い合う人間も周りにいないのだから、彼女たちの生きている環境はかなり特殊だ。恵まれてはいなくとも、決定的に悲惨な境遇ともいえない。「絶望と仲良くなる」ことができるのも、この奇妙な終末世界に存在するある種の余裕のおかげだといえるだろうか。