明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】吉岡大祐『ヒマラヤに学校をつくる カネなしコネなしの僕と、見捨てられた子どもたちの挑戦』

 

滞在費が安いから、という理由で行き先をアメリカからネパールに変更した鍼灸師が現地の子供たちの窮状を知り、学校をつくるまでの話。

大きなことをする人には最初から高い志を持つ人と、目の前のことをひとつづつこなしているうちに気がつくと大きなことを成し遂げるタイプの人がいるが、著者は後者だ。

ただ外国で暮らしたい、という夢をかなえるためにこの地へ飛んだ著者が見た光景は、日本で暮らしている身には到底想像もできないものだ。

 

この本で繰り返し訴えられるのは、カースト差別と女性差別のすさまじさだ。

つまり、カーストが低くかつ女性であることは、社会の理不尽を一身に引き受けることを意味する。

ダリットという不可触選賤民の女性は、水場に近づくだけで石を投げられ、給料は地面に放り投げられる。村で家畜が死ねば魔女のせいだということにされるが、魔女にされるのはほとんどはダリットの女性で、村人から暴行を受け、汚物を頭からかけられて村から出ていけと言われたりする。

著者はこのような女性にも鍼治療を行っていたが、ダリットの女性は生れてはじめて人から優しくされたと涙したという。

 

多くの人が貧しく、魔女狩りが横行するほど迷信が支配する社会では、適切な医療など受けられる人はほとんどいない。何しろ下痢ですら悪魔のしわざだと考えられているのだ。

この社会では医療を施すことは対処療法でしかないと知った著者は、やがて教育支援の仕事をはじめることになるのだが、ここで語られるネパールの子供たちの現状がまたひどい。

5歳から16歳の子供の5人に一人が児童労働をしていると報告されるネパールでは、貧しい農村では口減らしのため子供を首都カトマンズへ働きに出す。カトマンズにはストリートチルドレンも多く、物乞いをさせるため元締めから手や足を切られたり、目を潰されたりする子供までいる。

このような現状を知ったからこそ、著者は早くこの子供たちに教育機会を与えなくてはならないと考えたのだ。

 

多くの困難を乗り越え学校をつくることはできても、その先にはまた差別という壁が立ちはだかる。 著者は村の女性の自立のため職業訓練所を設立しているが、せっかく技能を身につけても「女が家の仕事をせず、集まってお茶を飲んで遊んでいる」と陰口を叩かれる。著者も村の女を集めて金儲けをしていると噂される。結局、女性向けの職業訓練は内職型のプログラムに変更することを余儀なくされた。

 

職業訓練をはじめて10年が経ち、今では少しづつ卒業生がここで学んだ技術で自立できる卒業生も出てきているが、もともと女性たちが職業訓練で学んだサリーの刺繍つけは今も中断されたままだ。やはり社会は一朝一夕には変わらない。これほどの苦労を背負い込んでまでネパールで著者が活動を続けるのは、目の前で苦労している人がいるのを放っておけない、というシンプルな気持ちかがあるからだ。フットワークが軽い人だけにここでは書かなかった失敗も多く経験しているのだが、こういう活動に身を投じるには、ある種の「前向きな無鉄砲さ」のようなものは必要かもしれない。そしてそれは、現代の日本人からは失われつつあるものでもある。

【感想】『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』

 

 

ゴールデンカムイ』のアイヌ語監修をつとめる中川裕氏がこの漫画を題材に、アイヌ文化を縦横に語り尽くす一冊。これはゴールデンカムイのファン、あるいはファンならずともアイヌ文化に関心を持つ人なら楽しめること間違いなし。野田サトル先生の描きおろし漫画も載っています。

 

ゴールデンカムイは博物館の資料にも使えるクオリティ

冒頭からページをめくっていたら途中に小樽市総合博物館館長からの寄稿文が目についたんですが、まずこれが驚き。館長の石川直章氏によると、『ゴールデンカムイ』における小樽の「治安が悪いが金の匂いがする町」という描写は歴史的に非常に正確なのだそうで、実際住民の35%が「職業不詳」であり、本州の食い詰め物が集まっていたのだそうです。

 

ゴールデンカムイの魅力のひとつは徹底した時代考証にありますが、小樽市の総合博物館でも展示の解説にこの漫画を使っています。それくらい、明治の北海道を正確に調べたうえで書かれているということです。

 

かつて、「『ゴールデンカムイ』の中の小樽」と銘打って、企画展示を行ったことがあります。そして、「昔の小樽はエネルギッシュな街で、たとえるなら現在の池袋みたいな街だったんだ」 という説明をするときに、「このことは『ゴールデンカムイ』にもきちんと描かれていますから、見てください」という仕方で解説しました。そうすると、ファンの方はすぐに納得してくださいました。

 

これくらい正確な内容になっているのは、この本の著者である中川裕氏がアイヌ語監修として協力しているからでもあります。当然、『ゴールデンカムイ』はアイヌ文化についてもかなり正確に描いています。この本では、漫画に出てくるアイヌ文化について『ゴールデンカムイ』を引用しつつ詳しく解説しています。以下、興味を惹かれた個所について紹介します。

 

「カムイ」とは何なのか 

カムイ=神というイメージがなんとなくありますが、実はこれはあまり正確ではありません。アイヌの世界観からすると、外を歩いている犬や猫、庭にやってくるカラスも雀もすべてカムイです。それだけでなく、家や船、鍋や茶碗、火などもすべてカムイなのです。

道具などもカムイなのでカムイ=自然でもなく、この世の中で何らかの活動をしていて、人間にできないようなことをしたり、人間の役に立ってくれるものをとくにカムイと認めている、ということです。このため本書ではカムイとは人間を取り巻く「環境」と表現しています。

 

カムイはカムイの世界では人間の姿をしていますが、人間の世界にやってくるときはクマやカラスなどの姿になります。クマのカムイは毛皮や肉、樹木のカムイは樹皮や木材などを人間へおみやげとして持ってくる、と考えるので、人間もまたカムイに感謝の言葉を述べ、お酒や米の団子などをカムイに捧げるということになります。人間とカムイはお互いを必要とするパートナー、ということです。

 

アシㇼパに狩りができる理由

ゴールデンカムイ』の魅力のひとつが狩猟シーンで、アシㇼパもまた優秀な狩人として描かれています。著者の中川氏は最初はアシㇼパの登場シーンで女の子が狩りをするの?と思ったそうですが、アイヌ社会では男と女の仕事が明確に分かれているのです。女性の仕事は山菜取りや裁縫、料理などで、狩りは男性の仕事です。なので、女性が狩りをしてはいけないタブーがアイヌにはあるのだと著者も最初は考えていたそうです。

 

ところが、実は兄たちが殺されてしまったためにアイヌの女性が狩りの名手に育てられるという資料が見つかったのです。松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』にも狩りをする女性の話が出てくるので、アイヌ女性が狩りをしてはいけないというタブーなどはないかもしれない、ということです。アシㇼパはあの年齢としてはかなり驚異的な能力を持っているようにみえますが、狩りをするアイヌ女性自体はいてもおかしくはないのです。 

言葉の重要性

アイヌは言葉の力を信じる人たちです。子供の魂をカムイに取られないように、オソマのようなわざと汚い名前を付けることがあります。言葉を重要視するアイヌは、紛争もまずは言葉で解決することになります。村の中で争いが起きたとき、あるいは村同士の間で争いが起きたときは、双方から代表者が出て「チャランケ」という一種の裁判を行います。チャランケには裁判官がいないので、双方が弁舌を戦わせ、どちらかがもう言うことがなくなるか、体力が尽きた時点で負けとなります。チャランケで勝つには知力、体力双方に優れていなくてはなりません。

これでも決着がつかなかった場合は、漫画にも出てくる制裁棒(ストゥ)を用いることになります。ストゥでそれぞれの背を叩き、どちらかが降参するまで交互にこれをくり返すのだそうですが、負けた方は勝った方の言い分をすべて飲まなくてはいけません。

アイヌの生食文化

ゴールデンカムイ』の中ではいろいろな動物の脳みそを生で食べていますが、アイヌは伝統的に、生で食べるものと食べてはいけないものをはっきり区別していたことも書かれています。クマの内臓や脳みそは生で食べますが、肉は絶対に生では食べません。クマの肉には旋毛虫という寄生虫がいますが、アイヌは経験的にそれを知っていたと考えられるのです。同様に、サケの肉もアニサキスが寄生していることがあるため、生では食べません。

著者はアイヌ料理もいろいろ食べていて、クマの腎臓や脳みそはとても美味しいものだそうです。クマの顔の肉はタラの白子のような味で、絶品とのことでした。

 

他にも面白い話題が満載

ここではごく一部しか紹介できませんでしたが、本書ではほかにも

 

アイヌと金の関係

・チタタプのつくり方

・アシㇼパのㇼが小さい理由

・「ヒンナ」の正しい使い方

ユーカラドラゴンボールの共通点

 

などなど、面白いトピックがたくさんあるので、これらに興味のある人はぜひ一度手に取ってみてほしいと思います。

saavedra.hatenablog.com

『交易の民』としてのアイヌの姿を知るには瀬川拓郎『アイヌ学入門』もおすすめです。

【書評】『読書する人だけがたどり着ける場所』はどこなのか?

 

この本のタイトルをグーグルで検索してみたら、「読書する人だけがたどり着ける場所 要約」と出てきて、ちょっと苦笑してしまいました。

この本は、読書とはそうやってネットで手っ取り早く情報を得ようとする姿勢とは真逆のものだ、と説くためのものでもあるからです。本書の冒頭ではこう書かれています。

 

 しかし、ネットで読むことと読書には重大な違いがあります。それは「向かい方」です。

 ネットで何か読もうというときは、そこにあるコンテンツにじっくり向かい合うというより、パッパッと短時間で次へ行こうとします。より面白そうなもの、アイキャッチ的なものへ視線が流れますね。ネット上には大量の情報とともに気になるキャッチコピーや画像があふれています。それで、ますます一つのコンテンツに向き合う時間は短くなってしまう。

 最近は音楽もネットを介して聴くことが多くなっていますが、ネットでの「向かい方」ではイントロを聴いていることができません。我慢できなくて次の曲を探し始めてしまいます。そこで、いきなりサビから入るような曲のつくり方をしているという話を、あるアーティストの方から聞きました。

 

じっくり本と向き合いましょう、と説く本にすら、ネットでは早く要約を教えてくれ、という「向かい方」になってしまう。次々とより面白いものへ 目移りしていくネット住民のあり方というのはそういうものなのでしょう。こういうネット社会の在り方は現実にも影響を及ぼしていて、2000年ころには12秒くらいあった人間のアテンション・スパン(一つのことに集中できる時間)は、今や8秒にまで短くなっています。ネットは人間を格段に短気にしているのです。

 

これだけ人間の集中力が低下しているのは、ある意味では情報の氾濫する現代社会に適応した結果でもあります。こういう社会の中で、あえてじっくりと読書に取りくむ意味とは何なのか。斎藤孝さんがこの本で説く読書の効用とはこういうものです。

 

・人格が深まり、魅力的な人間になる

・深い認識力を身につけられる

・思考力が高まる

・知識が深まり、世界が広がる

・人生を深められる 

 

いずれも、斎藤さんの本を何冊か読んでいる読者なら「いつもの」だな、と思えるものです。

実のところ、私はこういう斎藤さんの読書礼賛の傾向については、以前から疑問を持っていました。読書がそんなにいうほど立派な行為だろうか?と思っていたのです。

たとえば、たくさんの歴史書を読んで知識を深めた結果、大河ドラマの重箱の隅をつついて普通の視聴者から煙たがられているような人もいるし、政治的正しさなどを学んだ人がそれについて無知な人を過剰に叩いたり嘲笑したりする場面を見ることもあります。

こういう読書の副作用ともいうべき部分について、ちょっと無自覚すぎるのではないか。読書は必ずしも人を立派にするわけではないし、別に本を読まなくたって立派な人はたくさんいるだろう……なんて思ったりするのですが、そういう「別に本なんて読まなくてもいい」という姿勢は、斎藤さんにとっては許しがたいものなのです。斎藤さんは『読書力』の中でこう書いています。

  

読書力 (岩波新書)

読書力 (岩波新書)

 

 

 私がひどく怒りを覚えるのは、読書をたっぷりとしてきた人間が、読書など別に絶対にしなければいけないものでもない、などというのを聞いたときだ。こうした無責任な言い方には、腸が煮えくり返る。ましてや、本でそのような主張が述べられているのを見ると、なおさら腹が立つ。自分自身が本を書けるようになったプロセスを全く省みないで、易きに流れそうな者に「読書はしなくてもいいんだ」という変な安心感を与える輩の欺瞞性に怒りを覚える。

 本は読んでも読まなくてもいいというものではない。読まなければいけないものなのだ。こう断言したい。

 

読書からたくさんのメリットを得てきた人間が読書などしなくてもいいとは何事だ、というわけです。斎藤さんはあまり怒ったりしない人だと思っていたので、これほどストレートに怒りをぶつける文章を読んだときは驚きましたが、それほど「本なんて別に読まなくてもいい」という主張が許せなかったんでしょうね。(『読書する人だけがたどり着ける場所』もそうですが、最近の著書はこのころに比べるとだいぶ角が取れてきている印象があります)

 

確かに、本をたくさん読んで学識を蓄え、それによって本が書けるようになった人が「本なんて読まなくていい」などというのは欺瞞でしょう。一冊の本が書けるようになるほどの知識や文章力を得る、これは確かに「読書する人だけがたどり着ける場所」です。そういう場所に立っておきながら、読書の重要性を否定するのは矛盾している。

 

でも、本をたくさん読んでいるからといって、そこまでの高みに到達できる人はそれほど多くはありません。私はこれでも普通の人よりも本は読んでいるつもりですが、別に人格が磨かれている感じはないし、教養が深まっているかも微妙。何も読まないよりはいいでしょうが、読書することで何か特別な場所にたどり着けている気もしない。

そもそも私の本に対するスタンスは「読書=快楽」です。娯楽小説を読むことも、学術書を読んで知識を得ることも、すべて快楽。快楽を得るためにしていることを偉いとは言いません。読書も結局、ゲームやスポーツや旅行などと同様、何らかの脳内麻薬を分泌するための行為でしかなく、他の趣味から抜きんでて立派なものでもないんじゃないか、という感覚がいつもあるのです。大多数の本好きな人はこんなものではないでしょうか。少なくとも私にとって、読書は自分を磨くための行為ではないし、本を読むことでどこかにたどり着こうという気持もないのです。

 

でも、じゃあ私みたいな立場からなら「本なんて読まなくていいだろう」と言っていいかというと、それも違うような気がしてきました。私にとっては読書は快楽でしかない、と書きましたが、そもそも知識を得ることを快楽と感じられること自体が読書の産物だろう、とも思うからです。

どんな趣味でも、楽しむにはそれなりにお金はかかります。しかし、読書は図書館を利用すれば無料で楽しめてしまいます。読書習慣さえあれば、 広大な学問や文芸の世界へ無料でアクセスすることが可能になるのです。この点は、他の趣味に比べてかなり恵まれていると言えます。しかも、知識は増えれば増えるほど結びつきやすくなり、さらに多くの知識を得ることが容易になるのです。この状態について、斎藤さんはこう記しています。

 

 読書の場合も、最初の20冊30冊くらいはたいして知識も増えていないし、読むのが大変な感じがすると思います。一生懸命細胞分裂しているけれども、「まだ細胞16個かよ、そんなんじゃ人間になれないよ」という状態。ところが、あるところまで行くと突然どんどん知識が吸収できるような感覚が生まれます。知っていることが増えたので、新しい知識もスムーズに入ってくるようになるのです。

 すでに知っていることは確かな知識として定着し、新しいことも「つながり」が見えます。「あ、あれと同じだ」とか、「ここでつながっている」とわかる。どんどん知識がつながっていくから加速度的に増えていきます。 

 

こういう「学習意欲のゾーン」に入れるようになること、これは凡人でも到達可能な「読書する人だけがたどり着ける場所」ではないかと思います。こういう状態が確かにあり得ることを、私は実体験として知っています。読書で人格が磨けるかどうか、それはわかりませんし、読書が立派な人間をつくれるとも限りません。しかし、先人の築き上げた知の体系にアクセスするには、読書が一番確実な道であることは疑えません。そして、読書習慣を身につければ、この広大な世界そのものを楽しめるようになるのです。

ここで得られる快楽の多さにくらべれば、払わなくてはいけないコストなどはごくわずかであるように思えます。本を読まない人が読書習慣を身につけるのは簡単ではないかもしれませんが、だからこそ斎藤さんはあえて読書はしなくてはいけないものだ、と主張するのかもしれません。自分が味わっている豊饒な世界に読者を誘うには、時に強い言葉が必要になることもある。人格が磨かれるだとか人生が深まるだとか、そういう謳い文句は人を学問や文芸の世界に誘うためのただの方便であっても別にいいのかもしれません。要は読書が楽しめるようになればいいのです。

「読書する人だけがたどり着ける場所」は広大な書物の世界そのものでいいし、それ以上の場所にはたどり着くかもしれないし、たどり着かなくても別にいい。今はそれくらいに考えています。

平成最後の桜を大潟村の菜の花ロードで堪能する

大潟村菜の花ロードのソメイヨシノが一昨日の時点ですでに8分咲きくらいになっていたので、天気のいい今のうちに花見に出かけることにしました。昨日は天気が良かったので、予想通り見頃になっていました。

 

 

今年は雪が少なかったので、去年より開花が1週間ほど早いようです。

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花曇りのけぶるような空の下、大潟村を横断する県道号298号沿いに、11キロにわたって桜と菜の花が咲き誇っています。

ここには駐車場はないので、道路脇に車をとめて写真を撮ります。

菜の花ロード入り口付近はまだ満開ではありませんが……

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中央に近づくにつれ、桜も満開に近づいていきます。

菜の花は上品でいい香りがする。

桜の木の下で弁当を広げるのも気持よさそうですが、意外にもやってる人は一人しかいませんでした。

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写真には写っていませんが、空にはドローンが飛んでいました。

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場所によっては菜の花が少々寂しいところも。

あと2,3日以内には咲くでしょうが、週末は天気が悪そうなのが気になる。

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桜と菜の花のコラボを楽しんだ後は7号線を南へ下り、秋田市の名店・夜来香へ。

いつも行列しているとの噂だったのでかなり待たされるだろうか?と思ってましたが、平日で訪れた時間も遅かったせいか、意外にも店内にはすんなり入れました。

連休中だとかなり込みそうなので、今日来れてよかった。

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 携帯番号を伝えれば、車の中で待っていても席が空けば電話で教えてくれる最強のシステム。このあたりのサービスの良さも、秋田ラーメン総選挙で4位に食い込んだ原因かもしれません。この日は車では待たず、店内で10分ほど待った程度でしたが。

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手書き文字が味わい深いメニュー。

何を食べるか迷いますが……

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結局、いちばんスタンダードな感じの「中華ソバ」を注文することに。

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魚介の出汁が前面に出たシンプルながら奥深いスープ、厚くてボリューム満点のチャーシュー、固めで上質な麺の醸し出す三位一体の味わいは絶品というほかない。これで650円はコスパ良過ぎです。

まさに完璧な一杯。これなら1時間並んででも食べる価値があります。

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ラーメン総選挙でテレビに映っていたのはスーラータンメンでした。

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同行人の食べていた「あっさり中華ソバ」は中華ソバとは異なり、鶏の味が前面に出ている感じでしたがこれまた鶏の旨味が強くてうまい。中華ソバはこれに比べて脂っぽいかというとそうでもなく、両者ともにあっさりという感じでした。

店内を見渡すと、汁なし担々麺を食べている人が一番多い感じ。

 

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帰りにもう一度菜の花ロードに寄ってみましたが、なんだか暗い絵になってしまった。

去年は道路脇でキジの雄を見かけたのに、今年は見ることはできず……

だから何だってこともないですが、派手な鳥ってなんか縁起がいい気がするんですよね。

今年は木の上で白鷺を見かけただけでした。それはそれで珍しい?

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これで終わるのは寂しいので、明るい写真で締めるとしましょう。

来年もまたここに来れることを願いつつ。

モテ男の弾除けに使われていた経験談と「人間関係の等価交換理論」


anond.hatelabo.jp

悲しいけど、これって現実なのよね……と言いたくなってしまうのは、実は私も似たような経験をしているからでして。

似ている、と言っても私の場合はすごくモテる男友達に、しつこく言い寄ってくる女性の弾除けとして使われた、ということなんですが。

 

大学4年生のころの話なんですが、深夜に卒論を進めて一息ついていたころ、音楽サークルで知り合った他大学の女の子が急に私に電話をかけてきた、ということがあったのです。

それなりに言葉を交わしたこともある仲だし、彼女はわりと誰とでも打ち解けるタイプの人だったので電話がかかってきても不思議ではないのだけども、別に用があった様子でもなくとりとめもない話ばかりするので、いったい何があったんだ、とその時は不思議に思っていました。

知らない相手ではなくても真夜中に電話で話すほど親しいわけでもないし、彼女が実は以前から私と話したがっていて、急に勇気を奮い起こしたなんてこともまず考えられない。暇だからといって誰彼構わず電話して回るような人でもないので、どうも彼女の意図が読めなかったのですが、あとでそのモテ男から聞いた話では、彼女からあまりにしょっちゅう電話がかかってくるので鬱陶しく思っていたのだそうで。

 

そこで、彼は「今ちょっと忙しいし、あいつ(私)とでも話してみれば?」とつい言ってしまったんだそうです。彼は申し訳なさそうに言っていたし、私も別に彼女のことが嫌いというわけでもないので、俺のことを利用しやがって!という気持は特にありませんでした。ただ、ちょっとがっかりはしましたね。もしかしたら、オレにも深夜に突然あの子の話相手に選ばれるくらいの魅力があるんだろうか?なんて気持ちも少しはあったので、仕掛けがわかってしまうとそういうことか……と思ってしまう。と同時に、モテる男というのはすごいものだな、と妙に感心したりもしたのです。魅力があれば指示ひとつで大して興味もない男に電話までさせてしまうのかと。彼女の方では、彼の言うことを聞けば少しは好感度も稼げると思っていたかもしれません。残念ながら、彼の方では彼女の気持ちを受け入れる気はまったくなかったのですが。

 

この後も彼女の彼に対する攻勢は衰えることがなく、誘いを断り続けるのも疲れたので、彼の頼みで私も込みで三人で演劇を見に行った、 なんてこともあります。このことを別の友人に話したら、「そんなに都合よく使われてやる必要はないんじゃないか」と言われたこともあります。確かにこの場面だけ切り取ってみれば、いかにも私が都合よく使われているだけに見えますが、実は私の方でも結構彼に対してひどい扱いをしてしまったこともあるし、これくらいは引き受けてもいいか、と思っていたのです。当時を振り返ってみると、二人の感情の収支バランスはそれなりにとれていたような気がするし、男同士という気安さもあり、この人間関係は決定的な破綻をきたすことはありませんでした。

dot.asahi.com

でも、これが男女間の関係になると、事情はもっと複雑になると思うんですよね。上の増田氏の味わった状況、おそらく感情の収支バランスはとれていなかっただろうと思います。鴻上尚志さんの言葉を借りると、増田氏とその女性がお互いに渡していた「おみやげ」の価値が釣りあっていない。増田氏のいうことを信じるなら、容姿のいい彼女は「この私と一緒にいられるんだから嬉しいだろう」くらいの気持ちがあったかもしれないし、この自分と遊びに行けること自体がおみやげだ、と思っていたかもしれません。でも増田氏からすればそのおみやげでは十分ではなく、もっと深い仲になりたい。それはむずかしいとは知っていても、男性なら多くの人はあわよくばという気持くらいは持っているものです。

 

ナンパの弾除け役として同行するということと、遊び相手として一緒にいることの価値は果たしてイコールなのか。傍からどう見えるか、はここでは一切関係ありません。あくまで当人同士が互いに渡し合っているおみやげが等価である、と思っていないと関係は長続きしないはずです。惚れた方が立場が弱い、これは仕方がありません。だからつい、惚れた弱みを持つ側は相手からのおみやげが少なくても我慢してしまう。そして、惚れられた側もその弱みを知りつつ利用することもある。これではやはりおみやげを少ししか受け取れない側は苦しいし、どうせ利用するつもりなら最初から明言してくれ、と言いたくなるのもわかります。でも、そう言ってしまったらもう終わりですよね。あくまで表向きは相手を利用するつもりなんてない、と見せなければ、相手はもう一緒になんていてくれないだろうから。

 

結局、普通の人間関係ではどんなおみやげを相手に求めるかをなかなか口にはできないし、口にした時点で関係性が破綻しかねないのです。であれば、時にはお金で「レンタル何もしない人」を借りるのがいちばん後腐れがなくていい、ということになってしまいそうです。金銭とただ一緒にいるだけ、という等価交換がここでは成立しているのだから、トラブルの発生しようがない。互いの求めるものを手探りで当てようとするとなんらかのハラスメントが発生しかねない世の中では、これくらいのドライな関係性にこそ需要が出てきます。この状況は、人の気持ちこそは最大限に尊重されなくてはならない、という社会が求めた「優しさ」の必然的な帰結なのかもしれません。

【書評】出口治明『人類5000年史Ⅱ』

 

人類5000年史II (ちくま新書)

人類5000年史II (ちくま新書)

 

出口治明氏による世界史通史の2冊目は期限元年~1000年ころまでを扱っています。内容としては1冊目同様年代ごとに各地域の歴史を同時並行的に叙述していくもので、固有名詞が大量に出てきますがこの本で得られる新知見も多く、高校世界史程度の知識を持っているなら興味深く読み進められることと思います。前作に比べ時代が現代に近いこともあり、個人的にはだいぶ面白く読めました。

 

ふつう、世界史の教科書的な本は地域ごとに歴史を記述しているものが多いですが、本書のように年代ごとに多くの地域の歴史を扱う書き方には各地域の交渉がわかりやすくなるというメリットがあります。この形式だと地域ブロックごとに歴史が分割されないので、各地域の歴史がどう連動しているのかという世界史のダイナミズムを味わいやすくなります。

たとえば、本書では軍人皇帝ヴァレリアヌスがササン朝の捕虜になったことを書いたあと、この戦いで捕らえられたローマの捕虜がカールーン川の架橋工事に使われたことを記しています。ササン朝のシャープール1世が水利事業に力を入れていたことを示す史実ですが、各地域の歴史を横断的に書くことでこういう記述が可能になります。

 

有名なタラス河畔の戦いについての記述でも、この戦いでアッバース朝に伝わった製紙技術と知的好奇心が結び付き、熱心な翻訳作業が行われたことが記されています。東西の歴史を横断的にみる視点がなければ、こういう書き方はできません。こうした点が類書とは一線を画するところではないかと思います。

 

以下、個人的に学びのあった箇所についてのメモ。

 

・クシャーン朝の仏典結集は仏教教団の宣伝要素が強く、必ずしも史実とはいいがたい 

・倭が朝鮮半島から鉄を購入するための代価は、おそらく生口(奴隷)。当時の倭には他の世界が欲しがる商品も貴金属もなかった

・ソルジャーはコンスタンティヌス1世が作ったソリドゥス金貨のために戦うもの、からできた言葉

・テオドシウス1世の異教神殿の閉鎖や供儀行為の禁止は焚書坑儒廃仏毀釈のようなもの

ユスティニアヌスは西方領の経営に力を割きすぎたため、巨視的に見ればローマ帝国を疲弊させた

胡麻、胡椒、胡瓜など「胡」がつくものはソグド人などの西域出身者が中国に持ち込んだもの

貞観政要は元の時代に整理され、フビライが愛読していた

則天武后の人材登用は能力主義に基づく公正なもので、その治世中は農民反乱も起こらず安定していた

・タラス河畔の戦いで麺がイスラーム世界に伝わった可能性もある

平城京は渡来人が人口の6,7割を占めていたという説もあり、国際都市だった。

マムルークは成人すれば奴隷から解放して軍人職につけることが多く、実態は奴隷より養子に近い

・宋代に入り胡蝶閉じが生まれ、栞を挟めばいつでも必要な個所を参照できるようになったため読書に革命が起きた

 

『人類5000年史Ⅰ』のレビューはこちらです。呂不韋がソグド系だったという衝撃情報(?)もあり。

saavedra.hatenablog.com

【書評】出口治明『人類5000年史Ⅰ』呂不韋はソグド人だった……?

 

人類5000年史I: 紀元前の世界 (ちくま新書)

人類5000年史I: 紀元前の世界 (ちくま新書)

 

 

一年に一冊づつ刊行される予定らしく、現在2冊目まで発売されている出口治明氏の世界史通史。

1冊目のこの著書は手堅い通史でありつつ世界史の新知見も随所に盛り込まれていて、新書としてはかなり密度の濃い内容になっています。先史時代についての記述もおもしろく、ホモ・サピエンス旧人類を圧倒できたのは言語を用いて効率的な狩りや戦いができたから、脳が発達したのは火で肉を調理して消化しやすくすることで脳にエネルギーを回す余裕ができたから、といった人類史の知識も得られます。

 

マクニールの本などと比べると固有名詞がかなり多いので、知識ゼロの状態でこれを読むとなるときついでしょうが、高校世界史程度の知識がある程度あるなら、その次の段階としてこれを読むのもいいと思います。扱っている時代は人類の誕生からキリストが誕生する直前まで、となります。

 

ところで、本書を読み進めるうちにかなり気になる部分が出てきました。ちょっと引用します。

秦の名将軍、白起が趙を大破した翌年、その趙の都、邯鄲で、秦の公子に一人の子供が生まれました。名を正(『史記』では政、木簡では正)といいました。公子は人質生活を送っていましたが、ソグド系の気鋭の大商人、呂不韋が「奇貨居くべし」として援助を始めたのです。(p203)

 

呂不韋がソグド系の大商人……?この話は初耳です。こう書いているからには何か根拠があるはずですが、ぐぐってみてもなにも情報が出てきません。呂不韋がソグド系と書いてあるのは著者の出口氏のこの記事くらいでした。

 

blog.livedoor.jp

 

興亡の世界史 シルクロードと唐帝国 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 シルクロードと唐帝国 (講談社学術文庫)

 

 

呂不韋がソグド系という情報はソグド三昧の『シルクロード唐帝国』にも書かれていなかったことですが、これ、なにか元ネタになる本などはあるのでしょうか。私にはちょっとわかりませんでした。

 

気になったので史記呂不韋列伝を読んでみたのですが、呂不韋とソグド人の共通点は商売が得意だったということ以外には特に見つけられませんでした。これだけでは呂不韋がソグド系だったという証拠にはならないので、何かほかに根拠があるはずなんですが……なお、史記には呂不韋の身体的特徴についての記述はなく、容姿の点からも呂不韋がソグド系だったかどうかは判別できません。

秦は戦国七雄では一番西に位置する国なので、ソグド人も住んでいたのかもしれませんが、呂不韋自身は陽翟の出身ということになっていて、ここは秦ではなく韓です。この時代の中原にソグド人が住んでいたかどうかは私にはわからないのですが、何かそういった学説があるのでしょうか。あるのなら知りたいところです。

 

ところで、始皇帝呂不韋の子かもしれないという話があることは多くの方が知っていると思います。もし仮に始皇帝呂不韋とかれの愛妾の子だったなら、始皇帝にもソグドの血が流れていることになるのか……?という疑問が出てきますが、本書では始皇帝の出自にまつわるスキャンダルは漢が始皇帝を貶めるためのひとつの形だ、と書かれています。

 

 

世界史リブレットの『安禄山』をみてみると、文字史料では古くは後漢とソグドの間に通行関係があったことを確認できるそうですが、これ以前の中国とソグドの関係はちょっとわかりません。ソグド人特有の姓として「安」「康」「石」「史」「何」などがありますが、呂はソグド姓ではないので、この点からも呂不韋が本当にソグド系なのかという疑問が残ります。

 

本書の巻末には参考文献が大量に載っているので、この中のどれかに書いてあることなのかもしれませんが、いずれにせよ呂不韋がソグド系であるということ、そもそもこの時代の中国にソグド人が存在したということも本書ではじめて読んだことなので、この話の出所がどこなのかは確認できませんでした。今はちょっと気力がありませんが、いずれ可能な範囲で参考文献を調べてみようかとは思っています。