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織田信長はいつから「革命児」扱いになったのか

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呉座勇一さんが信長評の変遷について語っている。この動画はかなりよくまとまっていて、動画の後半(1:10~あたり)では信長の「革新性」は本当かを検証しているので、信長の実像を知りたい人には参考になりそうだ。今回興味を惹かれたのは前半だったので、動画の内容を追いつつ、時代ごとの信長評について見ていきたい。

 

江戸時代の知識人のあいだでは、信長の評判はよくなかった。彼らは信長の能力は認めつつも、倫理面で大いに問題があったとしている。小瀬甫庵は「武道のみで文をおろそかにした、家臣に対し酷薄だった」、新井白石は「天性残忍」と信長を評する。さらに白石は、足利義昭を追放した信長を「不忠」と批判する。儒教道徳が浸透し、君臣間の秩序が定まった江戸時代では、主君に逆らったものを評価するわけにはいかない。天皇の権威の高まった幕末には、頼山陽のように信長は「勤王家(=朝廷に献金していたから)偉い」と評価する人物も出てくるが、この「勤王家信長」のイメージは明治時代にも引きつがれる。

 

 

明治に入っても、信長はそれほど人気者ではなかった。動画で紹介されている明治42年の「世界英雄番付」では、信長は前頭六枚目にすぎず、北条時宗伊達政宗より評価が低い。なお横綱は秀吉で、圧倒的人気を誇っている。こうした信長評をくつがえし、はじめて彼の革新性を論じたのが徳富蘇峰『近世日本国民史』だ。徳富蘇峰はまず信長を、身分家柄を問わず人材を抜擢した「平民主義の実行者」と称賛する。さらに、蘇峰は信長が明へ侵攻する計画をもっていたとして、彼を「無意識の帝国主義者」と持ち上げる。この信長像には、当時大陸に矛先を向けていた明治国家が重ね合わされている。蘇峰からすれば、信長は島国根性を打破し、海外へ雄飛しようとしたスケールの大きな政治家であり、この流れを止めてしまったのが徳川氏の鎖国政策だ、ということになる。

 

帝国主義とは別の側面から信長を高く評価した人物もいる。歴史学者の田中義成は、1924年に刊行された『織田時代史』において、信長が旧体制を破壊し、かつ新体制を打ち立てたことを「革命的進歩」と論じた。田中は鉄砲隊の組織や鉄張りの船を建造したことなど、信長の戦術・兵制改革を評価しているが、このあたりは現代の信長評にも通じるところがある。また、田中は頼山陽と同じく、信長を勤王家と位置づけた。信長が足利義昭を追放したのち、天皇を擁して天下に号令したことは「一大革新」だというのだが、現代人の立場からするとなぜこれが「革新」なのか、今ひとつわかりにくいところはある。将軍が中心だった徳川時代より、王政復古を実現した明治のほうが「新しい」という話だろうか。

 

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そして戦後になり、「勤王家」という理由で信長が評価されることはなくなる。だが、「革新者」としての信長像は残る。このイメージを拡散させるのに貢献したのが、司馬遼太郎国盗り物語』になる。1966年に刊行されたこの作品において、司馬は信長を「この人物を動かしているものは、単なる権力欲や領土欲ではなく、中世的な混沌を打通してあたらしい統一国家をつくろうとする革命家的な欲望であった」と評した。『国盗り物語』は1970年代後半には文庫化され、多くのサラリーマンの愛読書になった。この頃盛り上がっていた大衆歴史ブームに乗り、司馬作品の信長像は多くの読者に刻みこまれ、「勤王なき革新者」としてのイメージを定着させていった。

 

 

動画中では語られていないが、戦後の歴史研究者にも信長の革新性を指摘する人は多い。たとえば小和田哲夫『集中講義織田信長』には、変革者としての信長の特徴が一冊にまとめられている。この本に書かれているのは、一向一揆と対決して政教分離をめざし、能力本位の人材登用をおこない、楽市楽座や関所の撤廃で財政を豊かにする……といった、「近代的合理主義者」としての信長像だ。こうした開明的な信長のイメージは、今も根強く存在する。だが、信長研究が進展するにつれ、しだいに信長の革新性を疑問視する流れも出てくる。

 

信長の政略

信長の政略

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2013年に刊行された谷口克広『信長の政略』では、終章で信長の政略を総合的に評価している。この章では、信長が朝廷や室町将軍、仏教など既存の権威を基本的には尊重していたとし、「革命児」などというイメージは彼にそぐわないと指摘する。また、検地が不徹底で中間搾取や重層的土地支配などを認めていた点も、革新的ではないと評価する。この本では信長が関所の廃止や兵農分離をすすめたことなどをもって「保守か革新かと分類するならば、間違いなく革新」としているが、従来の信長評にくらべれば、革新性の強さがやや後退している印象がある。

 

 

信長の「革新性」の例としてよく持ち出されるのが長篠合戦だ。この戦いはしばしば、鉄砲を大量に用いた先進的な織田軍vs騎馬突撃にこだわる旧態依然とした武田軍、という対比で描かれる。だが、武田氏研究の立場からすれば、このような単純な見方はなりたたなくなる。2014年に刊行された平山優『検証長篠合戦』によると、武田氏も鉄砲の重要性は理解していて、信玄の時代からすでに鉄砲衆を編成している。武田氏が鉄砲を軽視したことはないが、織田氏にくらべて鉄砲や弾薬の入手ルートが限られていたため、織田軍の火力に圧倒されてしまったのが長篠合戦の実態のようだ。ここで評価するべきは信長の「戦術革命」ではなく、大量の鉄砲と弾薬を調達できた経済・流通の手腕かもしれない。

 

 

さらに保守的な信長像も出てくる。神田千里『織田信長』では信長が朱印に用いた「天下布武」の「天下」とは日本全国ではなく、五畿内のみを指すと主張している。信長の目的は武力による全国統一ではなく、将軍を補佐し畿内の秩序を回復することにあったというわけだ。この主張が正しければ、信長はむしろ体制の擁護者になる。それならなぜ信長は義昭を追放したのち別の将軍を迎えなかったのか、という疑問は出てくるが、一時期は信長が義昭の権威を確立しようとしていた、という話なら受け入れられないわけではない。最終的には信長は四国攻めを計画するなど、全国統一へ向けて動き出していたように見えるが、その事実と「保守」としての信長像を整合させるのは難しいように思える。

 

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信長の革新性を示す要素として持ち出される「兵農分離」についても、疑問がもたれている。平井上総『兵農分離はあったのか』によると、戦国時代に兵士として動員されるのは正規の武士・奉公人と軍役衆であり、百姓は基本的に戦闘員ではなかった。つまり、「兵農分離」は信長の専売特許ではなかったことになる。事実、第三次川中島の戦いでは四月から九月まで武田軍と上杉軍が対峙している。「織田氏以外の戦国大名は百姓を動員しているから農繁期には戦えない」というわけではない。このように、「革新者」としての信長像は、歴史学の立場から徐々に修正が加えられている。

 

 

といっても、信長が何も新しいことをしていないわけではない。千田嘉博『信長の城』では、小牧山城の城下町において紺屋町や鍛冶屋町など、職業ごとに住居が集中していることを指摘している。小牧山城の同職集住は近世城下町に先立つもので、信長の先進性を示すものといえる。ただし、武家屋敷が小牧山城周辺に分散していたことは、信長に有力家臣を城下へ集中させる権力がなかったことを示している。このため、信長は岐阜城では求心的で階層的な城郭をつくり、家臣に対して圧倒的な上下関係をみせつけることに成功した。中世的な「同輩中の第一人者」から抜けだそうとする姿勢が、岐阜城の城郭構造にも反映されている。このように、城郭考古学の立場からは、信長の「革新性」を示すことができるようだ。そもそも、清州城から小牧山城、そして岐阜城から安土城へと居城を移転したことは、信長の合理性の現れとされてきた。信長の城郭は、彼の新しさの象徴でもある。

 

 

研究者はともかく、歴史作家の描き出す信長像は「革新」寄りになりがちだ。そうでなければ面白みがないし、時代がそんな信長像を求めることもある。『司馬遼太郎の時代』によると、『国盗り物語』がよく読まれた昭和50年代は、高度経済成長が終わり、その先が見通しにくい時代だった。司馬作品に書かれた「革命家」信長は、先行きの不透明な時代を乗りこえ、新秩序を打ち立てる英雄として求められた一面がある。令和の今も先が見えない時代である点は、昭和50年代と変わらない。この時代に求められる信長像はどんなものか。本当のところはわからないが、『麒麟がくる』で描かれた承認欲求の強い信長は、個人的に強く印象に残っている。「信長は世間体を気にしていた」という谷口克広氏の説を取り入れた結果、あの感情の起伏の激しい信長像ができあがったのかもしれない。創作側が歴史研究を積極的にとり入れれば、斬新な人物像も描けるということだろうか。