明晰夢工房

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魔女狩りはなぜ近世ヨーロッパで最盛期を迎えたのか?池上俊一『魔女狩りのヨーロッパ史』

 

 

魔女狩りという言葉は、しばしば「中世ヨーロッパ」とセットで用いられる。魔女狩りなどするのは迷信深い中世人だろう、という先入観があるのだろうか。だが『魔女狩りヨーロッパ史』によると、魔女狩りがピークを迎えた時期は1580~90年前後、1610~30年前後で、いずれも近世になる。15世紀以前にも魔女狩りは行われているが、個人に対する裁判が中心で、大規模な迫害はなかった。

 

近世もまだまだ宗教の時代であるとはいえ、中世ほど魔女狩りにふさわしい時代ではないように思える。ルネサンスを経て科学技術も進歩し、迷信も少しは薄れた印象のある近世ヨーロッパで、なぜ大規模な魔女狩りがおこなわれたのか。『魔女狩りヨーロッパ史』の第7章を読むと、むしろ近世だからこそこの悲劇が起きてしまったことがわかる。

 

この本の第7章『「狂乱」はなぜ生じたのか』を読むとまず見えてくるのは、近世ヨーロッパにおける農村の劇的な変化だ。新大陸が「発見」され、ここから多くの金銀や産物が流入したことで、いわゆる価格革命が起きる。これによりもたらされた経済変動で農村の貧富の差が拡大し、困窮する農民が多数出現し、古くからの農村共同体は解体してしまった。

こうして農村の雰囲気が悪化していたところに、宗教改革による宗派対立が拍車をかける。しかも1560年以降は「小氷期」にあたるほどの厳しい冬が何度も訪れ、深刻な冷害が農村を襲った。こうした苦境のもと、共同体での助け合いもなく、隣人同士のいさかいが絶えないぎりぎりの状況が続き、いつ鬱積した村人たちの不満が爆発してもおかしくなかった。

 

こうした不満の矛先が「魔女」に向けられるのにも、近世特有の事情がある。『魔女狩りヨーロッパ史』7章で指摘される事情は、農村の「文化変容」だ。宗教改革イデオロギーに影響を受けた都市エリートたちは、その理念を広めるため農村に送りこまれる。彼らのめざした「文化変容」とは、カトリックプロテスタントそれぞれが理想とする秩序をつくりあげるため、農村から迷信や異教的要素を排除することだった。彼らの影響を受けた農村の指導者層も「文化変容」の担い手となり、田舎の習俗をきびしく監視した。

 

農村に入り込んだ都市エリートたちは司法官や教会関係者で、彼らは異教的呪術をさかんに攻撃し、悪魔化した。農村の民間伝統だった呪術や占いが蔑まれてゆくなか、かつて「賢女」とよばれていた産婆や呪術使い女・女性の治癒師なども「魔女」とされ、排除の対象になっていく。ここにおいて、農村にため込まれたストレスが魔女へ向けられる条件が整った。貧富の格差に苦しみ、さまざまな災厄に見舞われた民衆は、魔女をスケープゴートに仕立て、責任を転嫁した。「文化変容」をもたらしたのは都市エリートや農村指導者など「意識の高い人びと」だったが、彼らの影響を受けた民衆もまた、呪術的世界観の中に生きている互いを監視し、魔女を告発したのだった。

 

農村の「文化変容」の担い手たちは、異教的要素を排撃し、この世に清浄な社会秩序を打ち立てることをめざしていた。当人たちは進歩的で理性的なつもりだったのかもしれない。だが社会のエリートである彼らも、魔女や悪魔の存在は信じていた。18世紀になり、エリートの間に合理主義が生まれると、魔女狩りは急速に減っていく。合理主義が一般の人々の間にも広まると、魔女狩りを推進したエリートたちも、田舎の迷信や呪術と同じように不合理な存在とみなされるようになった。こうして、魔女狩りは終焉を迎える。

 

合理主義が非合理な魔女狩りを駆逐した、というのは非常にわかりやすいストーリーではあるが、理性がいつでも人間社会をよい方向へ導いてくれるわけではない。近世人よりはるかに合理的なはずの現代人も、さまざまな蛮行に手を染める。いや、むしろ理性を持っているからこそ、人は一見非合理な行動を正当化できるのかもしれない。この理性というものの一筋縄ではいかない性質について、『魔女狩りヨーロッパ史』著者の池上俊一氏は以下のように簡潔にまとめている。

合理的・機械論的宇宙観や理性尊重の懐疑主義が、そのまま人間の不条理な行動を抑制するわけではない。むしろ理性という認識の機械装置の根源的動力因は、人間の内部に潜む非合理な衝動なのであり、合理と非合理がたやすく入れ替わることは、二十世紀の次なる蛮行──ナチス・ドイツを見れば明らかだろう。(p216)