明晰夢工房

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チェコとスロヴァキアの歴史を一冊で学べる良書『図説チェコとスロヴァキアの歴史』

 

 

チェコとスロヴァキア、両地域の歴史を通覧できる良書。著者の薩摩秀登氏は中公新書から『物語チェコの歴史』を上梓しているが、こちらでカバーしていないスロヴァキアについても本書ではかなりページが割かれている。加えてユダヤ人やロマなどマイノリティについての言及も少なくないので、チェコとスロヴァキアを構成した多様な住人の姿を知ることができる。

 

この本の1章から3章まではチェコの歴史の概説になる。チェコは小国ではあるが、この章を読むとドイツ史・ハプスブルク帝国史における重大事件がこの国を舞台として起きていることがわかる。チェコの英主オタカル2世はハプスブルクの始祖ルドルフと覇権を競って敗死しているし、プラハに生まれたカレル4世は神聖ローマ皇帝を兼ね、故郷にアルプス以北のヨーロッパで初の大学となるプラハ大学を建設した。

15世紀前半には中世ヨーロッパ最大の宗教戦争といわれるフス派戦争がはじまり、フス派は一時期ドイツやポーランド・スロヴァキアまで遠征する勢いをみせた。近世にはプラハ城から貴族と書記がプロテスタント貴族によって放り出された事件から、三十年戦争がはじまっている。プロテスタントに対抗するため神聖ローマ皇帝に起用されたヴァレンシュタインチェコ人で、一時は総司令官として権勢の頂点を極めたが、彼が暗殺された土地もまたチェコだった。このように多くの人材を輩出し、王侯貴族や宗教勢力が鎬を削る舞台になったチェコ史の魅力を、本書では知ることができる。

 

この本の魅力は政治史だけではない。4章「チェコモラヴィアの都市と農村」では、中世から近世の都市民と農村の生活の様子について、簡潔にふれている。農村についての解説を読んでみると、まずフス派戦争による被害が甚大であることがわかる。この戦争による荒廃と人口減少は、労働力不足と地代の減少をもたらした。このため、領主は農民の移動の自由を制限し、ときには領主が生産したビールや醸造酒などの消費を農民に義務付けることすらあった。中世後期には自主的に農村を運営していた農民は、こうして領主への従属を強めていった。

三十年戦争の惨禍は、この傾向にさらに追い打ちをかける。チェコモラヴィアの農民は領主の直営地で賦役労働をしなくてはならず、他の土地への移動や結婚・子供の通学にも領主の許可が必要だった。貴族に隷属する立場に落ち込んだ農民たちは、時に立ちあがることもある。1679年、皇帝レオポルト1世が疫病をのがれるためプラハを訪れた際には、賦役軽減を求める嘆願書がチェコ各地から殺到した。農民たちは問題解決まで賦役労働を拒否し、チェコ各地で武装蜂起すらした。マリア・テレジアの治世からようやく農民保護の方針が出され、ヨーゼフ二世の時代には結婚や移動の自由などが認められたが、この勅令はヨーゼフの死後領主側の反発により撤回された。このように、チェコモラヴィアにおける農民の苦境はこの地域の政治史と深くリンクしていることがわかる。

 

再び3章に戻ると、ユダヤ人やロマなどマイノリティについての言及も多い。ロマについての記述を読むと、チェコでは15世紀からロマに関する記録が存在することがわかる。ツィガーンやツィカーンなどの名称で呼ばれ、金属加工を得意としていたロマは差別を受けており、18世紀まで頻繁に追放令を出されている。一方、鍛冶工や獣医・薬草の専門家として地域社会に溶け込んでいるロマも多く、領主は都市当局からは存在を黙認されていた。

近代に目を向けると、ロマは相変わらず迫害を受け続けていることがわかる。9章ではユダヤ人同様、ロマもまたナチスにより絶滅政策の対象にされたと書かれている。第二次大戦下のヨーロッパにおけるロマの犠牲者数は25万人とも50万人ともいわれ、チェコモラヴィアでもロマは過酷な扱いを受けている。ロマへの差別的言動は現代でも存在し、終章ではこれがチェコとスロヴァキア両国が取り組むべき大きな問題としている。ロマはチェコの人口の2~3%、スロヴァキアの10%ほどを占めるともいわれ、その存在感は小さくないが、多くの人々が所得や学歴が低い状況からなかなか脱却できずにいるという。

ここではロマの記述だけを紹介したが、本書ではロマだけでなくユダヤ人や隠れプロテスタント・ウトラキスト(フス派の穏健派)などの各時代ごとの動向も追いつつ、チェコとスロヴァキアの歴史の流れを追うことができる。地図や写真も多く文章も読みやすいので、この地域を知るための最初の一冊としておすすめできる。