最近、中世日本を扱った歴史本を読むと「烏帽子が落ちるのはパンツが脱げるより恥ずかしいことだった」といった表現を見かけることがある。呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』にも、そのような説明がある。
そういわれると、「烏帽子が落ちると裸に近くなってしまうのか」と思ってしまう。だが、烏帽子が落ちて恥ずかしいのは「全裸に近いから」ではない。『烏帽子と黒髪 中世ジェンダー考』によると、恥ずかしい理由は「下層身分の姿になるから」だ。
中世の世俗の男性には、烏帽子をかぶる男と、かぶらない童とがいて、烏帽子の有無によって身分の差は歴然としていた。ここで童というのは、必ずしも子どもの意味ではない。中世には、年齢的に大人でも、一生元服できず、一人前の男になれず、童髪で過ごすことがあったのだ。人の家に隷属する下人、牛飼童のような職能の人々、非人といわれる人々などである。男の烏帽子が落ちると、瞬時であっても下層身分の姿になってしまうので、それは大変な恥辱であったわけである。また、本鳥を切られると、しばらくは烏帽子がかぶれなくなるので、それ以上の恥辱であったわけである。中世の刑罰で「片鬢を削ぐ」というのは、一定期間、烏帽子がかぶれないようにすること、すなわち童の状態に落とすことで、きわめて屈辱的な刑罰であった。(p45-46)
この時代は博打で負けて身包み剥がされても烏帽子だけは残すそうで、ましてや髻を衆人の前で切られたら大変な恥辱だったそうな。
— ねこねこ (@nekoneko333) 2022年3月27日
あの義経さえドン引きしているくらい。
#鎌倉殿の13人
鎌倉時代の東北院職人歌合絵巻↓ pic.twitter.com/AUU5mX939p
中世の男にとり、下層身分に落ちることは裸になるより恥ずかしい。このことを示す実例も『烏帽子と黒髪』では紹介されている。鎌倉時代の『東北院歌合』には博打で負け、褌まで取られた男が描かれているが、それでも烏帽子だけはかぶっている。たとえ全裸になろうと、男は烏帽子だけは死守せねばならなかったのだ。
烏帽子が一人前の男の証明であるからには、これをかぶれないようにすることが、最大の恥辱を与える方法になる。烏帽子をかぶれなくするには本鳥を切ればいいが、『烏帽子と黒髪』によれば、これは窃盗や放火と並ぶレベルの犯罪だった。『平家物語』にも平清盛の孫、資盛が摂政に恥をかかされたため、復讐しようと摂政の従者たちの本鳥を切らせた話がある。源頼朝が本鳥に観音像を入れ、足利尊氏が機密文書を隠していたことからも、本鳥がきわめて大事な場所だったことがわかる。
中世では、男は死のまぎわまで烏帽子から離れることはできない。『烏帽子と黒髪』によれば、極楽に往生するためには烏帽子をかぶりながら寝具の上に起き上がり、端座合掌して念仏を唱えながら息絶える必要があった。もうすぐ臨終を迎えるほど具合が悪いのに、こうして威儀を正さなければ阿弥陀如来に迎えてはもらえない。それほど烏帽子がをかぶっていることが重要視されたため、中世の男たちは亡くなった後も烏帽子をつけたまま埋葬されている。中世の男はたとえ命を失っても、烏帽子だけは失ってはいけないようだ。