明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】じゃき『最凶の支援職【話術士】である俺は世界最強クランを従える』は今一番おすすめのなろう小説

 

 

一言でなろう小説といってもいろいろなものがあるんだな、というのが一読しての感想だった。本作『最強の支援職【話術士】である俺は世界最強クランを従える』は、タイトルに「最凶」と入っているのがポイントで、「最強」ではない。最初から無敵の強さを発揮できるわけではないものの、話術スキルは使いようによっては凶悪な支援効果をもたらすことができ、一気に戦局を逆転させることもできる。

タイトル通り、主人公ノエル・シュトーレンがついている職「話術士」は支援職だ。この世界ではどのジョブにつくかは生まれつきの才能で決まり、話術士は戦闘力が全ジョブの中で最弱という設定になっている。だが魔力消費なしに使える話術スキルはおもに仲間にバフ効果をもたらすので、うまく使えばパーティーの力を何倍にも高めることができる。このため、話術士にはスキルを臨機応変に使える頭脳が求められるが、ノエルの指示はいつも的確なので、司令塔として大いに活躍することになる。ノエル自身の力で敵を圧倒することはできないが、頭脳戦で着実に敵を詰めていく快感を読者は味わうことができる。敵側も簡単に負けてくれるわけではなく、さまざまなスキルを使ってくるのでバトルの駆け引きが楽しい。今一番バトルが熱いなろう小説といっても過言ではないだろう。無双系よりもむしろ戦術シミュレーションが好きな読者が楽しめる作品ではないだろうか。

 

作中でノエルが使っているスキルをいくつか紹介する。敵を停止させる「狼の咆哮(スタンハウル)」。裏切った仲間に対しては2秒しか効果がなかったが、これだけの時間動きを止められれば十分相手を制圧できる。「精神解法(ピアサポート)」は対象の精神を正常化させ気力を漲らせる。仲間を安心させるのにも使える。強力なのは「連環の計(アサルトコマンド)」で、パーティメンバーの全攻撃系スキルの威力を倍増させることができるが、効果が切れると対象者は一時的に行動不能に陥るので、使える場所が限られる。これらのスキルを使いこなしつつ、ノエルは仲間を強化しながら戦うことになる。ゲーム的なバトル描写に抵抗がない読者ならかなりのめりこめるはずだ。

 

スキルが豊富なだけでなく、本作ではジョブも豊富に用意されている。戦闘職の「戦士」や「弓使い」「格闘士」などおなじみな職業から、「斥候」のような隠術スキルを持つ職もあり、中には「傀儡師」のような変わり種もある。傀儡師は人形を操り戦うスキルと、人形とその武具を生産するスキルとを持ち、あらゆる戦闘に対応できる強みを持つ。ノエルは傀儡師のスキルを持つヒューゴ・コッぺリウスを仲間に入れたいと考えているが、1巻の時点ではこれは果たせていない。これらの職業はすべてに上位職があり、ランクが上がれば斥候からは乱波や断罪師などの職に就くことができる。ノエルは世界最強クランを作るため行動しているので、仲間がどんな職についていてどんなスキルを持っているのか、も読むうえでの楽しみにもなる。1巻で出会う斥候のアルマや刀剣士のコウガなど、新キャラが出てくるたびにこのキャラは何ができるのか、が知りたくなる仕組みになっている。

 

こう書くとこの作品はゲーム的なバトルを楽しみたい人のためのものなのかと思われそうだが、本作は小説としての作りもしっかりしている。「世界最強のクランを作る」というノエルの目的は一貫していてぶれることがないので、作品に安定感がある。序盤での仲間の裏切りや盗賊討伐依頼をこなした後のトラブル処理、ヤクザのガンビーノ組との駆け引き、そして刀剣士のコウガとの戦いなど、イベントを次々と起こして読者を飽きさせないところには作者の安定した力量を感じられる。キャラクターもしっかり作りこまれていて、書籍版はなろう版にはない脇役の過去エピソードも追加されている。いわゆる「なろう小説」に抵抗のある人にも、一度手に取ってみてほしい。

 

主人公のノエルの性格は好き嫌いがわかれるとこがかもしれない。本作では序盤でパーティーの仲間がノエルを裏切るのだが、これに対するノエルの報復がかなり苛烈だ。どんな報復かは読んで確かめてほしいが、本当に容赦がない。もっとも、これは探索者(冒険者みたいなもの)がそれだけ過酷な世界に生きているという世界観の描写でもあるだろう。加えて、ノエルは今の仲間にもかなり辛辣な言葉を浴びせる。仲間のほうに落ち度がある場合のことではあるし、信頼感が背後にあるうえでの台詞なので受け入れられないことはないが、抵抗がある人もいるかもしれない。これくらい言いたいことをはっきり言う主人公のほうがなろうでは受けるのだろうか、というメタな興味も持ちつつ読んでいたが、これは絶対に他人に媚びず妥協もしない、というノエルの芯の通った性格の表れでもある。自分をノエルに重ねられるなら気持ちいいかもしれない。

 

この作品を読んでいて、自分はなろう小説に対する見方がかなり変わった。もともとゲーム的な描写の多い小説は敬遠していたところがあったのだが、そうした要素もうまく使えば作品を大いに盛り上げられることがわかったからだ。やはりなんでも毛嫌いせず一度は読んでみたほうがいい。流行っているものにはそれなりの理由があることがよくわかる。

なぜなろう小説にはゲーム的な描写が多いのか。さまざまに解説されているが、読者視点から見れば、これは「ごほうび」を明確にするためだ。作中で手に入るスキルやアイテムなどは、ページをめくらせる牽引力になる。もちろん仲間が増えるのもごほうびだ。「世界最強クランを作る」が本作の目的である以上、ストーリーが進むごとに仲間も増えることになる。すると戦力が強化され、パーティー全体で使えるスキルも増える。文字しかないという小説の弱点を補うため、ウェブ小説という場では手に取ってもらうためにゲーム的要素を使う技術が発達したのではないだろうか。スキルがゲーム的に表現されることで、仲間のキャラが把握しやすくなるというメリットもある。『最凶の支援職【話術士】である俺は世界最強クランを従える』はこれらの要素をうまく使って読みやすく仕上げているファンタジーだ。

 

思えば、今でこそ本格ファンタジーのような扱いのロードス島戦記も、発売当時はゲーム的だと言われていたような気もする。もともとがTRPGなので当然だ。ロードス島戦記がゲーム的な要素を取り入れつつも小説としての土台がしっかりしていたのと同様に、本作も芯となるストーリーが堅牢で、その上にゲーム的な要素が乗っている形だ。この両方がそろわないと、今の小説家になろうでは戦えないのかもしれない。そういう意味では、ランキング一位も獲得した本作は小説家になろうの流行の最先端を知るきっかけにもなる。これを読めば、ウェブ小説というものの持つ可能性の広さも味わうことができるだろう。

【感想】渡辺靖『白人ナショナリズム アメリカを揺るがす「文化的反動」』

 

 

ブラック・ライブズ・マター運動が全世界で盛り上がりをみせる中、タイムリーな新書が出た。本書『白人ナショナリズム アメリカを揺るがす「文化的反動」』を読めば、白人至上主義と自国第一主義の結びついた白人ナショナリズムの歴史とその現状、運動家たちの素顔、オルトライトやトランプ政権との関係性、白人ナショナリズムを捨てた人々のその後までを概観することができる。

 

一言で白人ナショナリズムといっても、これを掲げる団体は多様だ。SPLC(南部貧困法律センター)の分類によれば、反移民系が17団体、反LGBTQが49団体、反イスラム系が100団体、ネオナチ系が112団体など、さまざまな系統のものがある。中には「男性至上主義系」団体もあるそうだが、ここにはピックアップアーティスト(ナンパ師)が運営する団体も含まれている。

これだけ多様だとあまり統一性がなさそうに思えるが、ポリティカル・コレクトネスにより白人が圧迫されているという認識は白人ナショナリストの間で共通している。著者は第一章で白人至上主義団体の指導的存在とされるジャレド・テイラーが主催する雑誌『アメリカン・ルネサンス』年次会合を取材しその様子を書いているが、自分たちがリベラルな社会秩序の犠牲者であるという意識がこの会合を貫く通奏低音であるという。白人ナショナリストは『「多様性」は白人大虐殺の隠語だ』というスローガンを愛用し、多様性を推進する施策こそ差別的だと主張する。

 

意外なことに、これらの白人ナショナリストには日本人に好意的な人物が少なくない。ジャレド・テイラーは16歳までを日本で過ごした知日家だし、KKKの有力団体の最高幹部を務めたこともあるデイヴィッド・デュークは三島由紀夫の愛読者だ。米国自由党代表のウィリアム・ジョンソンは「白人ナショナリストの99パーセントは日本が好きです」と語る。作家ジョン・ダービシャーのように、日本の外国人材の受け入れ拡大を危惧する人物もいる。白人ナショナリストにとり、移民や難民が少なく、同質性の高い日本は良い社会と見えているようだ。「日本人は黒人やヒスパニックとは違い勤勉だからよい」と評価する人物もいる。

 

人はなぜ白人ナショナリストになるのか。ポリティカル・コレクトネスが席巻するアメリカ社会で、白人ナショナリストになるリスクは大きい。著者が取材した『アメリカン・ルネサンス』年次会合では、参加者の宿泊を断る業者も少なくない。アンティファのメンバーに尾行された参加者もいるという。にもかかわらず、学者や医師、弁護士、コンサルタントなど、社会的地位の高い人物が白人ナショナリストには少なくない。

本書によれば、たんに外見や生理的理由から他の人種を拒絶している白人ナショナリストは皆無だそうだ。上の世代では公民権運動が、下の世代ではアファーマティブ・アクションが白人ナショナリストになる主な契機である。これらポリティカル・コレクトネスを推進する政策は白人の自由をおびやかしており、言論統制であるととらえられている。それに加え、若者の場合は人間関係の不安定さも白人ナショナリズムに傾倒する理由になることがある。

 

果たして、自分たち白人は咎められ、赦しを請うだけの存在なのか。胸を張るべき伝統や血筋もあるのではないか。こうした感覚に個々人の経験が重なってナショナリズムに傾倒している場合が多いようである。若い世代では、友人や家族との関係が上手くいかず、社会的に孤立するなかで、オルトライトのオンライン・コミュニティなどに居場所を見出し、過激化してゆく場合も少なくない。(p118)

 

白人ナショナリズムのコミュニティに居場所を見つける人もいれば、逆に白人ナショナリズムと訣別する人々もいる、本書では、スキンヘッド系やネオナチ系の団体で活動していたティム・ザールの例を紹介している。ティムは17歳の夜、ハリウッドの路上で同性愛者の少年に暴行を加え、殺害したと信じて仲間とハイタッチを交わした経験を持つ。だがやがて結婚し、二歳半の息子が黒人をNワードで罵るのを見て衝撃を受けたザールは全米を旅行しつつ、次第に黒人やヒスパニック系とも親しくなっていったという。

その後ザールは白人ナショナリストの改心を促すために寛容博物館でボランティア活動をはじめるが、ここでかつて暴行を加えた同性愛者のマシュー・ボジャーと再会することになった。二人はしばらく気まずい関係に陥ったが、今はザールとボジャーは寛容博物館で一緒に活動している。まるで映画のような話だが、二人の和解と友情は実際にドキュメンタリー映画にもなっている。

ザールによれば、結婚や離婚、育児など人生の転機、年齢的には20代後半から30代前半頃が暴力的過激主義から目を覚ましやすい時期だ。ザール自身もこの時期に白人ナショナリズムから離れている。自分が活動していたころよりも今のほうがはるかに白人ナショナリスズムへの動員は容易だとザールは語っているが、「たとえ一人だけにでも変化をもたらすことができれば、自分の人生には価値がある」と信じて自分の経験を伝える活動を続けている。

 

ザールはトランプ氏の排外主義に批判的だが、同氏の支持者を「嘆かわしい(deplorable)人びと」と一蹴し、人種差別主義者、女性差別主義者、反同性愛者と結びつけるヒラリー・クリントンのようなリベラル派にも反撥している。「大切なことは人間を特定の属性ではなく、あくまで尊厳ある個人として捉え、共感を深めてゆくことです。それは政府が主導してうまくゆくものではありません」「相手を説教しようとしてはいけません。私の場合は「自分ですら変われたのだからあなたも変われる」と励ますようにしています」。(p170)

 

【感想】市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』

 

ユダヤ人とユダヤ教 (岩波新書)

ユダヤ人とユダヤ教 (岩波新書)

  • 作者:裕, 市川
  • 発売日: 2019/01/23
  • メディア: 新書
 

 

これを読んでいて、ユダヤ史についての知識に穴があることに気づいた。それは中世、とりわけイスラーム世界におけるユダヤ人についてだ。この本では4つの視点からユダヤ人とユダヤ教について解説しているが、1章の「歴史から見る」では「私たちの歴史認識からすっぽりと抜け落ちているのが、この中世イスラムにおけるユダヤ人とユダヤ教である」と指摘されている。

イスラーム世界において、ユダヤ人はバビロニアを中心に繁栄をとげ、とくに学問と交易の分野で活躍した。イスラームの法学はユダヤの法学に影響を与え、後ウマイヤ朝時代のスペインではユダヤ人の間にもイスラム法学や哲学、医学、言語学が浸透している。中世のユダヤ人には金貸しとしての活動や迫害を受けていたイメージがあるが、これは中世キリスト教世界におけるイメージであると本書では解説される。中世にはユダヤ人の9割がイスラーム世界に住んでいたのであり、この地では「啓典の民」であるユダヤ人は生命と財産を保護され、宗教的自治を認められていた。ユダヤ人が交易を得意としていたのも、広大なイスラーム世界の中で移動の自由を認められ、広域の商業ネットワークを作ることができたからでもある。

 

宗教としてのユダヤ教の特異性は、第二章「信仰から見る」で知ることができる。この章では、西暦200年ごろに編纂された口伝律法集「ミシュナ」の特色について解説されているが、この律法集には神殿供儀や祭日の規定、穢れの清め方など、狭い意味での「宗教」に該当する要素だけが含まれるわけではない。ミシュナには家族法を定めた巻や、日常生活のルールを定めた巻もある。ミシュナはユダヤ人が社会生活を営むためのルールも決めているのである。つまり、本書の表現を借りればミシュナは「持ち運びのできる国家」ということになる。国家を失い、世界中に離散したという歴史認識を持つユダヤ人にとって、世界のどこにいてもユダヤ社会を維持できる律法が必要だった。

 

ミシュナは人間は律法が教える現世の戒律に従っていればいい、と教えている。ミシュナはは天上の神の領域や終末論などについて思索する者は「あたかもこの世に生まれてこないほうがよかった」としているが、これはギリシャ哲学の影響からユダヤ人を守るためと解説されている。第3章「学問から見る」では、ギリシア哲学の形而上学的思考はユダヤ人を大いに魅了したと書いているが、ラビたちがギリシア哲学を拒絶するために示した決定がミシュナの規定に垣間見られるという。一時期はギリシア哲学にふれたユダヤの若者が割礼の跡を消そうとしたともいわれるが、結局ユダヤ人はローマ人のようにギリシアの文化に征服されることはなかった。ユダヤ人がユダヤ人としてのアイデンティティを保ててきた原因の何割かは、ミシュナにあるようだ。

  

原始仏教の最もわかりやすい入門書『ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』

 

 

1日、6時限かけて著者の授業を聞くという形式の原始仏教講座。内容はきわめてわかりやすい。ブッダの生涯を語る前に一時限目で仏教誕生以前までのインド史について解説しているのがポイントで、これを知ることで仏教の革新性がよく理解できる。

 

この本では、中央アジアに起源をもち、騎乗していて強い軍事力を持つアーリア人がインドへ侵入したところから授業をはじめている。アーリア人の独自の宗教観はカースト制度としてインドに定着し、征服された先住民族は「チャンダーラ」というアウトカーストに位置づけられる。カーストはすべて生まれで決まり、最上位のカーストであるバラモンには穢れがまったくない。下のカーストに行くほど穢れが多く、身体が接触したり、下位カーストの人が作った料理を食べることで穢れは伝染することになっている。しかも見ただけでも穢れがうつることになっているので、身分の異なる人々が衣食住や職業をともにすることはまずできない。このように生理的感覚で格差が決まってしまう社会に、「四民平等の宗教」として登場したのが仏教ということになる。

 

とはいっても、仏教だけが「四民平等」を主張したわけではない。ブッダの生まれた時代、血筋を重視するバラモン教を批判する宗教は仏教以外にもたくさんあり、これが時代の潮流だったようだ。これらの宗教を「沙門宗教」とよぶが、沙門とは「努力する人」という意味だ。安らかな境地、仏教における真の幸福は努力次第でどんな人でも得られると主張したところに、仏教の画期性があった。古代インドはカースト制度が宗教によって成り立っていたため、身分格差をのりこえるには社会ではなく宗教を改革しなくてはならなかった。

 

もしカーストが神様などとは関係ないただの社会制度だったら、お釈迦様は社会改革をしたかもしれません。しかし、インドの場合は制度そのものが宗教の上に乗っていたので、それを否定するためには、新しい宗教を作るしかなかったのです。ここに仏教という宗教の生まれてきた理由と本質があります。(p39)

 

原始仏教には神がかった要素は何もない。ブッダはもともと悩める一人の人間であって、老病死という避けがたい苦しみにどう対処すればいいのか悩みぬいて、王族の地位を捨て出家した。6年間も苦行を続けたのも、まずは自分が救われたかったからだ。悩める人を教え導きたいなどという余裕はない。なんらかの神通力を授かっているわけでもない。とにかく生きているのがつらく、そのつらさをどうにか乗り越えたいと苦しんだ末にたどりついたのが悟りの境地だった。仏教は人を救えるほど余裕のない人のための教えであることがよくわかる。

 

もともとお釈迦様は自分が苦しくてたまらず、やむにやまれず出家したのです。「よし、新しい宗教を作って民を救済しよう」などというつもりで出家したのではありません。家柄、身分、血筋や財産といった、みせかけの飾りつけではあらがうことのできない、究極の苦しみに身もだえし、そこから何とか抜け出そうという必死の思いで俗世を捨てたのです。

ですから艱難辛苦の果てに目的を達成したときはホッとして、自分の苦しみは終わった、あとはこの安らかな状態で寿命がくるまで淡々と生きて、淡々と死んでいこうと考えたのです。「世のため人のため」という思いはまったくありませんでした。

 

このようなブッダの姿は、他のどの宗教の開祖よりも身近に感じられる。だがブッダの人生はここで終わらない。梵天ブラフマー)に頼まれ、人々の苦しみを救うために布教をはじめ、教団を作ることになった。本書によれば、この時点で仏教は自己救済の教えから慈悲の宗教へと変わったことになる。

 

仏教の組織サンガ(僧団)は、ブッダとその弟子5人からはじまった。このサンガを作ったことが、本書ではブッダ最大の功績とされる。サンガは修行一本に打ち込むために托鉢によって維持されるが、これによって他者に生かされているという謙虚さを養えるとされる。それぞれのサンガは「インターネット形式」でどれもフラットな関係性であり、そこにヒエラルキーは存在しない。だからサンガに入ることで偉くなりたい、人に勝ちたいという煩悩から解放されることになる。この本によればこの形式の仏教はスリランカや東南アジアで今でも残っているそうだが、それだけブッダの考えたサンガの仕組みがすぐれているということなのだろう。

 

原始仏教の内容とは少しずれるが、この本では「日本的サンガ」の必要性を説いている箇所がある。たんに修行したい人のためだけでなく、生きづらさを抱えた人の受け皿としての僧団があるべきではないか、ということだが、書店に多く出回っている仏教関連の本を読むだけでは生きづらさを十分には解消できない、と著者は考えているようだ。仕事をしながら生きるよすがとして日々の生活の中に仏教を取り入れるやりかたを「ナイトスタンド・ブディスト」と呼ぶそうだが、ナイトスタンド型では自己鍛錬が十分にできず、なにより社会に居場所がないと感じている人を救うことはできない。現代の駆け込み寺を作るのは困難が伴うだろうし、著者もそのような組織が立ち上がることを期待するのみだが、やはり俗世間から距離を置かなければ本来の仏教は実践できないのだろうか。

【感想】天野純希『燕雀の夢』

 

燕雀の夢 (角川文庫)

燕雀の夢 (角川文庫)

 

 

織田信秀武田信虎松平広忠など「英雄の父」を主人公とした短編集。6つの短編はどれも読みごたえがあるが、中でも『虎は死すとも』と『楽土の曙光』の二編がとくに印象に残った。

 

『虎は死すとも』はタイトル通り武田信虎の物語だが、この短編は甲斐を追放されたのちの信虎の後半生を描いている。当主の地位を失い、何の権力ももたない信虎がそれでも政治への執着を捨てることができず、今川家に赴いて調略のまねごとをしてみたり、京で将軍家の争いにかかわってみたりする姿は滑稽ではあるもののどこか憎めない。当主としてかなりの器量を持っていたはずの信虎が、その地位を失ってみると今度は息子の信玄が眩しくみえる。最後までもがいてはみたものの、信虎の後半生には何もいいところがない。英雄になりきれなかった男の悲哀がここにはある。

 

『楽土の曙光』の主人公は家康の父・松平広忠。あまり小説の主人公になることのない男にスポットを当てたこの作品も、独特の味がある。広忠の生涯は、かんたんに言えば今川義元織田信秀とのはざまで苦労し続けた人生だった。知名度が高いとは言えないこの男にも、竹千代を信秀にさらわれても今川陣営にとどまるくらいの意地と度胸はあった。一代の風雲児だった父・清康には及ばないとしても、苦境にあって松平家をどうにか存続させた広忠にも一定の器量はあったように思える。いや、そもそも男が一代で何をなせるかは、器量だけで決まるわけではないだろう。家康が広忠の立場であったなら、どれほどのことができただろうか。結局、弱小の一領主として苦労し続ける人生だったのではないか。広忠はあまりに早く父を失い、家臣すらも周囲の大勢力に通じているという不利な状況のなかで、懸命に生きた。この作品における広忠の最期には虚しさを覚えるが、家康に松平家を託したことだけでも意味のある生だったといえるだろうか。

 

最後の作品となる『燕雀の夢』は秀吉の父・木下弥右衛門を主人公としている。弥右衛門は上昇志向の強い男として書かれていて、その意味では秀吉ともよく似てはいるのだが、この男もまた英雄になりそこねた男だ。小豆坂の戦いで傷を負って以降の弥右衛門の人生がどうなるか、それは本編を読んで確かめてほしいところだが、この男の後半生には独特の苦みがある。出世を夢見つつも何物にもなれなかった弥右衛門を秀吉がどう扱うかも見どころで、ここに秀吉のしたたかさと恐ろしさがよく表れている。弥右衛門はこの短編集の主人公のなかではもっとも小粒な人物で、それだけに大出世した秀吉との対比が際立つのだが、凡庸な人物が身の程を知ったあとどう生きていくかというテーマも本作には見え隠れしている。

 

【感想】宮部みゆき『ぼんくら』の善人描写の巧みさについて語る

 

ぼんくら(上) (講談社文庫)

ぼんくら(上) (講談社文庫)

 

  

ぼんくら(下) (講談社文庫)

ぼんくら(下) (講談社文庫)

 

 

いまさら言うまでもなく、宮部みゆきはすぐれたミステリ作家だ。だからもちろん『ぼんくら』も江戸ミステリとして楽しく読み進めることができる。貧しくも平和な鉄瓶長屋を大いに騒がした、八百屋の太助の殺人事件。そして突然姿を消す人望篤い差配人・久兵衛。さらには次々と失踪する店子たち。読者はぼんくらな同心・井筒平四郎とともにこれらの謎を追いかけることになる。頭脳明晰な少年・弓之助や記憶力抜群の三太郎などに助けられつつ、鉄瓶長屋を襲った災難の謎が解きあかされていく過程で、読者は宮部みゆきの手練の技を堪能できる。

 

だが、『ぼんくら』はたんにミステリとして面白いからよい、というわけではない。宮部みゆきはいい人を書くのがうまい、といわれることがあるが、その技はこの『ぼんくら』において極まっている。この作品自体が宮部みゆきの「善人コレクション」といった様相を呈しているのだ。宮部みゆきの書く善人は、バラエティに富んでいて、リアルな息遣いが感じられる。もちろん絵空事の世界の話であるにせよ、こういう「いい人」はどこかにいそうだ、と思わせてくれる。『ぼんくら』は確かなリアリティのある善人たちがくりひろげる群像劇、としても読むことができる。

 

『ぼんくら』に登場する善人たちのリアリティはどこから来るのか。この作品においては、それぞれの人物のかかえる欠落が、その人の善性を形づくっている。ここに宮部みゆきのキャラクター造形の妙がある。たとえば鉄瓶長屋の顔である煮売屋のお徳は、一番わかりやすいタイプの善人だ。親切で人情家で、気性もしっかりしているので長屋の住人からは頼られる。感情的になりやすいが、気持ちの切り替えも早いのでそこが欠点というわけではない。

お徳の欠点は、「世間」の外側にいる人間には冷たいことだ。お徳は彼女の考える「世間」、つまり鉄瓶長屋のまっとうな住人と彼女が認めた人間にはやさしいが、佐吉のような新参者の差配人や、おくめのような遊女には冷たい。若すぎるので鉄瓶長屋の秩序を乱す(とお徳が考える)佐吉や、おくめのようにまっとうな仕事をしていない者は、鉄瓶長屋にふさわしくないとお徳は考えている。お徳の世界では何が正しく、何が間違っているかがはっきりしていて、間違っているものにはお徳は容赦がない。

 

お徳に嫌われているおくめもまた善人だ。おくめのいいところは、お徳にくらべると少しわかりにくい。なにしろ春をひさぐものだけに貞操観念が欠けている。お徳の旦那が昔よく自分のところに来ていたことを、本人の前で言ってしまう。だがこれは意地が悪いのではなく、ただおくめが世間の外側で生きていて、倫理観が少しずれているというだけだ。お徳にはさんざん辛辣なことを言われているのに、おくめは具合の悪くなったお徳の看病をしている。おくめは自分の道徳観念がゆるいかわりに、他人が向けてくる悪意にも寛容だ。お徳は後に借りを返すという言い訳をしつつ、おくめに煮売屋の商売を教えることになるのだが、これはお徳がいったん「世間」の中の人と認めた相手にはやさしい証拠でもある。

 

そして、本作の善人代表は主人公、「ぼんくら」の井筒平四郎だ。平四郎は自分を事件の捜査には向いていないと考えている。穏健な生活保守主義者の平四郎は、物事の真相を暴くことが好きではない。およそ殺人の推理などするような柄ではないのだ。同心なので仕方なく仕事はしているものの、自分が適役でないことをよくわかっている。

 

そのとおり、なんだか急に気が滅入ってしまったのだ。クサクサしてしまったのだ。どうしてまた鉄瓶長屋でこんなことが起こったんだろう。人殺しを捕まえるだの、隠し事を暴くだの、平四郎に向いている仕事ではないのだ。平四郎は、知らないことは知らないまま、聞かないことは聞かないまま、わからないことはわからないままにしておくのが好きなのだ。(p65) 

 

平四郎の善性は、怠惰で面倒なことが嫌いだ、というところから来ている。罪人に説教したり、誰かが泣きわめくところを見るのも好きではない。平四郎は「やっちまったにはやっちまっただけの理由があるもんだ」という人間観・犯罪観をもっているので、この事件の加害者の目星がついてもむしろ加害者側に同情している。平四郎はお徳の嫌っていたおくめにも同情的だが、お徳のように白黒をはっきりつけられる性格でないからこそ、おくめにも優しくできる。同じ善人であっても、お徳とおくめと平四郎ではそのタイプが全く違っているところが面白い。お徳は完全に世間の内側の住人、おくめは世間の外側の住人で、平四郎は両者の間をふらふらとしている。お徳にもおくめにもそれぞれの事情があることを平四郎は知っていて、だからこそどちらの肩も持たない。平四郎が「ぼんくら」なのは、消極的な優しさの表れだ。

 

それでも弓之助の助けを借りつつ、やがて平四郎は事件の真相を知ることになる。一連の事件を引き起こした人物にも言うべきことは言う。不幸になった者たちの気持ちも代弁する。だが、平四郎は真相を己の胸の中におさめ、世間に知らしめることはしない。すでにできあがった日常を壊すことを望まないからだ。これ以上傷つくものを増やさないという点からみれば、平四郎の消極性は美徳になる。平四郎は積極的に善をなすものではないが、世間の秩序を保つためによけいなことを言わないでおく知恵はもっている。それだけに、本作の最終章のタイトル「幽霊」は読者に強い印象を残す。平四郎の知恵によって、もうこの世にいないことにされた人物が少しだけ姿を見せるこの最終章は、世間の秩序に対する精いっぱいの復讐のようにも思える。この章に至っても、お徳がどこまでも世間の側から「幽霊」と対峙しているのに対し、平四郎の態度は最後まで曖昧なままだ。鉄瓶長屋の住人の持つそれぞれの善性は、ラストまで変わることはない。このようなキャラクターの一貫性も、この作品を安心して読み進めていける理由のひとつでもある。

呉座勇一氏による明智光秀の人物評が『明智光秀と細川ガラシャ 戦国を生きた父娘の虚像と実像』で読める

 

明智光秀と細川ガラシャ (筑摩選書)

明智光秀と細川ガラシャ (筑摩選書)

 

 

四人の著者が明智光秀ガラシャについて論じている本。第一章の『明智光秀本能寺の変』では、呉座勇一氏が明智光秀の生涯を論じている。83ページほどの内容だが、これを読めば明智光秀についての最新知見が得られ、おぼろげながら彼の人物像も見えてくる。簡潔で読みやすく、光秀について知りたい読者は得るところが多い論考になっている。

 

光秀には「古典的教養にすぐれた保守的な常識人」といったイメージがあるが、光秀が伝統や権威を重んじていたことを明確に示す一次史料はない、と呉座氏は指摘している。むしろ一次史料からは光秀の別の一面がみえてくる。この論考のなかで、呉座氏は東大寺興福寺の戒和上の座をめぐる争いについての光秀の発言に注目する。この争いについて、東大寺は古文書や『東大寺要録』を証拠として集めていたにもかかわらず、光秀は132年前の文書は証拠として認められないと一蹴した。光秀は信長上洛の二年前に当たる永禄九年よりも古い文書は採用しないとも言っているが、つまりは織田権力以前の権力者が出した裁定は無効なのだ、という主張だ。ここに、伝統的権威を尊重する姿勢は認められない。130年にわたって興福寺がずっと戒和上を務めているのだから興福寺が正しい、という主張は実力主義の肯定だ。これは光秀というよりは信長の統治姿勢だろうが、光秀は信長のやり方に忠実だったということになる。

 

さらに、比叡山焼き討ちの十日前に光秀が和田秀純に出した書状にも言及している。この書状には仰木を「撫で斬り」にするとの一文がみえる。つまりは皆殺しにするとの宣言である。光秀が比叡山焼き討ちに反対したという証拠は一次史料にはなく、かえって「手段を択ばぬ残酷さ」が見てとれる、と呉座氏は書いている。

比叡山焼き討ちの後、信長は光秀に近江国志賀郡を与えているが、これはほぼ大名に等しい地位を与えたことになる。ここまで出世するのは「積極的に焼き討ちを行った光秀への論功行賞に他ならない」と呉座氏は指摘する。とはいっても光秀はたんに残酷だったわけではなく、比叡山周辺の有力武士への調略も評価されただろうと呉座氏は推測しているが、結局光秀と信長は相性が良かったのだろう。信長に忠実だったからこそ、光秀は中途参入組にもかかわらず異例の出世を遂げた。

 

元亀四年二月に義昭が挙兵した時、光秀はただちに義昭方の鎮圧に動いた。義昭と信長の争いであれば信長が有利であり、信長に属した方が立身出世の可能性が拓けている。そうした冷静な判断が働いたのだろう。そこから浮かび上がるのは、穏和な常識人ではなく、進取の気性に富んだ野心家としての光秀の姿だ。(p48)

 

明智光秀の「進取の気性に富む」一面としては「家中軍法」を定めた点があげられる。本稿でもこの軍法にふれているが、軍法も軍役規定も存在しなかった織田家中において、光秀ははじめて軍役の定量化をはかった。知行100石につき6人の兵士を出すこの規定を呉座氏は「人格的な結びつきに依拠して軍事動員を行う室町幕府的なあり方から五歩踏み出したという意味で、織田政権の中では画期的な試み」と評価する。光秀は近世封建制の萌芽ともいえる軍役システムをつくったわけだから、その光秀が室町幕府体制の復活をめざすため本能寺の変を起すことはないのではないか、という見解も示される。こう見てくると、やはり光秀が信長よりも保守的で常識人だった、と評価するのはむずかしそうだ。

 

なお、『老人雑話』には光秀のいい人ぶりを示すエピソードが紹介されている。

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