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綾辻行人は館シリーズしか読んだことがなかったが、どちらかというと本格ミステリよりもこういうホラーというか、超常現象を含んだ内容のほうが好きだ。
というわけでこの『Another』、最後まで非常に楽しめた。
3年3組を包んでいる「死」の秘密が最後までわからないところもかえって余韻を残すし、こういうのはむしろわからないほうが読者に想像の余地があっていいのではないかと思っている。
しかし僕が本作を読んでいてずっと考えていたのは、そうした謎解きの部分ではなく、この作品で主人公が受ける「いないもの」としての扱いについてだった。
3年3組に取り付いている「死」を防ぐにはどうすればいいのか?
主人公の転校してきた夜見北中学3年3組では、何故か毎年多くの人死にが出る。
生徒だけではなく教師や生徒の二親等以内の人間までが死に巻き込まれる。
そんな事態が26年も前からずっと続いている。
3年3組における連続死は、まずこのクラスの人数が知らぬ間に一人増える、というところから始まる。
増えたことだけはわかるが、増えた一人が誰なのか、なぜか誰にもわからない。
増えた当人ですら、自分が本来はそこにいない人間だと気付いていない。
しかし、増えたということだけはわかる。その時点から毎月、3年3組の周囲では次々と不自然なほどに死ぬ人物が増えていく。
そのようなことを繰り返しているうちに、次第にこのクラスから人死にを出さない方法が編み出されてくる。
その方法というのが、クラスの中のある人物を「いないもの」として扱うという方法だ。
不自然にクラスの人数が一人増えてから連続死が始まるのだから、それを防ぐためには誰か一人をこの世に存在しない者として扱えばいい。
そのために、主人公が転校してきた時点で、すでに「いないもの」として扱われている人物がいた。
それがヒロインの見崎メイである。
「この世に存在しない者」として扱われるということの自由
ストーリーが進むと、主人公はある事情からメイとともに「いないもの」としての扱いを受けることになってしまう。
「いないもの」に認定されると、その名の通り、誰もその人物には話しかけてこない。
この世に存在しない人間なのだから、教師も授業中に指名したりすることはない。
皆にその存在をスルーされてしまうことになるのだ。
授業中に外に抜け出したり、遅刻したりしてもそれを咎められることはない。
この世に存在しないはずの人間なのだから、「いないもの」を注意してはいけないのだ。
「いないもの」認定された人間は3年3組の教師やクラスメイトと合意した上でその役割を引き受けているので、教師も嫌な役割を押し付けたという負い目から好きにさせているということもあるのだろう。
ある意味クラス全体からシカトされているのと同じ扱いなのだが、これは悪意によるいじめとは異なる。
あくまでクラスに降りかかる惨劇を防ぐための仕方のない措置なのだ。
この「いないもの」としての扱いを当然、主人公もいいとは思っていないのだが、慣れてくるとそこにある種の「自由」を感じるようにもなっていく。
授業を抜け出してメイと会話することもできるし、図書室で調べ物をすることもできる。
体調が理由で体育の授業はいつも見学だが、律儀に見学していなくても文句は言われない。
彼に話しかける者もいないが、邪魔する者も誰もいないのだ。
自分としても読んでいて、主人公の享受している「いないもの」としての立場が、少し羨ましくなった。
もっとも、そんなことをしている間にも次々と死ぬ人物が増え続けているのだから、本来は羨ましいなどと言えるものではないのだが……
皆から存在しない者として扱われるということは、クラスの派閥や人間関係のしがらみから完全に自由でいられるということでもある。
それは人付き合いの好きな者からすれば地獄のようなものかもしれないが、これは生徒の個性によってはある種の「救い」をもたらすものではないだろうか。
何しろ「いないもの」に認定されれば、空気扱いとなるが、積極的に迫害を受けることもないのだ。
むしろこの立場を、積極的に選べるものなら選びたい人だっているのではないか?
ヒロインの見崎メイもまた、人付き合いに煩わしさを感じるという性格から、ある程度自主的に「いないもの」としての役割を選び取ったような風がある。
あの頃、私達は一人になりたかった
実はこの点が、この作品の隠れた魅力にもなっているのではないかと思う。
思春期とはとかく感情が過剰になりやすい時期で、それだけに人付き合いの摩擦も大きい。
自分の中学時代を振り返っても、とかく感情が逆立つことが多く、部活動での人間関係にいつも疲弊していた。
一人になりたい、と思っているのに、一人になれる場所は校内にはどこにもなかった。
ところがこの作品では、皆が自分のことを「いないもの」として扱ってくれるのだ。
「いないもの」になれば、人間関係の軋轢からも、教師の圧力からも完全に解き放たれる。
学校生活におけるストレスの原因から自由になれるのだ。
こちらに干渉してくる者もなく、面倒事に巻き込んでくる者もいない。
この透明人間のような生活に、密かに憧れる人は少なくないのではないだろうか。
もちろん、主人公が「いないもの」としての生活をそれなりに享受できているのは、見崎メイという対話の相手が存在し、二人の間にある種の甘やかな共犯関係が結ばれているからでもある。
しかしそうした関係性がなくても、時に「いないもの」として扱われたいという人だっているはずだ。
自分の存在が多くの圧力に晒され、生き辛いと感じている人なら特に。
「関係性の死」が人を自由にする
主人公や見崎メイが味わっている境遇は、いわば擬似的な「死」だ。
人間は社会的動物なので、関係性から切り離されることでその人物は社会的には「死ぬ」。
しかし、人間を殺しにかかるのもまた関係性なのだ。
虐めがその極北だが、人間関係における過剰な軋轢は時に人の命まで奪う。
そうなるくらいなら、いっそ社会的な関係性を一切断ち切り、「いないもの」になりたい、という願望が芽生えても不思議ではない。
虐められて死にたいと考える人は、生命体として死にたいわけではない。
そのような関係性から自由になりたいのだ。
そこまで行かなくても、人は時にいつも身を浸している人間関係をリセットし、あらゆる関係性から解き放たれてみたくなる。
この作品の底にたゆたっている不思議な魅力は、そうした願望を叶えてくれるところから生まれてくるものではないだろうか。
たまに都会に旅行に行くと、この中に自分を知っている人が誰もいない、ということに心底ほっとすることがある。
群衆の中に紛れることで、人は匿名の存在になり、ただの無個性な個としてそこに埋没することができる。
普段のしがらみが多ければ多いほど、そこでようやく息をつけるような気分になれるような気がする。
大袈裟にいえば、人は時折関係性から自分を切り離し、社会的に死んで見せることで、ようやく生き返ることができるということかもしれない。