明晰夢工房

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【感想】『ビジュアルパンデミック・マップ 伝染病の起源・拡大・根絶の歴史』

 

 

ジフテリア天然痘コレラマラリア・ペスト・梅毒など、人間を苦しめてきた数々の伝染病の歴史を図解で解説している本。見開き2ページの地図で、それぞれの伝染病がどの時代、どの地域で流行していたかが一目でわかる。

 

どの伝染病も患者に肉体的ダメージを与えるが、同時に差別という社会的ダメージも与えてしまう。とりわけ患者が差別的に扱われてきた伝染病といえばハンセン病だ。だがハンセン病の解説をみてみると意外なことがわかる。もちろんハンセン病患者の多くは差別を受けているのだが、いつでもそうだったわけではない。

たとえば、12世紀のイングランドでは、ほとんどのハンセン病患者が修道会や療養所で手厚い看護を受けることができたと指摘されている。だが、のちにイギリスでもこの風潮が変わり、14世紀にはロンドンから患者を追放するという法令が出された。この背景には、人々がある程度の免疫を獲得してハンセン病が下火になったことがあげられている。感染症が「他人事」になると、感染症の患者は差別されやすくなる。

 

一方、社会的なイメージは悪化しない伝染病もある。結核がそうだ。日本では「文士の病」みたいなイメージがある結核だが、19世紀前半でのヨーロッパでもこれは変わらない。本書によれば、ヨーロッパではこの時代の結核は「ファッションや好みにこだわる粋人がかかる死病」であり、一種のステイタスになっていたという。

結核は容貌を醜く変えることがないので、結核患者はむしろ高貴で悲劇的なイメージをまとうことになる。バイロン結核で死にたいものだとつぶやいたことがあるという。だが、実際にはロマンチストの詩人よりも肉体労働者や洗濯女たちがより多くかかる病気だった。

 

取り上げられている感染症の中でも古くから流行しているのはペストだ。記録に残っている最初のペスト流行は東ローマ帝国時代のもので、「ユスティニアヌスのペスト」と名付けられている。紀元541年にコンスタンティノープルではじまったペストの流行は、ペルシャから南ヨーロッパにまで広がり、世界の全人口の33~40%もの人々の命を奪ったといわれている。

14世紀に「黒死病」とよばれたペストが大流行を起こしたことはあまりにも有名だが、本書を読むとその後も何度も流行を引き起こしていることがわかる。17世紀のロンドンのペスト大流行では、1週間で7165人が亡くなっている。このときロンドン市長は市内にとどまり、患者に食事を与える代わり外出を禁じているが、自粛と補償をセットにした前例といえるだろうか。結果、ロンドンでは多くの犠牲者が出たものの、ペストをロンドン市内に封じ込めることにはほぼ成功した。このとき富裕層の多くはロンドンから逃げ出しているが、これは感染症が社会格差を浮き彫りにする一例でもある。

 

新型コロナウイルス武漢ウイルスと呼ぶべきだ、という声があるように、感染症の名称には政治が絡んでくる。インフルエンザの項をみてみると、1918年に流行したスペイン風邪は、実は最初にスペインで起こったわけでも、スペインで猛威を振るったわけでもないことがわかる。なのにスペイン風邪と呼ばれているのは、このような理由だ。

 

こう呼ばれた背景には第一次世界大戦がある。参戦国それぞれで厳しい情報統制が敷かれ、士気の低下につながるような情報や、国としての弱みをさらす報道は封じられた。中立の立場を保っていたスペインは、こうした情報統制はなかったのだ。(p28) 

 

世界大戦が起こっているさなかに疫病が大流行するのは悲劇以外の何物でもない。情報が隠蔽され、各国が協力してウイルスに立ち向かうことができなくなる。新型コロナウイルスの流行は人命にも経済にも大きな打撃を与えているが、いま世界戦争が起こっておらず、世界中でウイルス対策の情報が共有されていることは数少ない希望のひとつでもある。