明晰夢工房

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白起の最後の台詞と史記の因果応報論

 

 

陳舜臣『中国の歴史』2巻を読み返している。この巻は諸子百家の活躍や始皇帝の中国統一、項羽と劉邦の対決、漢と匈奴の戦いなど古代中国史のハイライトを描いているので、読みどころが多い。なかでも強く私の記憶に残っているのは、秦随一の名将・白起の運命について書いた個所だ。この巻では、白起の最後の台詞とされるものが紹介されている。

我、固より当に死すべし。長平の戦に趙の卒の降れる者数十万、我、詐りて尽く之を坑したり。是れ死するに足る。

長平の戦いにおいて、白起は降伏した趙の兵卒四十五万人を穴埋めにした。趙兵がいつ裏切るかわからないと判断したからである。赫々たる武勲をあげながら秦王の怒りを買い、自決を迫られたのは、この罪のためである──と、彼はみずからに言い聞かせたのだ。

 

この白起の台詞について、陳舜臣は『まだ仏教が到来する前の時代ですが、宗教観というよりは、倫理観としての「因果応報」の思想はありました』と解説している。白起は多くの戦いで巨大な戦功を立て、武安君に封じられるほどの権勢を誇った。だがやがて彼は戦争の方針について昭王と対立するようになり、最終的には自決させられることになってしまった。死の直前、白起はこの因果応報論にもとづき、自分には死ぬべき理由があるのと考えたのだ。

 

長平の戦いは、戦国七雄の中で秦が抜きんでた存在になることを決定づけた戦いといわれる。かなり激しい戦いだったようだ。そうはいっても、この戦いで四十五万人もの趙兵が失われたとは信じがたい。しかし、白起が悔いているくらいだから、やはりかなりの数の兵士が殺されたのだろう。死の直前になって、白起が自分が死すべき理由としてこの戦いを想起するのは、それだけ悲惨な戦いだったからだ。少なくとも白起自身はそう認識していた。

 

因果応報論はひとつの物語である。死を目前にした白起は、そんな結末を迎える理由を長平の戦いに求めたが、実際はどうだったのか。この本における陳舜臣の推測はこうだ。

武安君に封じられて以来、白起の権勢が強くなりすぎたのでしょう。軍隊を掌握している大功臣は、君主にとっては気になる存在です。しかも、在位五十年に及ぶ昭王は、かなりの高齢でした。自分の在位中は、白起をおさえる自信はあったでしょう。けれども、自分亡きあとのことを考えると、不安をかんじたはずです。帝王教育を施した長男の太子が死に、次男の安国君がくりあえられました。この安国君は正式に即位して三日で死にましたが、まえから病弱であったのかもしれません。軍隊をうごかす力をもつ大物を、いまのうちに消しておけば、いくらか安心できるでしょう。白起の哀れな死の真因は、おそらくこのあたりにあるとおもわれます。(p210)

つまり白起は秦の王権を安定させるため排除された、というのである。これもひとつの物語ではあるが、「長平の戦いで多くの兵士を殺したから」よりはずっと説得力がある。もっとも白起には、自分が秦の脅威になっている自覚はあったかもしれない。そうだとしても、白起にとっては「長平の戦いで多くの兵士を死なせたから死ぬのだ」のほうが、より受け入れやすい結論だっただろう。長年昭王に仕え、彼のため力を尽くしたのに、その昭王に邪魔にされているなどとは、白起は考えたくなかったのではないか。

 

陳舜臣は、この白起の最期に学んだのが王翦だ、と推測している。王翦は白起と並び称される名将だが、立ち回りは白起よりはるかに慎重だった。楚に出兵する前、六十万の大軍を与えられた王翦始皇帝に野心を疑われないよう、美田や邸宅を賜りたいと願い、小人物と思われるよう腐心した。これが功を奏したのか、王翦始皇帝に猜疑心を向けられることはなく、天寿を全うすることができた。

この王翦に対し、司馬遷の評は手厳しい。始皇帝に師と仰がれたのに徳治をすすめることもなく、ただ調子をあわせるだけだったから孫の王離は項羽の虜にされたのだ、というのだ。ここにも古代中国の因果応報論が顔を出している。陳舜臣はこの司馬遷の評価は「いささか酷」だとしている。始皇帝に調子を合わせたからこそ、王翦は生きながらえることができたのだから。ただ生きるより正しく生きることが大事なのだと言われても、その正しい生き方が報われるとも限らない。だからこそ司馬遷は伯夷叔斉伝を史記列伝の最初に置き、天道是か非か、と問うた。仏教が独自の論理で司馬遷のこの問いに答えるのは、東晋の時代に入ってからのことになる。

 

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