明晰夢工房

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ツッコミ過多の社会では「なんもしない」人の価値が高まる『レンタルなんもしない人の"もっと"なんもしなかった話』

 

 

マキタスポーツ氏が『一億総ツッコミ社会』で、誰もがプチ評論家と化した世の中の息苦しさを分析したのは2012年のことだ。あれから11年が経ち、令和の日本ではますます社会の総ツッコミ化が加速しているように思える。SNSではいつもどこかで火の手が上がり、誰かの発言が燃えている。私も含めて、常時誰かが誰かを論評し、批判し、ジャッジしている。それはマスコミにしか発信力がなかった時代よりはいい社会なのだろう。誰にでも発言権があるのはいいことだ。だが個人のツッコミはいつでも強者や巨悪に向かうわけではなく、大した落ち度もない一個人へ過剰に向けられることもある。発言の自由は、誰かに燃やされるリスクと隣り合わせになった。

 

こんな時代に価値を持つのは、どんな人なのか。もちろん、デマやフェイクニュースに的確に突っ込む人は必要だ。だが一方で、一切こちらを批判せず、ツッコミも入れず、ジャッジを下さないでいてくれる人がいたら、かなり安心できるのではないだろうか。何かを積極的になす人だけに、価値があるわけではない。かんたんに人を叩ける時代には、それを一切しない人にも価値が出てくる。『レンタルなんもしない人の"もっと"なんもしなかった話』を読むと、「余計なことを一切してこない人が、ただそこにいる」だけのことにどれほどの需要があるのかがわかる。ツッコミ過多の社会において、余計なことを「なんもしない」人のありがたさを、「レンタルなんもしない人」(通称レンタルさん)をレンタルする人たちは味わっているようだ。

 

実際のところ、レンタルさんは本当に「なんもしない」わけではない。『レンタルなんもしない人の"もっと"なんもしなかった話』に出てくる依頼はさまざまで、彼は人に言えない話を聞いたり、ポケモンGOに同行したり、ジンギスカンの食べ放題に付き合ったりしている。あまり積極的なことはしないが、頼まれたことはやるのだ。ただそれ以外は本当に「なんもしない」。彼のような人相手だと、風俗で働いていてストレスを感じている人も、心穏やかに話ができるそうだ。なにしろレンタルさんは余計なアドバイスも上から目線の説教も一切「なんもしない」ので、言いにくいことも安心して吐き出せるらしい。

 

この本で、レンタルさんは自分のことを「全然善良ではなくむしろクズと言われるほうが多いです」と書いている。そういう人だから、いろいろな人の話をただ聞くことができるのだろう。立派な人ほど「人はこう生きるべき」という確固たる規範意識を持っていて、ついそれを人に押しつけたくなる。そうなると、とたんに人は心を閉ざす。「かくあるべし」が何もない人は、あらゆる人に対してフラットだ。手作り料理を食べてほしいというわりと普通の依頼も、複数の人格の相手をしてほしいというヘビーな依頼も、この本ではただこんなことがあった、と淡々と記されるだけだ。レンタルさんは「共感能力が乏しい」といっているが、だから依頼者に過剰に思い入れることもないのだろうか。さまざまな生きづらさを抱えた人からの依頼もけっこうあるようだし、依頼者にいちいち同情していたら、心がいくつあっても足りないのだろう。やはりこの仕事は立派な人には向かないようだ。

 

この『レンタルなんもしない人の"もっと"なんもしなかった話』を読んでいて思うのは、どこまで行っても人は社会的動物だ、ということだ。どれだけお一人様が増え、日本社会がソロ化しているとはいっても、時には誰かと一緒にいたくなるのが人間だ。この本に出てくる依頼には、何かするところを見守ってほしい、というものが多い。断捨離もミカンの収穫も野外での虫取りも、一人でしようとすればできる。でもこれを見守ってほしい人たちがいる。やはり一人はさびしい。でもやたらと干渉してくる人と一緒にいるのもしんどい。一人でいるときの気楽さと、誰かが一緒にいてくれる安心感という、一見矛盾する感情を同時に満たしてくれるのは「なんもしない」人だけだ。人間関係のわずらわしさを極限まで排した特異な関係性を築くことが、「レンタルなんもしない人」独自の強みといえるだろうか。実際、レンタルさんには依頼者からこんなDMが届いているそうだ。

一人で静かに考えたり現実から解放される時間が今の自分には重要だということがわかりました。一人だけど一人じゃない、一人にさせてくれる自分のための他人がいることはとても贅沢だと思いました。(p93)