明晰夢工房

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「信長の軍隊は兵農分離していたから強い」は本当?平井上総『兵農分離はあったのか』

 

 

「信長は特別な戦国大名」というイメージはいまだ根強く存在している。「特別さ」の要素のひとつとして、「信長の軍隊は兵農分離が進んでいたから強かった」というものがある。他の戦国大名は百姓を兵としているから練度も低く、農繁期には戦えない弱点があるが、信長はこの弱点を克服したというわけだ。信長だけが専業の兵士を率いて戦っていたのなら、確かにその点では優位性があるように思える。だが本当にそうだったのか。平井上総氏の『兵農分離はあったのか』は、この問題を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる一冊だ。

 

一口に「兵農分離」といっても、さまざまな要素を含んでいる。『兵農分離はあったのか』では、「兵農分離」を1.兵が農民から専門家へ 2.武士と百姓の土地所有形態の分離 3.武士の居住地の変化 4.百姓の武器所持否定 5.武士と百姓の身分分離の5つの要素に分けて考察している。戦国時代の軍隊が「兵農分離」していたのかを考えるとき、多くの人が気になるのは1についてだろう。百姓は兵として戦場に連れていかれていたのだろうか。この本の最終章ではこう書かれている。

 

戦国時代に、村に住む武士・奉公人が多かったことは事実だが、兵として動員するのは正規の武士・奉公人と軍役衆であった。百姓を臨時動員することもあったが、領国の危機の時だけであり、おもな戦闘員ではなかった。(p285)

 

どこの戦国大名でも、百姓を兵として動員することは基本的にはない。この意味においては「兵農分離」は達成されている。ということは、信長軍だけでなく、他の戦国大名の軍隊も農繁期に戦えることになる。事実、第三次川中島の戦いでは四月から九月まで武田軍と上杉軍が対峙しているし、北条早雲は八月や九月に甲斐に侵攻していることは西俣総生氏『戦国の軍隊』でも指摘されている。北条早雲(伊勢宗瑞)の時代ですでにこうなのだから、戦国大名の軍隊は早くから「兵農分離」していたと考えられる。

 

 

伊勢宗瑞は後北条氏の初代というだけでなく、幕府の役職などにこだわらずに、自力のみによって支配領域を形成していったという意味において、最初の戦国大名と評されることが多い。その宗瑞にして、農繁期・農閑期を選ばずに軍事行動を起こしているのだ。戦国大名の軍隊は、最初から農兵などに基礎を置いていなかった、と考えるしかあるまい。(p98)

 

百姓が本来非戦闘員だったことは、いくつかの史料から知ることができる。たとえば北条氏の天正十五年の動員令は珍しく百姓を兵として動員対象にしているが、「屈強の者を村に残し、弱弱しい人足のような者を提出するようなら村の小代官の首を斬る」と書かれている。村が武勇の者を出し渋っている様子がうかがえるが、これは事実上の徴兵拒否だと中世史家の藤木久志氏は見ている。百姓は戦場に行く場合は陣夫(兵粮などを運搬する人足)として働くのが普通であって、戦うのは武士の役目だから、屈強な者など出したくないというわけだ。北条氏の領内では陣夫の仕事すらも忌避されがちだったようで、夫銭とよばれる税を支払うことでこの役割を逃れた例もある。戦闘員ではない百姓は、なるべく戦場には近づきたくなかったのだろう。

 

軍隊の在り方だけではなく、5.の「武士と百姓の身分分離」という点から見ても、戦国時代には明確に兵と農は分かれている。『兵農分離はあったのか』の二章では、実際に戦場に行っていた人々の身分について考察しているが、ここで注目しているのが軍役衆だ。戦国大名は軍事力を強化するとき、百姓を武士に取り立てる。これが軍役衆である。軍役衆になった時点で身分が百姓から武士に移動し、出陣する義務を負うが、百姓が村に対して負担する税金や夫役などが免除された。軍役を負担する者は戦国大名の家臣に組み込まれるので、この点でもはっきり百姓とは区別されることになる。

 

ただややこしいのは、軍役衆は武士になっても村に住んでおり、土地から切り離されてはいない点だ。歴史教科書などでは「兵農分離」というとき、武士が城下町へ集住することも指している。これが達成されていない段階では、「兵農分離」の要素のうち2.武士と百姓の土地所有形態の分離 3.武士の居住地の変化を満たせない。この点から見れば、戦国時代には「兵農分離」が完全には達成されていなかったともいえる。「兵農分離」を単に軍隊の在り方から見るなら戦国時代でも「兵農分離」はしていたが、社会構造から見れば「兵農分離」できていない部分があった。

 

3.武士の居住地の変化については、信長が城下集住政策を進めたと評価される記事が『信長公記』に存在する。弓衆や馬廻安土城下に妻子を連れてきていなかったため、これらの武士120名の自宅を焼き払わせ、無理やり移住させたというものだが、これは従来「兵農分離」政策だと理解されてきた。だが『兵農分離はあったのか』五章では、こうしたやり方が信長家臣団全体に適用できると見るのは早計だと指摘されている。弓衆や馬廻は信長の身辺に付き従う者だから安土城下に集めたのだろうが、他の織田家臣はどうだったのか。再び本書の五章を読んでいくと、織田政権の重臣の大部分は安土城下には住んでおらず、それぞれの領地の城に居住していたことがわかる。荒木村重のように、妻子を居城の有岡城に住まわせていた武将もいる。織田政権が安土城下に武士を完全に集住させたわけではないから、信長が「兵農分離」を推し進めたといえるのかは微妙なところだ。

 

私たちは信長が全国統一一歩手前まで行っていたという結果を知っているため、どうしてもそこから歴史を見てしまう。それだけの大事業を成し遂げられたからには、なにか他の戦国大名とは違う先進的なことをしていたはずだ、と考えたくなる。その先進的な政策のひとつとして「兵農分離」があげられる、と黒田基樹氏は『戦国大名 政策・統治・戦争』のなかで指摘している。

 

 

現在でも通説的な評価とされているのが、天下人となった織田信長・羽柴(豊臣)秀吉は、他の戦国大名よりも先進性があり、それゆえ天下一統をすすめ、近世社会の扉を開けた、といったような理解である。(中略)信長・秀吉に対するそのような評価は、戦前からみられるから、これはまさに近代歴史学の展開に呼応したものであった。そして先進性を生み出す要素として、経済が措定され、とりわけ戦後になって、秀吉の「太閤検地論」が画期的とされたり、それが「兵農分離論」と融合されたり、さらに遡って信長の経済政策に画期性を見出そうとする見解などが生み出されていった。(p228)

 

だが戦国時代や織豊期の研究の進展により、こうした信長や秀吉の評価は変わってきている。『兵農分離はあったのか』の終章でも、「兵農分離をめざした政策はほとんどなかった」と書かれている。ではなぜ武士の城下町への集住など、近世において「兵農分離」といえる状況がかなりの地域で生まれたのか。この本では、「兵農分離」とは「現象」なのだ、と結論づけている。「兵農分離」の要素のうち、特に武士の城下町への移住については、環境要因でこれを説明しやすい。豊臣期以降は戦争が激減し、武士は城下町での仕事を多く求められるようになった。加えて京都や江戸への参勤の機会が増えたため、武士が自分の領地に住んで経営に専念するのは難しくなった。こうした状況が、結果として城下町居住という生活形態の変化を生んだ。信長や秀吉が「兵農分離」を志向しなくても、時代がその方向に動くことはある。歴史はつねに英雄たちが望んだ方向に向かうわけではない。