明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

ジャンル分け不能の怪作『絶対小説(講談社リデビュー賞受賞作)』が小説愛にあふれすぎていて最高だったので感想を書く

 

絶対小説 (講談社タイガ)

絶対小説 (講談社タイガ)

 

 

この小説を何と呼べばいいのだろう。

河童のような人間が出てくるから伝奇か。

いや、謎の肉食植物や四脚駆動のメカが登場するからSFか。

作品全体に漂う不穏な雰囲気はホラーっぽくもあるし、主人公とヒロインのまこととの軽妙なやり取りだけを取り出せばラブコメとも言える。

闇の組織ネオノベルとの駆け引きはサスペンスとも言えるし、作品全体がはらむ謎は一種のミステリでもある。

だが、これらの言葉は結局この『絶対小説』の断片を指すにすぎず、この作品全体を形容する言葉は、ちょっと見つけられそうにない。

『絶対小説』は、『絶対小説』という唯一無二のジャンルだ、としか形容のしようがないのだ。

それくらい、第1回講談社NOVEL DAYSリデビュー小説賞を受賞したこの作品は、様々なジャンルの魅力が溶け合った混沌とした作品に仕上がっている。 

 

これだけ奇妙で一筋縄ではいかない作品だが、この作品の通奏低音は、すがすがしいまでにストレートな小説への、そして創作行為への愛だ。

『絶対小説』の冒頭は、売れないラノベ作家の主人公・兎谷三為と、その先輩で売れっ子作家の金輪際との会話から始まる。

金輪際は、兎谷に百年前の作家、欧山概念の原稿を見せる。それを手にしたものは文豪の才能を宿すと噂される代物だ。だが、二人がこの原稿について言葉を交わすうち、いつのまにか原稿は失われてしまう。

 

その日以来、兎谷の冴えない日常は変わりはじめる。金輪際の妹を名乗る美人女子大生との出会いがあり、いくつもの顏をもつ彼女にふりまわされる日々が続く。どこまで信用していいかわからないヒロインと欧山概念の原稿を追ううち、兎谷の日常はしだいに非日常に飲みこまれてていく。

口調こそ偉そうだが要所要所で助けてくれる金髪ツインテールの占い師・女々都森姫愛子や欧山概念の原稿を狙っている「闇の出版業界人」、そして欧山を絶対の存在としてあがめる「クラスタ」の存在などなど、怪しげな連中が次々に登場し、一時たりとも兎谷に安息の日々を与えてくれない。読者はメメ子こと女々都森の強烈なツッコミに笑ったり、闇の出版業界人の手段を選ばないやり口に唖然としながらも、やがてあることに気づくだろう。それは、この作品の登場人物がみな、強烈に小説を愛しているということだ。

 

ラノベ作家である兎谷や金輪際は言うに及ばず、女々都森姫愛子のようなサブキャラも、この作品でははばかることなく小説への愛を語る。彼女は作家を志していた過去があり、だからこそときに兎谷にもきつく当たる。だが、彼女の言動の背景に小説愛があることがよくわかるので、その厳しさもまた小気味よい。いや彼女だけではない。闇の出版業界人も、クラスタのメンバーも、それぞれ歪んではいるものの、皆それぞれの形で小説を愛している。だからこそ、皆が手にしたものに天才的な才を授ける欧山概念の原稿を欲しがるのだ。欧山の力で人々の目を小説に向けさせ、「文芸復興」をめざすネオノベルの野望は明らかに狂っているのに、一読者としては支持したくもなってしまう。小説への偏愛が語られる世界ほど、活字好きにとって心地いいものはない。

そもそも、小説などを志すような人間は、皆どこか歪んでいるのではないか。現実が生きづらいからこそ、虚構の世界をつくりあげ、そこに人々を引きずりこもうとするのではないか。この作品の悪役ほど極端な形でないにせよ、小説に手を染める人間は何かしらの業を背負っているのだ。闇の出版業界人やクラスタのメンバーは、そのひとつの形にすぎない。金輪際や兎谷は、また別の形の業を背負っている。

本作には、作中作が何度か登場する。金輪際の『多元戦記グラフニール』や、兎谷の『偽勇者の再生譚』などがそうだ。これらの作品が、彼らラノベ作家の業が生みだしたものだ。この二作品はどちらもなかなかおもしろそうで、読んでいるとその全貌を知りたくなってくる。だが、実はこれらの作品にはある仕掛けがある。ネタバレになるので話せないが、最後まで読めばそういうことか、という深い納得と感動が得られるだろう。読者はこれらの作中作の使い方の巧さに舌を巻くとともに、著者の小説への深い思い入れに痺れるに違いない。これはビブリオマニアのための小説なのだ。

 

ラノベといえば、この『絶対小説』も、ある意味とてもラノベっぽい。終始のじゃ口調の女々都森姫愛子の台詞や、闇の出版業界人などの設定はラノベそのものだ。著者の芹沢政信がもともとラノベ出身なので当然といえば当然なのだが、この作品はそのラノベっぽさを逆手に取った作品ともいえる。くわしいことは語れないが、これらの設定がどういう意味を持っているのかを知ったとき、読者はいかにこの作品に深い小説愛が込められているかを理解するだろう。そして、物語構造の巧みさにも驚くに違いない。終盤で事の真相を知ったとき、私はしばらく呆然としてしまった。

それにしても、なぜここまでして、人は小説を生み出そうとするのか。虚構を求めるのか。著者は『絶対小説』の冒頭で、こう書いている。

 

この文章を読んでいる君は、幸福ではないはずだ。

なぜなら小説を読むという行為そのものが、現実から逃避するための、自らの境遇から目を背けんがために行われるものであるからだ。

では幸福を得るために、君は何をするべきだろう?

読むのではなく、書きなさい。

現生から受けた折檻によって醜く腫れあがった己が心を癒すために、ただひたすらに物語を紡ぎ、目に見える世界を虚構の色に染め上げるのだ。

文字の世界に魂を売り渡し、佇立する肉体を記述せよ。

それこそが真なる幸せに至る唯一の道。

すなわち──<絶対小説>である。 

 

ここには、現実とは別の世界を作り出さなくては生きられない者の哀しみが、簡潔に表現されている。小説を書くという行為は、自らを創造主にすることだ。おのが手で望むままにキャラクターを作り、物語を紡ぎ、世界の運命を記述するのはこのうえない悦楽だ。しかし、そもそも虚構を作り出す作業に没頭すること自体、その人が不幸である証拠ではないのか。現実が生きやすいなら、虚構など生み出す必要もないのだから。誰かに作家の才能が宿っているとして、それが発揮されるのは、現実がつらいからなのだ。

 

この『絶対小説』には、売れないラノベ作家である兎谷の口を通じて、ラノベ業界の世知辛い現実も語られている。そのため、この作品はある種の「ラノベ作家もの」としても読むことができる。何度も何度もプロットを練り、出し続けても編集からボツを食らい続ける兎谷の苦労は、おそらく著者自身も経験したものだろう。最近知ったのだが、著者は昨年、noteでこんなエントリを書いている。

 

note.com

 

一度ラノベ作家としてデビューしたものの執筆活動は思うに任せず、どうにかウェブで再起をはかろうとするもののラノベとはまた勝手の違う世界に戸惑う著者の苦悩が伝わってくる。報われる可能性が低いと知りつつ、それでも書き続けようという悲壮なまでの決意がここに綴られている。この雌伏の日々がなければ、『絶対小説』は生まれなかっただろう。それを手にしたものには天才的な才能が宿るという、文豪の原稿。ものを書く苦労を知っているからこそ、『絶対小説』のこのキーアイテムの設定を思いついたのだろうから。

著者の苦悩にははるかに及ばないだろうが、この私だってもっと人の心を揺さぶる文章が書けないものか、と悩むことはある。どれだけ私が熱意を込めて書こうと、ブログなど見向きもされないのが普通だ。この文章にしろ、どれだけ『絶対小説』の魅力を伝えられているか心もとない。そんな苦しみが、ときに傑作を生むことがある。著者のラノベ作家としての苦悩は、講談社リデビュー賞受賞という結果につながり、『絶対小説』という実を結んだ。このような作品を私の手に届けてくれた講談社には拍手を送りたい。講談者が著者に再デビューの機会を与えなければ、この作品が世に出ることもなかったのだから。

 

とはいうものの、一度鳴かず飛ばずの境遇に陥り、再デビューを賭けてこの賞に挑んだものの、なお敗れてしまった作家があまた居ることもまた現実である。ここまで苦しい思いをして、それでも書き続ける理由とは何なのか。この小説の冒頭に書かれているように、やはり生きづらさか。あるいは名誉欲か、お金のためか、それとも意地なのか。それは当人にすらわからないかもしれない。いずれにせよ、作家を志すからには、その人は書かずには生きられないのだ。ただ名誉やお金がほしいだけなら、他にいくらでもそれらを得る手段はあるのだから。

 

saavedra.hatenablog.com

 

『絶対小説』は、不思議なことにその読後感は『先生とそのお布団』にどこか似ている。これもまた、作家という書かずにはいられない生き物の業を描いた作品だ。お断りしておくと、『先生とそのお布団』と、『絶対小説』はまったく違うタイプの小説だ。前者がラノベっぽいガワで包んだ私小説のような作品であるのに対し、『絶対小説』は様々なジャンルの要素を闇鍋的にひとつの作品に盛り込んだ怪作だ。

だが、両者に共通しているのは、報われなかろうが書き続ける、という強い強い小説への執着であり、愛だ。作家になるべく書くという行為は、永遠に山頂に岩を運び続けるシジフォスの苦行にも似ている。『先生とそのお布団』の先生が言うように、それでも書き続けるものは尊い。それができるのは、小説に選ばれたものだけだ。どれだけ良い文章を書く能力があろうと、書くことへの執着を欠くものは作家であり続けることはできない。

 

『絶対小説』は、『先生とそのお布団』とはまた違う形で、小説賛歌をうたいあげている。この作品の登場人物が小説に向ける愛の形は、『先生とそのお布団』よりもどこかいびつで、しかし純粋だ。それゆえに、私のように現実より虚構を愛する者には、この作品は深く刺さるだろう。数多くの試練を経て、最後に主人公がたどりついた欧山概念の真実もまた、読む者の心をえぐる。小説という形でしか、この過酷な現実と切り結ぶすべを知らない人種は存在するのだ。これは、そんな不器用な人々へ向けた、418ページにわたるラブレターだ。これほどまでに奇妙な、しかし熱い小説賛歌を、私はほかに知らない。小説を愛するすべての人に、一読をおすすめしたい。

【書評】岩波新書シリーズ中国の歴史1『中華の成立 唐代まで』

 

中華の成立: 唐代まで (岩波新書)

中華の成立: 唐代まで (岩波新書)

 

 

これは概説書としてみればかなり硬い部類になる。初学者がいきなり読めるものではない。物語性を求める読者にはまったく向いていないが、学問としての中国史を知りたい人には得るところも少なくないのではないか。内容の大部分を国制や土地制度が占めていて、文化史は潔いまでに切り捨てられているが、殷から唐代までの中国史の基本的な枠組みを知るにはよい内容であると思う。

 

まず古代史の部分を読んでみると、いくつか新しい知見を得られる。二里頭には中国最古の宮殿建築群が存在するが、二里頭文化とのかかわりで近年は日本の研究者も夏王朝の実在を説く人が多くなっていること。また、山東臨淄から出土した春秋時代の人骨のDNAを解析すると、現代ヨーロッパ人集団と現代トルコ人集団の中間に位置し、ヨーロッパ人集団により近いものだったという。この時代の臨淄には漢族とは異なる多様な人間集団が存在し、孔子の目も青かった可能性があるとしつつ、1サンプルでこの時代全体を判断することはできないとも断っている。秦の兵馬俑は典型的な漢人の風貌だが、春秋時代の人々はあれとはかなり異なる姿だった可能性がある。

 

本書では、中国王朝の政治統合のあり方として、まず貢献制をとりあげる。貢献制とは龍山文化から殷代にかけてできあがったもので、「首長・王権などの政治的中心にむかって従属下や影響下にある各地域集落・族集団から礼器・武器・財貨・人物等を貢納し、首長や王権が主宰する祭祀や儀礼を助成するなどして、ゆるやかな従属を表明する行為」と定義されている。これに対し、王権は祭祀や儀礼執行の際、各地域から受け取った貢納物を参加した地域の集落や族集団の代表に再分配することで、政治的秩序を確立する。もっともよく知られる貢納品はタカラガイで、殷墟の大墓からは多数のタカラガイが出土している。西周期の青銅器にも、王がタカラガイを下賜したことが記されている。

 

そして、殷末から西周にかけて、貢献制は封建性へと進化する。春秋左氏伝が記す魯国の封建においては、周王は魯公にたいし、礼器・武器とともに領土と殷民六族を再分配した。この段階において、王権からは土地と人間も再分配される。周の封建制は周王室と血縁関係にある首長や同盟関係にある異種族の首長を各地に武装植民の形で送りこむものと、宋のように旧来の族集団を維持したまま諸侯に封じるものとがあるが、いずれにしても王権は支配者集団にしかおよばず、各地の下層民まで直接支配できるわけではない。

 

さらに徹底した支配体制として郡県制が成立してくる。春秋期の戦車にかわり、前541年には晋で本格的な歩兵戦闘がおこなわれ、前6世紀末から前5世紀初頭には呉・越で独立歩兵部隊が組織されるなど、歩兵部隊が戦争の主役になってくるが、この歩兵を出すのが百姓小農である。百姓に徭役を課すための官僚組織である県はまず晋に登場している。軍役をになう家の主体が首長層である世族から百姓小農にかわる動きの行きつくところが商鞅変法で、この法律において「耕戦之士」が秦の戦力の主体となり、県を束ねる郡も設けられた。秦が全国を統一すると、郡県制も中国全土に拡大することになる。

 

漢王朝が秦の郡県制にかわり郡国制で全国を統治したことはよく知られている。漢は王国・封国を諸侯に与えている点は封建制をうけついでいるが、各王国内部は郡県制で成り立っている。そして、劉邦が毎年年頭の10月に各王国・侯国に貢献物の貢納を義務づけている点で貢献制もひきついでいる。貢献制・封建制・郡県制が折り重なってできているのが漢王朝といえる。 呉楚七国の乱で王国・侯国の領土は削られ、漢は帝国領域内では郡県制による百姓の直接統治を強化したが、周辺諸族や諸外国に対しては封建制と貢献制によるゆるやかな支配を行っている。

 

新王朝が短命に終わったのであまり存在感のない王莽についても重要な指摘がある。貨幣改鋳や専売制で社会を混乱させた王莽だが、彼の作った畿内制度と州牧制度は後世の国制の基礎となっている。王莽は国土を九州に分割し、州には長官として州牧を置いたが、州牧以下属長にいたるまでの官職は(大尹をのぞいて)五等爵を持つ官人を任命し、世襲させている。これは郡県制と世襲制封建制を融合させるもので、王莽は儒家の教典をもとに漢の制度のなかに周の制度を組み込もうとしている。王莽の国制は後漢に入ってさらに改革されているが、この後各王朝に受けつがれる漢代の国制は、事実上王莽がつくりあげたものなのだという。

 

元帝期から明帝期初年にいたる、ほぼ100年のあいだにできあがった儒家的祭祀・礼楽制度・官僚制度の骨格は、天下を領有する名前とともに、清朝にいたるまで継承された。のちの諸王朝は、漢を規範と仰ぐことが多い。その漢は、全漢ではなく後漢の国制であり、それは事実上王莽がつくりあげたものである。三国の魏がこの体制を踏襲したので、のちにはこれを「漢儀故事」「漢魏之法」「漢魏之旧」とよび、東晋南朝ではあるいは「漢晋之旧」「魏晋故事」などとよんだ。(p131)

 

王莽は儒教国家を性急につくりあげようとして失敗したが、王莽を否定しつつも実際に儒教国家を完成させたのは後漢だった。こののち、分裂時代を経て隋唐の統一時代が訪れるまでもこの本には書かれているが、後漢の国制が書かれている箇所ですでにこの本の半分を過ぎている。中国の基礎が築かれた時代に力点を置いているということだろう。

 

この本はアマゾンのレビューを見ると評価が二分している。制度史を学びたい人には好評だが、物語的記述を求める人には不評のようだ。どちらを好もうと自由だが、大学で学ぶ歴史学とはこういうものだということは知っておいて損はない。個人的には封建制から郡県制にいたるまでの軍役の変化は非常に興味深く読んだし、商鞅の変法についても詳しく書かれているので戦国秦について知りたい人にもおすすめできる。硬い本なので読み手は選ぶが、中国の古代王朝の成り立ちについて知りたい読者には好適な一冊と思う。

 

saavedra.hatenablog.com

 

まずは読みやすい物語として中国史を学びたい人には陳舜臣『中国の歴史』がお勧め。

 

saavedra.hatenablog.com

岩波新書のシリーズ中国の歴史からは今月2冊目の『江南の発展 南宋まで』が発売されている。

麒麟がくる1話『光秀、西へ』感想

  

この光秀は旅の途上、荒廃した室町後期の世界をつぶさに見ている。

野盗が出没し、人身売買が横行し、京には流民があふれかえっている。

比叡山では僧兵が関所を作り、銭を持たない旅人に暴行を働いている。1話から比叡山焼き討ちフラグを立てていく脚本はなかなか挑戦的だ。この光秀、あとで積極的に比叡山を焼くのではないか。

この世界のどこにも、秩序らしいものはない。だから誰かが麒麟を連れてくる者にならなければいけない、ということが、説得力をもって描かれていた。

 

脇役では、やはり松永久秀が強烈な印象を残している。光秀に酒を飲ませて美濃の情勢を聞き出し、鉄砲を売って借りをつくる久秀はしたたかだが、どこか憎めない。この男がどんな最期を迎えるのか、今から気になってくる。

光秀はまだ若いから道三は損得だけで動く男だといっているが、妻の病気を治せる名医が京にいるかもしれないという光秀の言葉を聞き入れたのだから、道三には情もある。この道三はいずれドラマから退場するのが惜しいキャラになる気がする。

 

京では燃え盛る炎の中から梅を救出した光秀だったが、同じように駒を助け出したのは誰だったか。光秀の父だろうか。光秀と炎の取り合わせは本能寺の変を思わせる演出だ。本能寺の変の回は1話とオーバーラップする光景も見られるかもしれない。

 

saavedra.hatenablog.com

あと印象に残った点といえば、「国衆」という言葉が何度も出てきた点だろうか。久秀と光秀が「道三は美濃の国衆を従えている」「美濃の国衆が皆御屋形様に従っているわけではない」という会話を交わしているが、この言葉が大河ドラマで定着したのは『真田丸』以来だ。

 

全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)

全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2015/08/26
  • メディア: 新書
 

 

『全国国衆ガイド』では、安藤守就稲葉一鉄氏家卜全の美濃三人衆および竹中半兵衛を出した竹中氏は国衆扱いになっている。これらの人物が斎藤氏を離れるのも、国衆らしい利害を重んじた行動ということになるだろうか。

 

士農工商も赤穂浪士も教科書から消えていく『ここまで変わった日本史教科書』

 

ここまで変わった日本史教科書

ここまで変わった日本史教科書

 

 

これを読んでいると、かつて学んだ「日本史」の内容も少しづつ変わってきていることがわかる。今は「鎖国」という言葉も学習指導要領から消えているそうだ。この言葉自体は教科書にはまだまだ残っているが、長崎と津島、薩摩と松前という「4つの口」を通じて海外と交流があったこともあわせて記述されるようになっている。そして「鎖国」という言葉は幕末に海外との交渉を避けるために出てきたことも今の教科書は教えている。

 

綱吉の生類憐みの令の評価も教科書によって異なる。極端な動物愛護政策だと非難する教科書がある一方で、生命を尊重する価値観を定着させたと積極的に評価する教科書もある。磯田道史『徳川がつくった先進国日本』でも、綱吉の文治政治により「未開から文明への転換」が行われたと評価されているが、こうした綱吉観の変化は教科書にも確実に反映されている。

 

saavedra.hatenablog.com

 

士農工商という言葉も過去のものとなりつつある。今の小学校・中学校の教科書ではこの言葉を学習すべき用語として載せていない。現在の教科書では、江戸時代の身分を武士と百姓・町人のふたつに分けて説明している。百姓と町人は住んでいる場所によって分かれる。城下町に住んでいれば町人で、村に住んでいれば百姓ということだ。百姓の多くは農民ではあるが、漁業や林業にたずさわっている者もいるので百姓=農民ではない。士農工商の枠内に収まらない陰陽師や修験者、能楽師などの存在に言及する教科書も出てきている。

 

ほかにいくつか興味を惹かれた個所をあげると、まず後醍醐天皇が層の朱子学の影響を受けていたと記す教科書がある点。宋学の影響を受けて天命思想や革命思想を身につけた後醍醐がめざしたのは「中興」ではなく、天皇を主体とする「革命」だったという見方は兵頭裕己『後醍醐天皇』でも指摘されている。

 

saavedra.hatenablog.com

 

足利義満が王権簒奪を目指していたという見方もすでに克服されている。かつて高校の歴史教科書には義満が上皇になる野望を持っていたと書かれたことがあるが、王権簒奪説に多くの批判が加えられたことにより、今はこの説をふまえた記述は教科書にはない。

 

忠臣蔵も教科書から消えていく運命にあるようだ。赤穂事件を取り上げている中学校の歴史教科書はわずか6パーセントしかない。テレビでほとんど時代劇を放映しなくなっている現代では、忠臣蔵のことを知っている中高生はかなり少なくなっているが、その現状を反映しているのだろうか。

 

綱吉時代の起きた大事件といえば、誰もが「忠臣蔵」を思い浮かべる時代は過去のものになりつつある。歌舞伎・講談・浪曲、時代劇が庶民の歴史的教養の基礎をなしていた時代はもはや終わった。漫画やゲームに取り上げられない限り、子どもたちは関心を示さない。誰もが知っていたはずの「忠臣蔵」やその題材となった歴史的事件としての「赤穂事件」も例外ではない。(p124) 

 

togetter.com

 

この本には「漫画やゲームに取り上げられない限り、子どもたちは(歴史上の事件に)関心を示さない」と書かれているが、今は漫画やゲームに加え、ユーチューブも教養コンテンツの入り口になりつつあるのかもしれない。今のところ、動画の教養コンテンツはクオリティに問題のあることも少なくないが、人々が教養を得ようとする場所が文字媒体から動画へシフトしていく流れ自体は止められないのではないだろうか。

【感想】情熱だけでは勝てなくなったときどの見つけた勝利法『世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0 』

 

世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0

世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0

 

 

東大卒プロゲーマー・ときどの勝利法は、もともとは東大入試攻略法と似たようなものだった。格闘ゲームの新タイトルが出ると、できるだけ早くそのゲームの要点をつかみ、簡単で強い行動をくり返し、負けるリスクをできるだけ減らす。それはこの本でときど本人が書いているとおり、「メーカーから出された試験問題」を解くようなものだった。そのゲームではどのキャラが、どんな行動が強いのかをいち早く解析できたものが、しばらく先行者利益を独占できる。だから「合理的なだけでつまらない」と言われようと、ときどは誰よりも早くそのゲームを攻略することにこだわっていた。

 

だが、ときどはある時期からこのスタイルでは勝てなくなった。今はネット環境の整備により、新しい攻略方法はすぐ皆に共有されてしまう。プロの戦い方を誰でも動画で見ることができる。いち早くそのタイトルの「正解」をつかんだとしても、それを誰もが知ってしまうのだから他のプレイヤーと差別化することができなくなってしまうのだ。ときどが言うとおり、eスポーツの世界の変化はけた外れに早い。かつて有効だった「ときど式」は、まったく機能しなくなってしまった。

 

東大合格を目指すような、試験問題を解くようなやり方ではもう勝てない。変化の速いプロゲーマーの世界で生き残るには、決まった正解をみつけるのではなく、「自分だけの答え」をみつけるための努力が必要だ。ここで求められる「努力2.0」とかつてときどが行っていた努力1.0の違いについて、この本ではこのように説明している。

 

【①反復の法則】
 努力1.0 勝ちにこだわる →努力2.0 「負け」の中に答えがある
【②環境の法則】
努力1.0 一人でやる →努力2.0 ライバルは「敵ではない」
【③メンタルの法則】
努力1.0 情熱だけで乗り切る →努力2.0 心に「負荷をかけない」
【④継続の法則】
努力1.0 己に打ち勝って続ける →努力2.0 頑張りは「いらない」
【⑤Whyの法則】
努力1.0 レールにそって生きる →努力2.0 嫌なことは「やらない」
【⑥地力(じりき)の法則】
努力1.0 人と比較する →努力2.0 「自分史上最強」になる
 

 

この中で特に興味を惹かれたのは、3の「メンタルの法則」だ。ときどはこの本の3章で、できるだけ心に負荷をかけないことの重要性を強調している。体力同様、精神も使うと減るからだ。ときどは空手道場に通っているが、空手の師匠から根性に偏った努力は何ももたらさないことを学んだという。

 

 僕を支えている根っこはゲームに対する「情熱」です。子どものころから生活の中心は大好きなゲーム。勉強のモチベーションも、ゲームを思う存分遊びたいという欲求からスタートしています。中学に入ると強い相手と対戦したくてあちこちのゲームセンターに足を延ばすようになりました。初めて海外の大会に出たのは高校2年の夏休みのときのことです。ゲームを通して僕の世界は広がっていき、好きが高じてプロゲーマーになりました。ほとんど途切れることなく続くゲームへの「熱」と「想い」が今の自分を支えています。

 しかし、それだけで成果を上げられるのかというと、答えは「NO」といわざるを得ません。情熱はモチベーションや克己心、自制心など、心の作用の素になるものですが、心のエネルギーは無限ではないからです。時間や労働力と同じで「有限のリソース」なのです。
当然ですが、無茶な使い方をすれば必ず反動が来ます。心のバランスを崩したり、燃え尽きてしまう。
 僕にとっての強いメンタルとは、プレッシャーのかかる場面でも、普段通りのプレイができること。そのために、自分にちょうどいい負荷のかけ方を知り、有限で貴重な「心のエネルギー」を、なるべく大切に使っていくことなのです。

 

情熱は勝つための必要条件であっても、十分条件ではない。精神論では勝てないことを悟ったときどは、ジム・レーヤー『メンタル・タフネス』を参考にしつつ、毎日睡眠時間や食事の回数、感動の回数などを記録しているという。こうして日常生活をつねにモニターしておくことで、自分の状況を客観的に把握でき、自分で自分をコーチングするような効果が生まれるとときどは主張している。

 

とはいえ、こうして自分自身のことを細かくチェックし、空手や筋トレで日々自分を鍛えることだってかなりキツいんじゃないか、と思えるかもしれない。根性論を否定してはいるものの、こうした努力を続けるのも容易ではないはずだ。やはりときどは生まれながら並外れた努力家であって、凡人には彼の真似などできないと思ってしまうかもしれない。だが、ときどは本人いわく「僕は極度の面倒くさがり」なのだという。そんなときどが、なぜこれだけの努力を継続できるのか。その秘密は、この本の4章に書かれている。

 

本書の4章で強調されているのは、ルーティン化だ。努力を続けるための秘訣は、意志力をできるだけ使わないこと。意志の力で努力するのではなく、続けざるを得ない仕組みを作ってしまうことで、怠け者でも努力を続けることができる。たとえばときどは、部屋にベッド以外の大きな家具を置かない。部屋にテレビやソファがあると快適な空間になり、ジムに行くのが面倒になるからだ。環境を整備し、日々の行動もできるだけルーティン化することで精神力の消費をふせぎ、ゲームに集中できるようになる。ゲームプレイに集中するため、ときどは筋力トレーニングはトレーナーに、納税については税理士に、契約関係はマネージャーに全て丸投げしている。努力のしかたは変わったが、努力はあくまで合理的にする、というときどの在り方自体は変わっていない。情熱は合理的な努力と組みあわせることで、より有効に機能する。

 

勝ち続けているプロゲーマーには、かならず独自の強みが存在する。天才的な資質を持つ選手もこの世界には多い。だがときどは自分自身を「飛び抜けた才能があるわけではありません。反応速度も人並み。奇抜な発想力はない。いわば凡人です」と分析している。それでも勝ち続けているのはなぜか。それは、ときどが「勝てる自分を作る努力法」を言語化できているからだ。才能だけで勝っているプレイヤーは、実は危うい。才能豊かなプレイヤーは自分が勝っている理由を言語化できていない。そういうプレイヤーは挫折経験が少ないまま突然壁にぶつかるので、そこでどう乗り越えていいかがわからない。一方、ときどのようなプレイヤーは凡人だけに壁にぶつかりやすく、それだけに壁を乗り越えた経験も多い。乗り越えた方法も言語化できている。だから世界の天才プレイヤーとも互角以上に戦える。

凡人も適切な努力を積み重ねれば秀才にはなれる。ときどの強みは秀才を極めつくしたところにあり、その方法はこの本で明確に言語化されている。天才には学べないが、秀才の努力法には大いに学べるところがある。できない状態からできる状態まで理詰めで持っていくのが秀才だからだ。本書『世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0 』は、凡人が秀才になるための努力とは何か、凡人でも努力を継続するためには何をすればいいか、を考えるうえで大いに有益な一冊と思う。

奴隷狩り・人身売買・略奪……戦国時代の「民衆のリアル」を活写する『雑兵たちの戦場』

 

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

 

 

 ルイス・フロイスは『ヨーロッパ文化と日本文化』において「われらにおいては、土地や都市や村落、およびその富を奪うために、戦いがおこなわれる。日本での戦は、ほとんどいつも、小麦や米や大麦を奪うためのものである」と記している。もちろん現実はこんなに単純ではないし、戦国日本でも領土拡張のための戦争は多い。しかし、戦場における略奪が大いに行われていたというのも、また間違いのない戦国日本の現実である。本書『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』は、 苅田狼藉や人・牛馬の略奪(乱取り)、そして人身売買など、「食うための戦争」の実態をあますところなく描いた一冊だ。

 

フロイスは1563年から1597年までを九州や畿内で過ごしている。上記のフロイスの文章は、この地でフロイスが戦場の現実を見たうえで書かれたものだ。たとえばフロイスは島津軍が豊後で捕虜にした人々を肥後で売却するさまを目撃している。当時の肥後の住民は飢饉に苦しんでいたため買い取ったものを養うことはできず、買われた者たちはさらに島原半島で売り飛ばされたとフロイスは記録している。

島津軍に蹂躙された人々は捕虜にされるか、戦争と病気で死ぬか、飢え死にするかである。人が略奪の対象となるのは、慢性化する飢饉のためだった。耕しても食えないのなら、兵士になり、略奪する側になるしかない。戦国時代の軍隊のなかには戦場で主人を助ける中間や小者・村々から人夫として駆り出される百姓が多く含まれているが、これらの「雑兵」たちが戦場における略奪の主体である。

 

これら雑兵による「濫暴狼藉」は、フロイスが見た九州でのみおこなわれていたわけではない。目を東国へ向けると、甲斐においては『勝山気』『妙法寺記』が女性・老人・子供など無数の「足弱」が生け捕りにされる様子を記録している。戦国期は甲斐でも飢饉が頻発していたため、やはり人や物資を略奪する「食うための戦争」が戦われている。

また、『甲陽軍鑑』には、武田軍の北信濃における乱取りの様子がくわしく書かれている。武田軍の雑兵たちは敵地に侵入し、休養を告げられると付近の民家を襲い、田畑の作物を奪っている。敵方の城を落したときも乱取りが認められていて、上野箕輪城を落したときなどは武田軍の侍から下人・人夫にいたるまで、城下の乱取りを続けた。『甲陽軍鑑』はその信憑性に疑問が持たれているものの、藤木久志氏は「この書物の雑兵たちを描き出す迫力は他の追随を許さない」としている。

 

武田軍の雑兵があちこちで略奪をはたらく様子は、フロイスが九州で見た戦場の現実と変わらない。では、ライバルの上杉謙信はどうなのか。「義将」謙信はかかる蛮行とは無縁なのだろうか。残念ながらそうではないようである。本書では、上杉謙信常陸の小田城にて「奴隷売買」をおこなっていたと指摘している。

 

小田氏治の常陸小田城(茨城県つくば市)が、越後の上杉輝虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の御意(指示)で、春の二月から三月にかけて、二十~三十文ほどの売値で、人の売り買いがおこなわれていた、という。折から東国は、その前の年から深刻な飢饉に襲われていた。(p35) 

 

本当なら、謙信もやはり「食うための戦争」と無縁でなかったことになる。では、(建前上は)天下布武のための戦をしていた信長はどうか。本書では信長が天正元年(1573年)、信長が一万あまりの兵を率いて上洛したときの事例を紹介しているが、この時も信長軍の兵士たちは乱取りに熱中していた。『信長公記』には信長が飼っていた鷹に「乱取」と名付けていたことも記録されているが、それだけ戦場における略奪は戦国大名にとり身近なものだったようだ。

つまるところ、どの戦国大名にとっても乱取りは「必要悪」という一面があった。戦場の底辺をさすらう雑兵たちには、武士道の縛りなどはない。戦っても恩賞が出るわけでもないから、かれらを兵として活用するなら略奪を恩賞代わりに認めるしかない。雑兵たちは奪った物資により豊かになるので、自国が戦場になることのなかった武田領は民百姓まで皆豊かだったと『甲陽軍鑑』は記している。

 

こうした略奪を行っていた雑兵たちは、もともと農村から駆り集められてきた者が多い。かれらは農業では食えないからこそ兵になるのである。そのことをもって戦国時代の軍隊は兵農分離できていなかったとする説があるが、著者はこれに異を唱えている。戦国大名の戦争の多くが農閑期に行われていることは本書でも指摘されているが、これは武士の専業化が未熟だったからではなく、 傭兵を多く集めるには農閑期に戦うしかなかったからだという。

ほんとうは、各地の戦国大名も百姓ではなく強い兵士を求めていたことが各種史料から確認できる。北条氏も夫(人夫)同然のものばかり集めたら村の小代官は死刑とする命令書を出しているし、武田氏も有徳の者や武勇の人でなく百姓や職人などを軍役に出すのは「謀逆の基」としている。戦場で乱取りにふける百姓を徴兵したくはなかったのである。専業の武士はいたが、それだけでは戦力が足りないので農兵も雇わなくてはいけないのが現実だったということだろうか(そういう状況を兵農分離できていないというのでは、という疑問もあるのだが)。

 

saavedra.hatenablog.com

 

室町時代から戦国時代にかけて、日本人はかなり獰猛だったという指摘がある。その要因として、日本が自然災害大国だったということは外せない。明治以前、改元のかなりの部分を天災地変を理由とする「災異改元」が占めていた。もちろん改元したからといって疫病や飢饉がおさまるはずもなく、民衆が出稼ぎの場を求めて戦に出ていく現状は変わらない。かれらが皆侍になりたかったわけではなく、下克上を求めて戦場に出たわけでもない。そんなことよりまず食わなくてはならない、という切実な事情がかれらにはあった。そして、戦国大名も戦を仕掛けることでその願いにこたえた。上杉謙信も例外ではない。たとえば以下のような本書の指摘は、清廉な上杉謙信像にも再考を迫るものとなっている。

 

農閑期になると、謙信は豪雪を天然のバリケードにし、転がり込んだ関東管領の大看板を掲げて戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を越えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。戦いに勝てば、戦場の乱取りは思いのままだった。こうして、短いときは正月まで、長いときは越後の雪が消えるまで関東で食いつなぎ、なにがしかの乱取りの稼ぎを手に国へ帰る。

(中略)

すでに見たが、武田方の軍記『甲陽軍鑑』も、信玄を自慢するのに、勝ち続ける戦場の乱取りのお陰で甲斐の暮らしはいつも豊かだった、とくり返し強調していた。この軍記ふうにいえば、越後人にとっても英雄謙信は、ただの純朴な正義感や無鉄砲な暴れ大名どころか、雪国の冬を生き抜こうと、他国に戦争という大ベンチャー・ビジネスを企画・実行した救い主、ということになるだろう。しかし襲われた戦場の村々はいつも地獄を見た。(p97)

 

信長研究者は本能寺の変の原因を何だと考えているのか?『本能寺の変サミット2020』内容まとめ

先日、NHKBSで放映された『本能寺の変サミット2020』の内容をこちらにまとめておきます。参加したパネリストは天野忠幸,石川美咲,稲葉継陽,柴裕之,高木叙子,福島克彦藤田達生の7氏。

 

この日、本能寺の変の原因として検討されていたのは怨恨説・朝廷orイエズス会陰謀説・鞆幕府推戴説・構造改革反発雪・暴走阻止説・四国説・秀吉陰謀説など。以下、それぞれの説について当日語られていたことをまとめておく。

 

・怨恨説

後世の書物では信長が光秀に働いたとされる暴行がさまざまに脚色して書かれ、なかには信長に殴られて光秀のかつらが取れたなどというものまであるが、番組中ではこれらの記述は信憑性に乏しいとされていた。フロイスも似たようなエピソードを記録しているので信長の暴行は実際にあった可能性もあるが、それで謀反を起こすようでは信長の家臣など務まらないということでこの説はほぼ全員が否定していた。

 

朝廷orイエズス会陰謀説

朝廷は一枚岩ではないということが番組中では言及されていたが、朝廷が一体として信長を敵視していたわけではないようだ。イエズス会関連の話はメモするのを忘れていてはっきり覚えていないのだが、朝廷同様イエズス会を黒幕として考える研究者はほぼいないようだ。なお、呉座勇一氏は『陰謀の日本中世史』のなかで、イエズス会士オルガンティーノが本能寺の変後、避難する途中追いはぎに襲われたり、湖賊に財産を奪われたりした事実を指摘している。イエズス会本能寺の変の黒幕なら、こんな目には遭わないだろう。

 

・鞆幕府推戴説

光秀が足利義昭を再度入洛させようと反信長派の豪族に協力を求めた書状(土橋重治宛光秀書状)が発見されているが、これをどこまで信じてよいかが鍵になる。光秀が謀反を正当化するため後付けで幕府再興を打ち出しただけという説もあり、どうもはっきりしない。

番組中では石川美咲氏が光秀が朝倉家から医学の秘伝を伝えられていたことを指摘し、光秀は朝倉家を介して足利将軍家など旧勢力との結びつきが強かったと主張している。これは正しいだろうが、だから義昭を推戴する気になったとまでは断言できない気がする。朝倉家の傷薬「セイソ散」は『麒麟がくる』にも出てくるか。「医者」としての光秀像は見たことがないのでドラマ中で描かれるかは気になるところ。

 

構造改革反発説

番組中では藤田達生氏含む二人が賛成、残りは反対とわからないに分かれた。信長が大和で実施した城割り(一国一城令)、検地や家臣の国替えなど「中央集権化」をめざす政策についていけなくなった光秀が信長を討ったとする説。信長がどれほど他の戦国大名とは違う「革新性」をもっていたかが鍵になるが、この説では信長が「預地思想」をもっていたとする。土地は天からの預かりものであり、大名はそれを一時的に保持しているだけという考え方のようだが、これは家臣の「鉢植え大名化」につながり光秀らの既得権益と対立することになる。

こうした信長の「革新性」については近年は疑問視する意見も多く、番組中でも金子拓氏が信長の考えは「天下静謐」であり、畿内の秩序の安定をめざしていたことが指摘されていた。信長を「保守」の側に置くなら、信長の革新性についていけない光秀が謀反したとの考えは当たらないことになる。石垣をふんだんに用いた山城を作るなど、むしろ光秀の側に「革新性」を見いだす意見も番組中では出ていて、信長の実像がどのようなものかはまだ議論を重ねる必要があるという印象を持った。

 

・暴走阻止説

信長の力で京周辺は「静謐」となったものの、その後も戦争を継続しあたかも「戦争の自動機械」のようになってしまった信長の暴走を止めるため光秀が謀反したとする説。番組中ではパネリストの稲葉継陽氏がこれを支持していた。『当代記』の記述を信じるなら、本能寺の変当時67歳だった光秀がたび重なる戦に倦んでいたという考えには一定の説得力があるように思う。

 

・四国説

信長の四国政策の転換が謀反の原因になったとする説。番組中では7人中5人が賛成と、もっとも多くの研究者が支持する説となった。信長はもともと阿波三好氏に対抗するため長宗我部元親と友好関係を結んでいたが、のちに阿波三好氏が織田家に従属したため元親との関係が変化する。長宗我部氏と直接領国を接することになった信長は元親に土佐と阿波南群半国のみの領有を認めることにしたが、これは元親の勢力を削ぐものであり、長宗我部氏と織田氏との関係は急速に悪化する。信長は四国出兵を決意するに至るが、これにより織田氏と長宗我部氏との取次(外交官)を務めてきた光秀の立場も危ういものとなった。この時代、取次を務めることで権力中枢における発言権を持つこともできるが、長宗我部氏と開戦となれば光秀の政治生命が失われかねないため、光秀は四国出兵をやめるよう信長に働きかけている。

現在、この四国説が光秀謀反の主要因と考えられている。『信長研究の最前線』で、柴裕之氏はこう書いている。

 

信長研究の最前線 (歴史新書y 49)

信長研究の最前線 (歴史新書y 49)

 

 

さて、これまでの本能寺の変をめぐる議論のなかで、共通認識としてはっきりしてきたことがある。それは、織田権力の四国外交との関連である。四国外交との関連自体は、早くに指摘されはしていたが、これを本格的に議論の俎上にのせたのは、藤田達生氏であった。

そして、この四国外交との関連に関しては、桐野作人氏により深化され(桐野、2007など)、現在では変の主要動機・背景に位置づけられているのが、現状である。(p161)

 

・秀吉陰謀説

中国大返しがあまりにも手際がよすぎるので昔から唱えられている説ではあるが、さすがに番組中でこれを支持する研究者はいなかった。ではどうして秀吉がすぐ引き返してこれたかというと、高木叙子氏は光秀の謀反は秀吉の想定内だったからと主張していた。四国説が正しいとするなら、信長の四国政策転換で光秀にかわり織田政権のナンバーツーとして浮上してくるのは秀吉であり、光秀が謀反すれば自分が一番危ないことを秀吉は知っていた。だから危機管理として光秀の謀反にも備えていた可能性があるということである。これが正しいなら秀吉の先を見通す力は一流であり、天下人になるのも当然という気がする。

ちなみに、家康陰謀説は「それならなぜ家康が伊賀越えで苦労する羽目になるのか」とあっさり退けられていた。秀吉や家康は本能寺の変の最大の受益者ではあるが、結果からさかのぼって歴史を考えることの危険性は、呉座勇一氏が『陰謀の日本中世史』のなかで再三指摘している。

 

saavedra.hatenablog.com

 

以上みてきたとおり、今のところ本能寺の変の動機としては四国説がもっとも有力なようだが、個人的には暴走阻止説にも説得力を感じるところでもある。思うに、光秀の動機がひとつだけとは限らないのではないだろうか。光秀は信長の四国政策転換も止めたかっただろうし、同時にこれ以上戦もしたくなかったかもしれない。怨恨説はほぼ否定されているものの、信長の行為が最後の一押しとなった可能性もある。いずれにせよ、番組中で柴裕之氏が指摘していたとおり、信長と信忠がともに京に滞在していたことが事件の引き金になった。

 

大河ドラマ麒麟がくる』ではどの説が採用されるだろうか。『麒麟がくる』制作側では信長について「最近の研究で見直されている保守的かつ中世的な側面も強調」するとしているので、構造改革反発説の線はなさそうだ。だとすれば、ドラマ的には暴走阻止説あたりがフィットしそうな気がする。信長こそが平和な世を作り、麒麟を呼べる人物と信じていたがそうではなかった……と考えた光秀がみずから天下を取ることにしたという線はありそうだ。怨恨説はいままでの大河ドラマと重なるのでたぶん取らないだろう。いずれにせよ、今までとは異なる光秀像や本能寺の変が描かれることを期待する。