明晰夢工房

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左利きはなぜ迫害を受けてきたのか?『左利きの歴史 ヨーロッパ世界における迫害と称賛』

 

 

「左利きの人々と、はげ頭の人々と、赤毛の人々は、この世にふさわしい人間ではない。というのも、赤毛の人々は赤茶の髪をしているし、左利きとはげ頭の人々は自然に反しているのだから」──これは、18世紀スペインの格言だ。このように、左利きとは規範から逸脱した、例外的な人物という扱いだった。『左利きの歴史 ヨーロッパにおける迫害と称賛』を読めば、こうした左利きの受難の歴史を知ることができる。左利きの人々が世間にどのように扱われてきたかを知ることは、多数派が既存の秩序を脅かす「邪悪な手」の持ち主をどう抑圧してきたかを知ることでもある。著者にいわせれば、左利きの人々の境遇に関心を向けるのは、右利きの人々が鏡に映る自分の姿を認めることにもなる。

 

未開社会において、すでに人類の多くは右利きだった。その理由は明らかになっていないが、この本の一章では戦士が心臓を守りながら戦うこと、崇拝の対象である太陽がつねに右斜めに進むこと、二元論的大系で右手がすぐれた表象と位置づけられたことなどをあげている。著者は人間が右手を優遇した理由は生理的側面よりも象徴的側面にあると推測しているが、これが本当なら、右手の偏重は抽象的思考力をもつ「人間らしさ」の表れということになる。

 

そして、ヨーロッパには左手が「邪悪な手」扱いになる特有の事情もある。まず、西洋文化の母体である聖書において、右は善や正義であり、左は悪や不正と結びつけられている。イスラエル十二番目の部族の創始者であるベニヤミンは「右手の子」を意味する。最後の審判においてキリストは右手で祝福を与え、左手で罰を与える。『左利きの歴史』2章を読むと、このように左と右が聖書内では明確に区別されていたことがよくわかる。この本の著者によると、聖書成立以前から他の多くの文明と同様に、ヨーロッパでは伝統的に左手と右手は区別され、右手が道徳的優位にあるとされてきたが、聖書の伝承がこの区別に対して「どれほど決定的な影響力をもたらしたかは容易に想像できる」という。右手の優越性が世界一のベストセラーに象徴的に示されたことは、左利きの人々にとりきわめて重要な出来事だった。

 

左利きが劣った人間の特徴ということになったため、それはつねに矯正の対象となった。中世ではまだ庶民はマナーを気にしなかったため、左利きにとっては比較的寛容な時代だったが、17世紀に入ると市民階級がエリートの作法を模倣し始める。左手で食事をすることは許されなくなり、左利きの子供は道徳的抑圧を受けることになった。こうした子供たちの受難は8章「虐げられた左利き」にくわしく書かれている。19世紀には子供の左手をベルトで縛って背中に結びつけ、何度も体罰を加えた例が紹介されているが、こうした矯正はさまざまな悪影響をもたらした。左利きを矯正された子供たちは動作がぎこちなくなる、読み書きが遅くなる、不器用になるなどの特徴を示した。もっとも特徴的な悪影響は言語障害で、アメリカの心理学者グランヴィル・スタンレー・ホールのように吃音に苦しめられた人もいる。著者にいわせれば、右利きを強要することは「本人のアイデンティティを否定し、生命のバランスを崩すことに等しい」。

 

ヨーロッパでは右利き優位の時代が長く続いたが、近代に入るとようやく変化のきざしが見えてくる。10章「近代の解放にいたる長い道のり」によると、17世紀のイギリスの学者トーマス・ブラウンは『謬見蔓延論』においてはじめて左利きを弁護した。時代が下り、啓蒙時代のフランスでは百科全書派が「偏見や教育の圧力」に抵抗するため、人間の両手のあいだにはどんな能力の差もないと主張した。20世紀に入ると、第一次世界大戦により右手を負傷し、「新たな左利き」が多数生まれたことで、左利きへの同情的な見方も生まれた。大戦の負傷者がリハビリのため左手を用いることは肯定的に受け止められ、ヨーロッパでははじめて「左利きの教育」がおこなわれた。しかしそれでもなお左利きへの偏見は根強く残り、1960年代に教育における寛容や特殊性の尊重が唱えられてからようやく、左利き解放の流れが決定づけられることになる。

 

左利きが称賛された例がないわけではない。12章「左利きの卓越性」では、すぐれた才能を発揮した左利きの人々が紹介されている。中世スコットランドのカー一族は剣の達人ぞろいで、ダ・ヴィンチのように鏡文字を書けたことで尊敬された人物もいる。近代では、右利きが掘りにくい側の塹壕を掘れる「右側塹壕兵」として、左利きが重宝されたこともある。しかしこれらは、社会が右利き優位にできているからこそ卓越性を発揮できたケースだ。多くの人が右手で剣を操るから左手の剣術使いには対処しにくいし、土木現場で左利きの作業員が稀少価値を持つのも、大多数の人々が右手を使うよう強いられたからだ。著者は、これらの左利きの卓越性について「おそらく逆境に対する復讐心ゆえに、みずからの特性のうちでもっとも誇りとしていた点であろう」と推測している。左利きは蔑視を受けてきたからこそ、左手が求められる例外的な状況に誇りを見出すしかなかった。

 

これはすべてヨーロッパでの左利き事情なので、日本のことには触れられていない。だが、あとがきでの訳者の言葉は、日本における左利きの境遇を知るうえで参考になる。

日本語でも、「左巻き」「左前」「左道」「左封じ」、「左膳」など、左のつく言葉は邪悪さや不吉さを表すことが多い。しかし、日本文化はもともと右優位だったわけではない。奈良時代にはじまる律令制では、左大臣が右大臣よりも上位に位置づけられていたし、平安時代の都では、右京よりも左京のほうが尊重されていた。どうやら日本文化は、古くは左を尊重しながらも、中国文化の影響を受けて右優位の思想を取り入れてきたらしい。ちなみに「左遷」や「左降」、「右に出る者なし」といった表現は、すべて故事成語に由来している。

こうした右優位の立場は、明治時代になっても変わらず、むしろヨーロッパの規範や慣習が日本に導入されたことで、さらに揺るぎないものとなった。とりわけ戦前の学校教育では、富国強兵の一環として集団行動が重んじられ、左利きは規律を乱す厄介な存在であった。「字は右手で書くもの」という考え方は主流であり、小学校では戦後も依然として左利きの矯正がおこなわれていた。このことは、左利きである訳者が1980年代前半に初等教育を受けたときも同じであった。訳者は右手で思うように字が書けず、習字の授業が苦痛でたまらなかったことを今でも覚えている。学校教育を通じて左利きであることに劣等感を味わわされた児童は、けっして少なくないはずだ。(p262-263)