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神絵師になれないこと自体は問題ではない
読んだんですが、これ、神絵師になれていない事自体が問題なわけではない、と思います。
1の人は3日で描くのをやめたということは絵がそれほど好きではないのだろうし、2の人については絵を描くより交流が好きな人に見えるし、3の人にしても絵よりも作品の調査や分析が好きな人のように思える。
3人とも「神絵師になれるものならなりたい」という漠然とした願望はあるだろうけど、そうなるために必死で手を動かさないということはこの人達は努力が足りないというよりは、そもそもそれほど神絵師になりたいという欲求が強くはないのではないか。
人間、本当に好きなことって、「そうせずにはいられない」ものなんですよ。
どうしても絵で脚光を浴びたいなら、毎日何かしら描いているはず。
いや、そもそも本当に絵が好きなら、人から評価されるかどうかとは関係なしにとにかく手を動かしているのかもしれない。
例えばヤマザキマリさんがそうであるように。
でも、やっぱりだめだった。何をしても結局、絵を描いてしまう。時間に支配される感覚から開放されるのは、絵に向き合ったときだけでした。それで食べていけるかはわからない、評価されるかもわからない。だけど、私はやはり絵を描く人間なのだと悟った時、腹をくくった気がします。もう『フランダースの犬』のネロ少年になっても仕方がない、絵描きとしてのたれ死んだとしても構わないや、と。
同じ「好き」にもレベルの差というものがあります。
いくら絵が好きでも、このレベルで好きな人というのはかなり限られるでしょう。
少なくともあの漫画の3人はこのレベルで絵が好きなわけではないし、それ自体はなんら問題ではない。
異常なレベルで何かが好きであることこそが、天から授かった「才能」だから。
自分の願望は、なかなか自分で気づけない
では何が問題なのかというと、この3人はそんなに絵が好きなわけでもないのに絵で認められたいという欲求だけは持っている、それが良くないのだとこの漫画の作者は主張したいのでしょう。
手は動かさないのに神絵師としてちやほやされたいっておかしくない?と。
言いたいことは解ります。
望む結果が得られていないのなら、結果を得られるよう努力するか、願望自体を手放さなくてはいけない。
個人的には2と3の人については目標自体をもう少し低くした方がいいんじゃないかな、とは思いますが、望む結果が得られなくても失敗という経験を得たことは大事なことだったのではないかと思います。
はっきりいえば、自己評価と客観的評価のギャップに打ちのめされることなんて創作をしている人なら誰でも一度や二度は経験しているし、むしろその挫折を経験したところからが真のスタートなんですよ。
仮にこの失敗に懲りて絵をやめたとしても、それが問題だとは全く思いません。
それはそんな苦しい思いをしてまでも続けたいほど絵が好きではないということだし、そこに気づければ今度は別のジャンルに力を注ぐという選択もできる。
「自分にどれくらいの情熱があるのか」ということも、実際に取り組んでみないとわからないのです。
1の人についていえば、3日で絵はやめたとしてもこの人なりに同じ趣味を持つ人達と交流できているようだし、本人はそれで満足かもしれない。
当人がそれで納得しているのなら、それで十分「成功」です。
何も神絵師になることが全てではないし、「そうか、自分はチヤホヤされたいんじゃなく、同好の士と交流したいだけだったんだ」ということに気づけるのも、とりあえず行動してみた人ならでは。
絵を続けるにしても、神絵師のレベルまで到達する必要があるかどうかは当人にしかわからないわけです。
本当は別に同人誌を作らなくてもいいかもしれないし、twitterで300RTくらいされるような絵を描ければそれで十分かもしれない。
何もニコ生でファンを沢山つくらなくても、身内の数人に褒められれば満足という人だっている。
どのくらい認められれば満足かは人によって違うし、その欲求レベルがどの程度かも、とにかく動いてみなければわからない。
承認欲求目当てで創作をするのは良くないことなのか
この手の話でよく出てくるのが、「人から褒められたいがために創作をするのは邪道」といった話です。
「貴方は小説が書きたいのか、作家になりたいのか」という問いもそうですが、本当にそれが心から好きだから創作することが正しいのであって、人に認められたいがために創作をするなんて動機が不純だ、といったことを言う人もいます。
だからこそ、この漫画の3人も良くない感じに描かれているのでしょう。承認欲求の皮ばかり突っ張っていて努力が足りないとこうなりますよ、といった含みがこの漫画にはあります。
ただ、この3人がそこまで描くことが好きではないのに「神絵師になりたい」という願望を持ったことはわかるような気がします。
現代には、承認を得ている人こそが正しい、という風潮があります。
ブログ一つ取ってみても、PVを稼げないブログにはまるで欠陥があるかのように言い立て、もっと人目を引くように工夫しなければいけませんよ、と言う人はいる。
ウェブ小説の閲覧数であれ動画の再生数であれ、数字を持っている人が正義で、持っていない人は無価値であるかのように思い込んでしまう空気は確かに存在します。
そういう価値観を内面化してしまうと、たくさんの承認を得ている神絵師のような存在になりたいという願望が芽生えても無理はありません。
本当は同人誌を3部売ったことだって見方によっては十分「成功」と言えるのに(本を作るところまでこぎつけてるわけですからね)、それが哀れな失敗例のように言われてしまうのも、売れない人は無価値だと思い込まされているから。
そういう風潮のために、本来神絵師を目指す必要がない人までもそうしてしまう、ということもあるのかもしれない。
それに実際問題として、「人に褒められる」というのは、創作意欲を強力にブーストしてくれるものです。
褒められるからやる気が出るし、やる気が出るからたくさん描いて技術が向上するという好循環に入れれば、これは強い。
そもそも褒められる必要が無いのならチラシの裏にでも描いてろという話になるわけで、承認欲求もまた創作意欲に大きく関わっていること自体は疑いようがないのです。
承認欲求が強すぎれば、それを得られない自分自身とのギャップに苦しむという問題はあるとしても。
誰もが上を目指さなくてはいけないわけではない
どういう人にも「適正な欲望のサイズ」というものがあります。
そしてそのサイズが神絵師レベルになることであるという人が、果たしてそんなに多いのか。
志が低くても、低位安定でも本来は全然問題はないし、そこで飽き足らなくなったらもう一ランク上を目指してみる、というやり方もあるはずです。
そして、描いてみたけれどやっぱりやる気になれないならやめるというのも全然アリ。
何事も続けなければいけないわけではないし、もっと自然に続けられることに目標を変えてもいい。
絵師の世界なら「神絵師になる」ことがひとつのゴールとして想定されるのだろうけど、そのゲームから降りればそもそも絵が描けなくても何の問題もない。
諦めればそこで試合終了だと言われても、時には早く終わらせたほうがいい試合だってある。
勝てなくて苦しんでいるばかりの試合だったなら特に。
しかし繰り返しますが、自分が別に「上を目指さなくてもいい」人間かどうかも、一度は上を目指してみないとわからないというところがあります。
その意味では、この3人は貴重な経験をしたといえると思います。
ある意味そういう経験ができただけでも、彼等は何もしない人よりも「成功」している。
自分が何者かは、一歩を踏み出した人にしかわからないことだからです。