明晰夢工房

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古代ギリシア民主政の真実とは?歴史学者が「衆愚政」への異議を唱える

 

 

古代ギリシアの民主政は、しばしば「衆愚政」とセットで語られる。だが『古代ギリシアの民主政』によれば、『歴史学者が「衆愚政」という、価値判断の込められた語を用いてギリシア民主政を説明することは、今日まずありえない』という。実は衆愚政という言葉自体が、もともと民主政を批判するために用いられたもので、中立的な表現ではないのだ、と本書では主張されている。では、民主政を批判するためのレッテルが、古くから用いられてきた理由とはなんなのか。

 

古代ギリシアの民主政』では、その理由のひとつを、民主政を批判する側の声が大きかったことに求めている。古代アテネは民主政の国だったため、一部のエリートが思い通りに国を動かすことができず、不満を抱いた彼らは民主政を批判した。その批判はプラトンアリストテレスの著作として、後世に残された。

アテナイ民主政は、一般民衆が権力を握る支配だっただけに、一部のエリートから憎悪や反感を買った。そしてエリートたちは、民主政を手きびしく非難するテクストを書き残した。その系譜は、プラトンの『国家』や『法律』、アリストテレスの『政治学』のような哲学の古典として、体系的な政治理論の形で近代に受けつがれた。(p7)

プラトンアリストテレスの著作が今でも読み継がれているのに対し、民主政を擁護する側の声は小さい。それはペリクレスの演説などに断片的に見られるだけで、実際に民主政を支えた人々の声は、あまり残されてはいない。だが考古資料からみえてくるものもある。たとえばアテネ裁判員は青銅製の身分証を首から下げていたが、この身分証は、しばしば貧しい市民の墓から副葬品として見つかる。彼らが国家の運営にかかわっていたことを誇りに思っていた証拠である。こうした名もない人々が民主政を支えていたが、残念ながら彼らが著作を残すことはなかった。

 

古代アテネの民主政に過ちがなかったわけではない。たとえば有名なアルギヌサイ裁判では、アテネの将軍6名が暴風雨に襲われた兵士たちを救えなかったとして死刑にされている。有能な将軍たちを市民みずからの手で葬ったこの裁判は、衆愚政における群集心理の典型とみなされている。『古代ギリシアの民主政』では、こうしたアテネ民主政の迷走の背景を解説している。当時アテネペロポネソス戦争のさなかにあり、30万もの人々が避難するため移住してきていたので、異常なほどの過密状況にあった。加えて、この頃疫病が流行しており、多くの遺体がろくに埋葬されることもなく捨てられていた。アテネ市民がきわめてストレスフルな状況に置かれているなか、後世「衆愚政」と批判されるいくつかの出来事が起こった。確かにアルギヌサイ裁判は行き過ぎだっただろうが、古代アテネの民主政の実態を知るには、この後の時代のことも知る必要がある。

 

アテネがスパルタに降伏し、デロス同盟が解体したあと、アテネではスパルタ進駐軍の圧力を背景に「30人政権」が成立した。30人政権は護衛隊300人を用いて富裕者を手当たり次第に逮捕し、財産を没収した。30人政権は「30人僭主」ともよばれる過激な暴君集団であり、アテネ市民には恐怖とともに記憶に刻まれる体制だった。しかし30人政権は一年も続かず、民主政が回復すると、アテネ市民は30人政権の残党との共存を選んだ。多くの市民が30人政権を恨んでいたが、それでも「悪しきことを思い出すべからず」と誓いを立て、報復することはなかった。政治学者Y・シュメイルは「民主主義とは嫌いな人々との共生である」と主張したが、アテネ市民はこれを実践したことになる。寡頭制支配の失敗を経て、アテネ民主政はより成熟した体制になった。

 

古代ギリシアの民主政』によれば、アテネ民主政の最盛期は前四世紀になる。ペロポネソス戦争の敗北で覇権は失ったものの、この時期アテネは民会の出席者数を確保するため、民会手当を導入している。この結果、前五世紀には年10回程度だった民会の回数はは、前四世紀後半には40回程度にまで増えている。市民の政治参加意欲も旺盛で、ほとんどの市民が生涯に一度は評議員を務めた。民衆裁判所の制度も整備され、前325年頃には複合裁判施設がアゴラの北東部に建設された。ペリクレスは「政治に無関心な者は役立たずとみなされる」と言ったが、前四世紀のアテネでもこの価値観は維持されていたことになる。アテネの民主政は、その後変質しつつもも生きながらえる。民主政の期間をクレイステネスの改革からローマ共和国のスラに占領されるまでとするなら、四百二十一年間も続いたことになる。

 

しかし、こうした歴史的現実としての民主政は忘れ去られ、有徳のエリートによる統治を理想とするプラトンアリストテレスの教説が権威になった。西欧では、彼らの著作を読むエリートたちは王権を擁護する立場にあり、民主政など危険な体制としか捉えない。市民革命の時代に入っても理想とされたのはローマ共和制であって、アテネの民主政ではなかった。そして反革命側のエドマンド・バークは、アテネ民主政をフランス革命と同様の暴虐とみなしていた。西欧思想界における反民主主義の伝統は長く、第二次大戦後にようやくこれが払拭されることになる。

民主主義が普遍的な価値として、ようやく体制のちがいを超えて認められるようになったのは、「ファシズムと民主主義の戦い」に連合軍が勝利した第二次大戦後のことである。そしてギリシア民主政の実証的研究が、碑文や考古学的遺物などの史料も用いて各国の歴史学界で本格化するのは、1970年代になってからであった。(p234-235)