明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなど

西郷隆盛の銅像の謎から最後まで1冊でわかる『西郷どんと呼ばれた男』

 

西郷どん(せごどん)とよばれた男

西郷どん(せごどん)とよばれた男

 

西郷隆盛銅像の謎

 

大河ドラマの予習をする場合、やはり時代考証を担当している人が書いたものを読むのが間違いがない。その意味で、2017年大河『西郷どん』の時代考証を担当する著者の書いた本書は安心して読める。

 

本書の面白いところは、まず西郷隆盛の容姿から話が始まっているところだ。

西郷隆盛の写真が残されていないため、西郷の容姿は有名な上野の銅像を誰もが想像する。しかし、あの銅像を見て「こげんお人じゃなかった」と言った人がいる。

 

こう言ったのは西郷の3人目の夫人、糸だ。この話は作家の海音寺潮五郎が西郷の孫に当たる西郷吉之助から聞いた話ということで、西郷像は実際の西郷隆盛には似ていない、という説の根拠になっている。

 

しかし本書によれば、糸の言った「こげんお人じゃなかった」というのは、「容姿が似ていない」という意味ではないようだ。糸が言っているのは「夫はあんな無様ななりで人前に出ることはなかった」ということであって、容姿のことではない。

作者の高村光雲は本当は陸軍大将の服を着ている姿にしたかっのだが、建設委員に一時は賊軍の大将だった西郷が軍服を着ているのは穏やかではないと言われ、結局ウサギ狩りをしている姿になった。糸夫人からすればそれが良くなかったらしい。似ているからこそ普段の姿と違う銅像が残ってしまうのが嫌だったのだろう。

 

海音寺潮五郎は西郷に最もよく似ていると言われた孫の西郷隆治氏を電車の中で見かけたときのことを「あれほど見事な男ぶりの人を見たことがない」と述懐している。178センチの(当時としては)巨漢で目鼻立ちのはっきりした西郷は、風貌だけでもずいぶんと目立つ人だっただろう。

 

 剣術を諦めた少年時代

これだけ体格に恵まれていたのだから、西郷が武道の道に進む可能性もあったかもしれない。西郷は御小姓与という、薩摩の身分制度では下から2番めの身分になる。しかし、龍馬が千葉道場に入門したように、身分が低くとも剣や学問に秀でることで身分の壁を超えることもできなくはない。

だが、西郷は剣の道に進むことはできなかった。西郷の評判を妬んだ横堀三助が西郷に斬りかかり、右肘を痛めてしまったからである。これでは示現流も存分に使うことができない。結局、西郷は剣の道は諦めて学問で身を立てることを願うようになる。

 

その際号が最初に就いた役職が郡方書役助である。郡方書役は農政にかかわる役人で、その年の年貢を決める権限を持っている。西郷の仕事はその助手だ。ここで西郷は、優れた上司である迫田利済の影響を大いに受けることになる。

農民を思いやる気持ちの強い迫田は台風の被害の強い年に薩摩藩に減税を願い出ているが、聞き届けてもらえなかったために辞職している。この時西郷もともに辞職を願い出ようとするが、迫田は職に留まって民のために力を尽くせと諭したという。結局、西郷はこの職を十年間務めた。

 

郡方書役助として働くかたわら、西郷は青少年の教育係のリーダーである二才頭を務めている。西郷は朱子学の入門テキストである『近思録』を購読する会をしばしば開いていたが、この購読会は後に「誠忠組」として薩摩の藩政を動かしていく存在になる。

 

島津斉彬に才能を見出される

こうして農民の窮状を自分の目で見た経験が、やがて西郷を歴史の表舞台に引き上げていくことになる。西郷が最初に藩に出した意見書は、薩摩のお家騒動「お由羅騒動」に関するものだった。斉彬の藩主就任を邪魔した者たちを斉彬が罰しなかったことを、西郷は批判したのである。

斉彬はこの意見書に対し、丁寧な返答を送っている。一下級藩士の意見に真剣に向き合おうとする斉彬は、西郷の農政批判にも目を通している。郡方書役助としての経験がここで活きることになった。西郷の批判は「この国ほど農政が乱れているところはない」というほどに厳しいもので、江戸で生まれ育った斉彬には薩摩の実情を教えてくれる西郷の存在は貴重だったと本書では指摘されている。

 

ペリーが来航し、阿部正弘に要請されて出府することになった斉彬は西郷を伴に加えることになった。そして江戸で西郷が任じられたのが「御庭方役」である。表向きは植木職人のような仕事だが、庭で直接斉彬と接することができるためスパイ的な役割を背負ったとも言われている。

西郷と直接接するようになった斉彬は、藤田東湖など他藩の人間に積極的に西郷を紹介している。江戸で見聞を広めた西郷はやがて斉彬の意を受け、一橋慶喜を将軍の座につけるため活動することになるのだが、斉彬の死と井伊直弼の台頭のため、この計画は中座してしまう。雄藩との協力で国難に対処しようとしていた阿部正弘の路線を、井伊直弼は認めない。水野忠邦のように雄藩を抑圧し、再び幕府が政治の主導権を握ることを井伊は目指していた。

 

井伊の引き起こした安政の大獄で西郷も窮地に追い込まれ、勤皇派の僧月照にも追求の手が伸びてきた。薩摩藩は西郷に月照の殺害を命じるが、斉彬が死んだときに殉死しようとした西郷を止めてくれた月照を西郷は斬ることができない。

結局月照とふたりで入水して果てようとした西郷だったが、自分だけが蘇生してしまい、生き残った西郷は奄美大島への潜伏を命じられることになる。

 

奄美大島で見た薩摩の圧政の実態

奄美大島で西郷が過ごした3年間は、西郷にとり最も私的には充実した期間だったという。二人目の妻である愛加那をこの地で娶り、島民からも慕われている。

西郷がこの島で見たものは、薩摩の圧政に苦しむ島民の姿だった。奄美大島の特産物は黒糖だが、この黒糖を専売にすることで薩摩の財政は支えられていた。

ある時この黒糖を持ち出したとして、島民が拷問を受けた。自らが関わった篤姫の輿入れや慶喜擁立には多くの工作資金が必要だったはずで、その活動が島民を苦しめていたのだ。西郷は役人と直談判し、この島民を釈放させている。農政の役人がキャリアの始まりだった西郷は、島民の実情に心を痛めていたに違いない。

 

西郷の召喚と寺田屋事件

 しかし、この島での生活も長くは続かなかった。井伊直弼に反発し薩摩で勢力を強めた誠忠組の暴発を抑えるため、大久保利通が西郷を呼び戻すことを島津久光に願い出たからである。

西郷をリーダーと仰いでいる誠忠組を抑えられるのは西郷しかいない。ようやく帰還した西郷は、斉彬の遺志を継いで出府しようとする久光を「地ゴロ(田舎者)」と批判した。

これは藩主だった斉彬とは違い、「国父」でしかなく江戸で活動したこともない久光の弱点を正確に衝いたものだが、人は本当のことを言われると怒るものだ。久光は明治19年、この時から25年後にも史料編纂員にこの話を語っているが、いかに久光の怒りが大きかったかがわかる。

 

結局久光は兵を率いて京へ向けて出立するのだが、これが各藩の攘夷派を勢いづかせる結果となり、多くの者が京へと向かった。西郷は彼等の暴発を抑えるため京へ急いだが、命令を無視して西郷が九州を離れたことに久光は激怒する。

久光の出府は公武合体のためではなく倒幕のためだと思いこんでいる誠忠組過激派も、自分に全て任せて待てという西郷の説得を聞き入れたものの、久光は西郷の行動を扇動だと思いこんでいた。西郷が薩摩に戻った後、久光は寺田屋に集まっていた攘夷派を粛清し、薩摩藩士同士が殺し合う結果となった。幕末最大の悲劇、寺田屋事件である。

 

沖永良部島への流罪から長州征伐

 罪人となり沖永良部島へ流罪が決まった西郷は、今度は四畳一間の空間で過酷な牢獄生活を強いられることになる。西郷のいない間、薩摩は久光の引き起こした生麦事件をきっかけにイギリスと戦争になり、鹿児島城下の一割が焼失した。

しかし薩英戦争は薩摩の一方的敗北だったというわけでもなく、実際には世界最強のイギリス艦隊も多くの死傷者を出し、横浜へと撤退している。ニューヨーク・タイムズはこの戦争を「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ」と報じている。

 

京都では八月一八日の政変が起き長州が京都政界を追放されるが、寺田屋事件で多くの志士を殺害した薩摩の失った信用は大きい。失地回復を図るために結局西郷の力が必要になり、再び西郷は久光に召喚されることになる。

愛加那に終の別れを告げ、京に戻ってきた西郷の最初の仕事は、密貿易で儲けている薩摩への反発を和らげることだった。すでに資本主義の海に投げ込まれていた日本からは綿や茶の輸出量が増加し、これらの物品の価格が上昇していたが、その原因が薩摩に帰せられたのである。西郷は薩摩商人の取り締まりを命じてこれに対処した。

 

そして、池田屋事件をきっかけに蛤御門へ攻め寄せた長州兵を西郷は撃退している。この戦いは西郷の名を大いに高めた。その後、第一次長州征伐で交渉役を任された西郷は尾張藩主・徳川慶勝に戦わずに恭順させることが良策だと訴え、結局長州は戦わずして降伏している。

西郷は最初は長州と戦うことを訴えていたのだが、それは西郷のブラフであったとも言われる。なんとなく人格者のようなイメージのある西郷だが、この時点での西郷は一流の策略家だ。そして、「薩賊会奸」と下駄の裏に書いて歩くものがいるほど反薩摩の感情が強い長州に乗り込む西郷は、人並み外れた胆力の持ち主でもある。今後、西郷は要所要所でこのインテリジェンスと胆力を何度も発揮することになる。

 

薩長同盟から倒幕まで

西郷と坂本龍馬との関係は、勝海舟の海軍操練所が廃止されたために西郷に龍馬が援助を求めてきたことに始まる。歴史家の磯田道史は、龍馬の真価を「坂本海軍」を創設したことだと『龍馬史』で評しているが、この頃航海士の不足していた薩摩にとって龍馬の持つ航海技術は確かに必要なものだった。

 

家老の小松帯刀とともに亀山社中の設立を助けて龍馬との関係を深めた西郷は、結局龍馬の仲立ちで薩長同盟を成立させることになる。薩長同盟が成立した三日後、寺田屋で幕府の役人に襲われ負傷した龍馬に霧島での療養を勧めたのは西郷だったと言われるが、本書によれば実際に勧めたのは小松帯刀だったらしい。

 

薩長同盟が成り、薩摩を失った幕府は第二次長州征伐に失敗した。幕府の弱体化を見て取った西郷は、倒幕も視野に入れて行動するようになる。大政奉還が成ってもまだ幕府の力を奪うには不充分であるから、小御所会議では慶喜の辞官と領地返還に反対する山内容堂を抑えるため、休憩時間に助けを求めてきた薩摩藩家老に「いざとなれば短刀一本あれば片付く」と言ったとも伝えられている。この発言が土佐藩に伝わったため、会議が再開された後は反対は出なかった。

 

 慶喜は一度江戸に戻ってしまうが、西郷が江戸に送りこんだ益満休之助が江戸を撹乱したため、怒った慶喜は薩摩を討つため京都へ進撃することを決める。この西郷の活動には本書では触れていないのだが、西郷を「偉人」として書きたかったためだろうか。いずれにせよ、西郷の挑発に乗せられた慶喜は錦の御旗を見て戦意を喪失してしまったため、鳥羽・伏見の戦いは幕府の敗北に終わった。歴史家の井上清はこの間の西郷の働きを「西郷の大謀略」と評している。こうした容赦のない策士としての働きも、西郷の一面であることは間違いない。

 

日本史最大の奇跡・廃藩置県

 

勝海舟との会談で江戸城無血開城させた後、西郷は奥羽戦争でも指揮を採っているが、庄内藩の処置をすませるともう自分の仕事は終わった、と薩摩に帰っている。しかし、明治政府は西郷の胆力をまだ必要としていた。

倒幕後の青写真を何も描いていなかった薩長にとり、むしろここからが明治維新の本番だと言ってもいい。何しろ藩はまだそのまま残っている。これを解体してしまわない限り、本当に幕府を倒したことにはならない。

 

廃藩置県を実行する前に、まずは明治政府の軍隊が必要になる。この兵はいざとなれば島津の殿にも弓を引かねばならない、という山県有朋の念押しをあっさり承諾し、西郷は御親兵1万を組織する。どこの藩のものでもない天皇直属の軍隊を作った西郷は、この力をバックにいよいよ廃藩置県へと踏み出すことになる。

 島津久光をはじめ、全国の大名からの強力な抵抗が予想されたが、結局「もし暴動が起きたら自分が鎮圧する」という西郷の一言が後押しとなり、廃藩置県は発布された。パークスに言わせれば、欧州では数年間戦争をしなければできないような大改革が、血を流すことなく成し遂げられた。西郷の胆力と人望なくして、この大改革は不可能だっただろう。

 

そして、西郷は徴兵令にも手をつけている。戦争のプロであるはずの武士を解雇することになるこの政策には抵抗が大きく、実際にこの政策を進めていた山県有朋は一度は辞職せざるを得なかった。しかし、西郷が「この上なお山県中将の責任を追求するなら、この西郷が相手をする」と言ったことによって反対派の勢いが急に衰えている。ここでも西郷の権威は必要とされていた。こうして自らが作り上げらた近代的軍隊と、いずれ西郷は西南戦争で戦わなければいけないことになる。

明治六年の政変から西南戦争まで

 「西郷は征韓論など唱えていない」という主張がある。本書もその立場だ。というのは、朝鮮に対して武力行使を行うべきだという主張に対し、あくまで礼儀正しくこちらの意図を説明するべきだと主張したのが西郷だ、というのである。このような西郷の立場を、本書では「遣韓論」と説明している。

自分に護衛兵を付けることにすら反対したこの時の西郷は、第一次長州征伐の折に交渉のため敵地に乗り込んだときの姿に重なる。胆力が服を着て歩いているような西郷ならではの提案だが、この「遣韓論」は大久保利通に阻止され、西郷は下野することになった。

 

再び薩摩に帰った西郷は私学校の吉野開墾社を設立し、自らも鍬を握っている。若い頃農政の役人だった西郷にとり、殖産興業を盛んにしようとする大久保のやり方よりも農業に力を入れるほうが性に合っていたらしい。この間、西郷は大山巌から欧州訪問の誘いを受けているが、断っている。西郷が一度でも欧州の繁栄を見ていれば大久保の政治姿勢も理解できたかもしれないし、西南戦争も回避できたかもしれないが、西郷にとっては遠い海外の地を踏むよりも目の前の大地を耕し、若者を指導することのほうが大事だった。

 

西郷が下野してからも廃刀令や家禄の支払いの中止など、武士の誇りと生活の糧を奪う政策が実施されている。士族の多い私学校の生徒は当然不満をつのらせ、西郷に期待を託すようになる。私学校の影響力を恐れた政府は密偵を送り込むが、私学校の生徒に捕まった密偵は西郷を暗殺する計画があったと白状してしまう。

これを聞き、生徒達が県内各地の施設を襲撃し、明治政府が差し押さえようとしていた武器弾薬を奪ったことがきっかけで、西郷は決起せざるを得なくなる。生徒達を政府に犯罪者として引き渡さないのなら、自らが彼等のリーダーとして挙兵しなくてはならない。

 

ここで西郷は、「おいの身体は差し上げもそ」と言っている。この言葉を、著者は「西郷が自己決定を諦めた結果」のものだと説明している。実際、西南戦争において西郷は作戦を立てることもなく、陣頭で指揮を採ってもいない。戦うのは本意ではなかったということになる。

では、西郷はなぜ戦ったのだろうか。ここから先は憶測だが、西郷は廃藩置県や徴兵制など、武士の特権を剥奪する改革に深く関わっている。近代国家を作るために必要なことだったとはいえ、西郷の力が日本から武士階級を消滅させることになったとも言える。

そのことに対し、西郷なりに責任を感じていたのではないだろうか。だから、西郷は士族の多い私学校の生徒たちの不満を一身に引き受けなくてはならなかった。しかし武士階級の軍隊も装備の優れた明治政府の兵士に勝つことができず、西郷は城山で別府晋介に首を打たせて果てた。武士が徴兵された百姓や町人の兵士に敗れ去った西南戦争で、ようやく封建制の最後の抵抗が終わった。西郷隆盛は文字通り、明治のラスト・サムライだった。

 

西郷隆盛という人物をどう評価するか

個人的に幕末史に疎いこともあり、西郷隆盛の一生を追うのはけっこう骨が折れた。「敬天愛人」のような言葉を好んでいたことにも見られるように、「偉人」「哲人」のようなイメージのつきまとう西郷なのだが、その一生を眺めてみると、まず際立っているのはそのとてつもない胆力だ。そしてその胆力が優れたインテリジェンスを活かすのに役立っている。松平春嶽徳川慶喜を評して「才知が優れていても胆力がなければ意味がない」と言っていたそうだが、西郷はその両方に恵まれていた。こうした力が、明治維新の推進力になっている。大きすぎる人望の影に、こうした能力が隠れて見えにくくなっているという印象がある。

 

西郷の扱いは、中国史における劉邦劉備の扱いに近いのではないかと思う。人望があるために多くの人に慕われる、みたいなイメージなのだが、実際のところ、動乱の時代に人望だけで人を動かしていくことなど不可能だ。実際は劉邦劉備もかなり有能な人物だったのではないかと思う。西郷の人望がずば抜けていたことは間違いないのだが、それ以上に西郷は有能な指導者であり、革命家だった。

 

 このような西郷が、明治の世を平穏に生きていく術はなかったのだろうか。あまり論理的ではない言い方になるが、歴史はそれ自体が意志を持っている、と言われることがある。時代が必要としているうちは、その人物の役割を歴史が用意するのだ、ということである。歴史が最後に西郷に与えた役割とはなんだろうか。西郷は西南戦争の折、徴兵制で作り出された明治政府の軍隊の戦いぶりを見て、「よく戦っている」と言ったともいわれている。西郷は自らが作り出した近代国家の軍隊に時代の主導権を渡すことで、ようやく「幕末」の幕を引くことができた、ということなのかもしれない。