明晰夢工房

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【感想】テンプル騎士団を知りたいならまずはこの本。佐藤賢一『テンプル騎士団』

 

テンプル騎士団 (集英社新書)

テンプル騎士団 (集英社新書)

 

 

アサシンクリードでは悪役側で、とかく怪しげなイメージを持たれがちなテンプル騎士団だが、その実態はどんなものだったか?それを知りたいなら、まずはこの本がいい。西洋歴史小説の第一人者・佐藤賢一が、テンプル騎士団の発祥から十字軍における活躍、組織のありようから金融活動の実態まで、わかりやすく解説してくれている。

 

この本は作家が書いたものらしく、第一部「テンプル騎士団事件」はテンプル騎士団の崩壊という劇的な場面から筆を起こしている。フィリップ4世の時代、13日の金曜日にパリのタンプルに踏み込まれ、総長ジャック・ドゥ・モレー以下138人のテンプル騎士団員が一斉に捕縛された。パリのみならず、フランス全土でこのような逮捕劇がくり広げられたが、パリで逮捕された騎士団員は拷問を受け、38人が痛みに耐えかねて死んでいる。異端の疑いをかけられたとはいえ、ここまで仮借のない弾圧を加えられるテンプル騎士団とは一体なんなのか、という興味が、読者の心には沸く。

 

ここから、話は第1回十字軍へと飛ぶ。フランス王にも目をつけられるほどの脅威となったテンプル騎士団も、その始まりはごくささやかなものだった。ユーグ・ドゥ・パイヤンとゴドフロワ・ドゥ・サントメールという二人の騎士が巡礼者の保護や巡礼路の警備をはじめたのがテンプル騎士団の起源だが、かれらは二人で一頭の馬に乗ったともいわれるほど貧しかった。騎士の数はしだいにふえていったものの、それでもテンプル騎士団は貧乏所帯の小集団に過ぎなかった。

 

だがユーグ・ドゥ・パイヤンの旧主・シャンパーニュ伯ユーグが俗世を捨て、テンプル騎士団の活動に身を投じるにいたり、フランスでは俄然テンプル騎士団への関心が高まった。さらに修道院改革の旗手・聖ベルナールの激賞を受け、ますますテンプル騎士団の評判は高まっていく。トロワ会議ではテンプル騎士団は新しい修道会と認定され、会則も整備された。修道会と認められればかれらは教皇の直属の組織となり、十分の一税を納める必要もない。堂々たる特権団体である。しかも独自の徴税権まで認められている。目を見張る躍進ぶりだが、テンプル騎士団にはあてにされるだけの理由がちゃんと存在していた。 

 

テンプル騎士団が重宝された理由として、それが強力な戦力だったことがあげられる。かれらは修道会の規則に従い禁欲的で、戦いに臨めばとにかく勇猛だ。十字軍として当方に派遣されてくる軍隊は、ほぼ封建軍である。封建軍は年40日間しか戦わせられないという縛りがあり、 騎士は家名のため戦うので集団行動に適さない。頭数だけそろえても足並みがそろわないのである。対して、テンプル騎士団は己の名誉のためではなく、神のために戦う。修道士でもある彼らはエゴの克服を求められており、日本風にいえば「滅私奉公」を体現する軍隊なのである。

ために、テンプル騎士団は死を恐れず戦う。しばしば総長以下、ほぼ玉砕に等しい無謀な戦い方すらする。しかも封建軍と違い、かれらは西方に帰ることがない。騎士団の支部に帰るだけなのである。味方とすればこれほど心強い戦力はない。封建軍が主体の中世において、テンプル騎士団はいわば常備軍のような存在だったのである。

 

これほど使い勝手がよく強力な集団なので、テンプル騎士団は多くの諸侯の支持を集め、その組織はより強力になっていく。テンプル騎士団はヨーロッパ各地に多くの管区を持ち、それぞれが居館や荘園をそなえ、テンプル騎士団の活動を支える拠点となる。ヨーロッパの管区は戦いの最前線でないとはいえ、テンプル騎士団は戦闘集団なので、それぞれの支部は城塞としての役割も果たす。配置されるのは老兵や怪我をしたもの、あるいは新米騎士などで、兵力としてはいささか頼りない。しかしそれでも常備軍ではあり、封建軍とくらべても劣るものではないのである。

テンプル騎士団支部ネットワークは強力だ。テンプル騎士団はただ点として管区を支配しているのではなく、水運も押さえていて、フランスの川沿いの上流から下流までを繋ぐ形で支部を置いていた。さらには「テンプル街道」と呼ばれる陸路まで建設し、物資輸送の便をはかっている。治安の悪い中世において、テンプル騎士団支部が連なるテンプル街道なら安心して輸送が可能だ。これは画期的なことである。戦いの最前線である東方ではさまざまな物資がいる。もちろん現金も要る。これらを安全に運べる街道があるのだから、当然流通は活性化される。自然、テンプル騎士団も商取引に手を出すことになり、パリでは自ら肉屋も営業していたという。

 

このテンプル騎士団の密接なネットワークは、ただ流通網として役立ったわけではない。謹厳な修道騎士の集まりであるはずのテンプル騎士団は、なんと金貸しにも手を染めていた。東方からヨーロッパ各地に多くの支部を持ち、しかも各支部は堅固な城塞をそなえ武力で守られているからには、テンプル騎士団は金庫として大いに役立つことになる。手形一枚あれば、ある支部で預けた金を別の支部から引き出すこともできる。安全な預け先だから多くの現金がテンプル騎士団に集まることになり、この資金を元手に貸し出しも行える。ルイ9世やジョン王などもテンプル騎士団から借金している。もはや中世ヨーロッパの銀行である。たった二人の騎士からはじまったテンプル騎士団は、気がつけば巨大な経済力を持つ特権団体に成長していた。

 

ここまで描写したところで、話は冒頭に戻る。フランス王フィリップ4世からすれば、このような集団は目障りでしかたがない。フィリップ4世美王は教皇ボニファティウス8世と争い、アヴィニョン捕囚事件を起こしたことでも知られる。王権を強化したい側からすれば、国家を横断する中世的権威など邪魔でしかないのである。フランス国内にテンプル騎士団が盤踞しているぶんだけ、フランス支配には穴が開く。税収も減る。軍事力と組織力と経済力をあわせ持つこの集団を、どうにかして潰さなくてはならない。フィリップ4世にとってのテンプル騎士団は、信長にとっての本願寺のようなものだっただろうか。いや、結局本願寺と和睦した信長より、フィリップ4世ははるかに苛烈だった。総長ジャック・ドゥ・モレーを火刑に処したフィリップ4世と3人の息子が次々と逝き、カペー朝が断絶したことがテンプル騎士団の呪いと噂されたのも、必然というべきだろうか。